105 新たな季節(2)
「相変わらず君たちは仲がいいね」
更にびしょぬれになって池から上がってきたバートラムと、仕方なく彼にハンカチを貸してやったメリアローズを見て、ユリシーズが笑う。
学園を卒業し、いよいよ王太子として本格的に国政に関わることとなったユリシーズだが、完璧王子の名は伊達じゃなかった。
彼は慣れない政務にも少しも疲れを見せることはなく、持ち前の優秀さが高官たちの度肝を抜いているのだとか。
まったく、この王子に弱点というものはないのかしら……? と、メリアローズは乾いた笑いが出そうになってしまう。
「バートラム、メリアローズさんを困らせるのはやめろ。公務執行妨害でしょっ引くぞ」
「酷っ! 今日に限っては俺は被害者だからな!?」
ぎゃんぎゃんと喚くバートラムに対し、ウィレムは不機嫌そうな様子を隠そうともしていない。
そんなウィレムが身に纏うのは、白を基調とした騎士の装束――王立騎士団近衛隊の正装だ。
彼は学園を卒業後、兄の後を追うようにして王立騎士団へと入団を果たした。
所属はなんと……主に王族の護衛の任を担う、花形の近衛隊だ。
ユリシーズの推薦もあったと聞いているが、彼自身の実力なら当然だと、メリアローズはまるで自分のことのように誇らしく思ったものだ。
王立騎士団は所属ごとに色の違う騎士服を身に纏っており、ウィレムの所属する近衛騎士隊は白が正装となっている。
白の騎士服を身に纏い、腰に剣を佩いたその姿は、まさにおとぎ話の騎士そのものだった。
初めてその姿を見たときはあまりにも眩しすぎて、メリアローズは直視できずに逃げ出してしまったものだ。
――はぁ、メガネの癖に、メガネの癖に……! かっこいいんだもの……!!
そんなことを考えながら、バートラムと口喧嘩を続けるウィレムをぽぉっと眺めていると、傍らから視線を感じた。
見れば、ユリシーズが生暖かい視線をこちらに注いでいるではないか。
きっとこの完璧王子には、メリアローズがウィレムに見惚れていたことなどお見通しなのだろう。
その途端に恥ずかしくなり、メリアローズは慌てて咳払いをして足元の本を拾う。
……もちろん「クールな騎士のイケナイ♡誘惑」は真面目な本の間に挟んで、傍からは見えないようにしておくのを忘れずに。
「失礼、そろそろリネットの授業が終わる頃合いなので、戻らせていただきますわ」
「あぁ、頼むよ、メリアローズ」
「リネットとジュリアによろしくな」
「気を付けてくださいね」
見送る三人に軽くお辞儀をして、メリアローズは颯爽と歩き出した。
メリアローズはリネットの教師の一人として王宮に上がっているのだ。本来の役目をおろそかにするわけにはいかないだろう。
――さて、今日の授業の内容は……。
メリアローズはリネットの妃教育において、「作法の教師」の一人となっている。
リネットはユリシーズの婚約者。順当にいけば、未来の王妃だ。
王妃とは国のトップたる国王を支える重要なポジションであり、国母とも呼ばれる存在である。
それゆえに、中途半端な覚悟では務まらないのだ。
リネットも伯爵令嬢。基本的なマナーは押さえているだろうが、王太子妃となれば更なるハイレベルな水準が求められる。
作法に教養に外国語に……学ぶことは山ほどあるのだ。
メリアローズはリネットの苦労を思って嘆息した。
――敵も多いでしょうし、気は抜けないわね……。
淑女にとっての美しい所作は、それだけで大きな武器になる。
ウィレムは剣を手に戦うが、メリアローズたちはそうではない。
淑女には淑女なりの、武装や戦い方があるのだ。
メリアローズは曲がりなりにも、幼い頃からユリシーズの妃候補として育てられてきた。
今までは何故こんな面倒なことをしなければならないのか、と密かに舌打ちしていたが、やっと長年の努力が実を結ぶ時が来たのだ。
メリアローズが会得したものをリネットに伝授し、彼女を完璧な王太子妃に鍛え上げなければ。
一見涼しげな顔をしながらも、メリアローズは内心メラメラと闘志を燃やしていた。
――ジュリアの方もなんとかしないといけないわね。あの子、まるで基本がなってないんだもの。
在学中に何度もメリアローズの度肝を抜いてくれたあの田舎娘も、今やリネットの侍女見習いとして王宮を闊歩するレディの一人となっている。
今朝も螺旋階段の手すりを猿のように滑り降りたところを、しこたま叱りつけたばかりなのだ。
あの野生児にどう作法を叩きこむか……と思案しながら、メリアローズはゆっくりと大理石の回廊を進んでいく。
――あ、そういえば……。
ふとあることを思い出し、回廊の角に差し掛かったところで、メリアローズは唐突に足を止めた。
「貸出期限も近いし、書庫に寄って行こうかしら」
何気なくそう呟いた、次の瞬間――。
「きゃああぁぁぁぁ!!」
急に絹を裂くような甲高い女性の悲鳴が聞こえたかと思うと、メリアローズの目の前を箒やバケツが飛んで行った。
更に王宮の侍女のお仕着せを身に纏う少女が一人、掃除道具の後を追うようにしてメリアローズの目の前で転倒した。
――あらあらあら……新しく入った子かしら。
今のはかなりスピード感のある転び方だった。
大方仕事に遅れまいと走っていたところを、バランスを崩して転倒したというところだろう。
メリアローズはそれとなく周囲を見回す。
幸いなことに、彼女の失態を目にしたのはメリアローズただ一人のようだった。
「いたたたた……あ、すみません!」
少女はやっと今の状況に気が付いたようだ。
おろおろしながらも慌てたように立ち上がり、飛び散った掃除用具を拾っていく。
見る限り、やっと15になるかならないかといった年頃だろうか。
鮮やかなストロベリーブロンドが特徴的な、初々しさを残した可愛らしい少女だ。
上位貴族の子女であれば、彼女くらいの年齢になれば大抵はロージエ学園に入学することになる。
だが、下位貴族の……特に女子であれば、高位貴族の屋敷や王宮に行儀見習いに出るという選択肢もある。
この少女も、おそらく王宮で働きだしたばかりなのだろう。
メリアローズはそう推測した。
――でもこの慌てっぷり……ジュリアだけじゃないのね。
何かにつけて騒がしい友人を思い出し、メリアローズはくすりと笑う。
この少女自身のためにも、一応注意はしておいた方がいいだろう。
ここにいたのがメリアローズだけだったからよかったものの、プライドの高い貴族であればそうはいかない。
今の失態だけで気分を害し、彼女をクビにすることだってあり得るのだから。
「いくら急いでいても、廊下を走っては駄目よ。高貴な方々への失礼にあたるわ」
「も、申し訳ございませんっ……!」
メリアローズがやんわりと注意を入れると、少女は地面につきそうな勢いで頭を下げた。
この様子だと、きっともう同じ過ちは犯さないだろう。
そう判断し、メリアローズはそっと彼女に声をかける。
「わかってくれたのならそれでいいわ。これからは気を付けてね」
「はっ、はい……」
頭を下げたままの彼女を微笑ましく思いながら、メリアローズは書庫を目指して再び歩き出す。
その背中を、頭を上げた少女がじっと見ていたとは知らずに。
「メリアローズ・マクスウェル……」
彼女の小さな呟きは、既に次はどの本を借りようかと思案するメリアローズには届かなかった。
「絶対に、絶対に許さないんだから……!」