125 メリアローズ、不名誉な噂を立てられる(4)
「えぇ、とてもいい夜ですね、エドモンド様」
内心の動揺を押し隠し、メリアローズは現れた青年に笑顔で応対した。
彼はメリアローズよりも二歳ほど年上の、ある伯爵家の貴公子だ。
名はエドモンドという。柔らかな笑顔が特徴的な、穏やかな性格の青年だ。
王宮勤めでここ最近メリアローズたちのお茶会にも出席するようになり、例の噂が出回っても変わらずやって来てくれるのはありがたいのだが……。
――彼は、あの噂を知らないのかしら……。それとも、知っていても変わらずに接してくれているのかしら?
思案するメリアローズに、エドモンドは柔らかな笑みを向ける。
「お姿が見えないのでどうされたのかと思いきや……こちらにいらしゃったのですね」
「風が気持ちいいので、涼んでいたところですの」
一人で落ち込んでました、とも言えず、メリアローズはさりげなさを装ってそう答えた。
それにしても何故彼は、ここまでメリアローズを探しに来たのだろうか。
ただ単にメリアローズのことを心配しただけなのだろうか。それならばいいが……。
――あんな噂が流れている今、殿方と二人っきりになるのは避けた方がいいわ……!
例え何もなかったとしても、怪しまれるような行動は避けるべきだ。
メリアローズだけではなく、エドモンドにまで迷惑をかけてしまうかもしれない。
そう判断し、メリアローズは会場に戻ろうと足を進める。
「少し冷えてきましたわ……。わたくし、会場に戻ろうと思いますの。エドモンド様も――」
言葉の途中で、エドモンドは強くメリアローズの腕をつかんだ。
いきなりの行動に、メリアローズは驚いて口をつぐんでしまう。
「本当に、いけない人だ」
いつものように穏やかな笑みを浮かべたまま、エドモンドはメリアローズに顔を近づけ囁く。
「そうやって、私を焦らしているのでしょう?」
「ぇ…………」
聞き返す間もなく、エドモンドは掴んだままのメリアローズの腕を強く引く。
はずみでよろけたメリアローズは、あっさりと彼の腕の中におさまってしまった。
「な、なにを……」
「大丈夫、わかってますよ。あなたが一人でここにいたのも、私を待っていたのでしょう?」
「は? 違うんですけど」などと反論することもできなかった。
あまりの急展開に、頭も心もついていかないのだ。
「ずっと待っていました、こうしてあなたに触れられる日を……」
彼の指先が背中から腰にかけてのラインをなぞり、メリアローズは酷い不快感に身を震わせる。
「やめっ……きゃっ!」
エドモンドを押し返そうとしたが、逆に強い力でバルコニーの柱に押しつけられてしまう。
穏やかな青年の突然の変貌に、メリアローズはひっと息をのむ。
そんなメリアローズを見て、エドモンドは口角を上げる。
見慣れた穏やかな笑みが、とてつもなく恐ろしく思えた。
「他の男に対しても、そうやって煽るのですか?」
「なにを、言ってるの……」
「あのサロンに出入りする者のうち、いったいどれだけの男がこうしてあなたに触れたんです?」
一瞬の後、メリアローズは彼の言葉の意味を理解する。
その途端湧き上がってきたのは、燃えるような怒りだった。
彼は、メリアローズに関しての噂を真実だと思っているのだ……!
「ふざけないで! 私はそんな――」
エドモンドの体を押し返し、メリアローズは彼の手から逃れようとした。
だが今度はむき出しの肩を掴まれ、再び強く柱に押しつけられる。
「つぅ――!」
「それも演技なのですか? 嫌がる振りをして、男を翻弄するなんて悪い人だ。あぁ、それとも……」
エドモンドはメリアローズの耳元に顔を近づけ、低く囁く。
「強引にされるのが、お好みで?」
その言葉を聞いた途端、メリアローズの肌がぞわりと粟立つ。
「ひっ、やめて……!」
必死に逃れようともがいたが、力の差は圧倒的だ。
急所を蹴ろうと振り上げた足も空ぶって、メリアローズはいよいよ窮地に陥ってしまう。
「本当に、いけない人だ。こんな風に、男を惑わす香りを漂わせて……」
首筋のあたりに鼻先を押し付けたエドモンドがそう囁く。
メリアローズはその気持ち悪さに吐気がした。
――違う。私はそんなふしだらな人間じゃないわ……!
そう叫びたいのに、体が凍り付いたように動かない。
恐怖と混乱で、目尻に溜まった涙がぽろりと頬を伝い落ちる。
その時だった。
バルコニーへと続く扉が突然開き、そこに一人の人物が姿を現す。
逆光で表情まではうかがえなかったが、メリアローズにはそれが誰なのかはっきりとわかった。
「ウィレム……!」
メリアローズはとっさに彼の名を呼ぶ。
ウィレムは後ろ手に扉を閉めると、足早にこちらへと歩いてきた。
エドモンドはウィレムの姿を確認すると、舌打ちして吐き捨てる。
「……おい、空気読めよ。いくら彼女のお気に入りでも、今日は私が先約だ。彼女に用があるなら明日にでも――っ!」
言葉の途中で、ウィレムはエドモンドの胸倉を掴み上げた。
「やめっ……放せっ!」
エドモンドがウィレムを殴りつけようと拳を振るうが、あっさり止められ腕を捩じ上げられていた。
よほど強い力で捩じ上げたのだろう。エドモンドの苦悶の声と、ミシミシと骨がきしむ音が聞こえるようだ。
「ひっ……折れる!」
「黙れ」
恐ろしいほど冷たい声でそう凄むと、ウィレムはエドモンドの胸倉を掴んだまま、バルコニーの手すりへと押し付けた。
このバルコニーの手すりは、成人男性の腰の高さほどしかない。高さを考えると落ちても死ぬことはないだろうが……ただでは済まないだろう。
それでも、まるでそこから落とそうとするかのように、ウィレムは手を緩めない。
大きくのけぞり、上半身を中空に浮かせる不安定な体勢になったエドモンドは、情けない悲鳴を上げた。
「やめ……やめてくれ! 本当に落ちる!!」
「誓え。今すぐ姿を消し、二度と彼女に近づかないと。それで見逃してやる」
「誓う! 誓うから……助けてくれ!!」
エドモンドがそう叫んだ途端、ウィレムは彼の胸倉を掴んでいた手を離した。
「ひぃっ!」
エドモンドはバランスを崩しかけたが、何とかバルコニーの内側へと舞い戻った。
まるで恐ろしい物でも見るような視線をウィレムに向けると、彼は慌てたように大広間へと逃げ出していく。
メリアローズは身を震わせたまま、ただその光景を見ていることしかできなかった。
大広間とバルコニーをつなぐ扉が閉まり、その場は静けさを取り戻す。
メリアローズがおずおずとウィレムの方へ視線を向けると、彼も同じようにこちらを見ていた。
視線が絡まり合った途端、安堵からメリアローズの体の力が抜けてしまう。
「メリアローズさん!」
慌てたように走り寄ったウィレムがメリアローズの体を支える。
彼の暖かなぬくもりに包まれ、心配そうな光を宿した翡翠の瞳に見つめられた途端、一気に耐えていたものが溢れてしまった。
「……かった。こわ、かった…………!」
震える指先で、メリアローズは必死にウィレムの服を掴んだ。
するとすぐに、安心させるように強く抱きしめられる。
「もう、大丈夫ですよ」
耳元で響くのは、大好きな彼の声だ。
そう意識したら、もう駄目だった。
ウィレムの胸に顔を押し付けるようにして、メリアローズは声を押し殺して泣いた。




