96 王国祭の夜
「…………ふふ」
王宮の一角、賓客用の寝室のバルコニーから外を眺め、メリアローズはくすりと笑う。
夜の帳が下りても、王国祭の熱気は収まる気配はない。
開放された王宮の庭園には多くの人たちが集まり、軽快な音楽と共にダンスに興じていた。
あちこちに灯された明かりが、人々の笑い声が、疲れたメリアローズの心をそっと癒していくようだった。
剣術大会の最中に王太子であるユリシーズとリネットが狙われ、さらなる襲撃があるのでは……と危惧されているが、今のところそのような気配は微塵もないようだった。
まだ完全に安心は出来ないが、少しくらいは気を緩めてもよいのかもしれない。
「……夜風は体に障りますよ」
背後から優しく声を掛けられ、メリアローズは微笑みながら声の主を振り返る。
「そうね、そろそろ戻ろうと思っていたの」
「お疲れでしょう。もっと休んでください。俺が見張ってますので」
真面目な顔でそう告げたウィレムの言葉に従い、メリアローズは外の喧噪に背を向け室内へと足を踏み入れた。
ウィレムがバルコニーへ繋がる扉を閉めると、その途端に室内に静寂が落ちる。
だが、部屋の中にはどこか心地よい空気が流れていた。
「でも残念だったわね、ロベルト様と決着がつかなくて」
「いえ……大勢の前で醜態を晒さずに済んだかもしれません。彼は、強い」
ウィレムとロベルトのエキシビションマッチは、メリアローズが予定外に打ち上げるよう指示した花火が始まったことにより、途中でお開きになってしまったのだ。
結果的に、様々なアクシデントは起こったが、剣術大会はロベルトの優勝という形で幕を閉じた。
大会が終わった途端メリアローズは限界を迎えて、くたりと倒れかかったところを慌てて王宮に運ばれ、やっと起き上がれるようになったのがついさっきの話だ。
その間、ウィレムはずっとメリアローズについていてくれた。
……というよりも、部屋の外に出ようとすると彼に邪魔されて出られないのだ。どうやらユリシーズが彼に「メリアローズを休ませるように」という命を下したらしい。
メリアローズとてユリシーズやリネット、それに外の様子が気にかかったが、ウィレムの落ち着いた様子を見る限り、大きな問題は起こっていないのだろう。
仕方なく、メリアローズは再びベッドに腰を下ろす。
「今は、今だけは……わずらわしいことは何も考えずにゆっくりと休んでください」
言い聞かせるようにそう声を掛けられ、メリアローズは素直に従った。
考えなければならないことや、心配事はたくさんある。
それでも、今は彼が傍にいてくれる。
たったそれだけのことが、メリアローズにとっては何よりも嬉しく思えるのだ。
大きなぬくもりに包まれているような気分の中、メリアローズは体を横たえそっと目を閉じた。
◇◇◇
「……さま、メリア姉様」
懐かしい声が聞こえた気がして、メリアローズはふと微睡みから覚醒する。
すぐ傍らに人の気配を感じる。思いまぶたをなんとか開くと、心配そうにこちらを見下ろす瞳と目が合った。
「……ジェイル?」
「はい、メリア姉様」
にこにこと嬉しそうに笑うその人物を微笑ましく思いながら、メリアローズは再び目を閉じた。
……が、次の瞬間一気に覚醒して、がばりと起き上がる。
「ジェイル!?」
「わっ、大丈夫ですかメリア姉様!?」
そこにいたのは、確かにジェイルだった。
慌てて部屋の入り口に視線をやると、腕を組んだウィレムがどこか警戒するようにじっとこちらを見つめている。
……ということは、やって来たジェイルをウィレムが通したということなのだろう。
「……おい、あと二分三十秒」
「はいはい、わかってますよ」
謎のカウントダウンを始めたウィレムに、ジェイルは不服そうに口を尖らせた。
さっぱり状況がわからずに目を白黒させるメリアローズに、ジェイルはくすりと笑う。
「お加減はいかがですか?」
「……大丈夫、よ」
……駄目だ。彼に言わなきゃいけないことや、聞かなきゃいけないことがたくさんあるはずなのに、頭が混乱してうまく言葉にならない。
そんなメリアローズの心中を察してか、ジェイルは自ら話を切り出す。
「おそらく、メリア姉様が疑問に思っていることはたくさんあると思います。でも、今はすべてを話している時間はありません。……主にウィレム先輩のせいで」
「あと二分」
肩を竦めるジェイルの背後から、ウィレムの固い声が降ってくる。
「でも大丈夫です。ひとまずの危機は去りましたので。でも――」
ジェイルはそこで一度言葉を切って何かを言おうとしたが、結局は口をつぐんで小さく首を横に振った。
「一分三十秒」
「……駄目だな。僕も、なんて言っていいのかわからないんです。でも。これだけは忘れないでください」
ジェイルの手がそっとメリアローズの手に重なる。
その途端ウィレムの視線が厳しくなったが、構わずにジェイルは続けた。
「貴女は、貴女の思うままに進んでください。きっと、それが一番うまくいくはずです」
「あと一分」
「あんな状況でも、僕は久しぶりにメリア姉様とたくさん話せて楽しかった。できればティータイムもご一緒したかったけど……さすがに贅沢ですよね」
「ねぇ、ジェイル――」
「学園に入って、メリア姉様は少しお変わりになったけど……やっぱり僕の大好きなメリア姉様のままだった。それを思い出せただけで、よかったんです」
「あと三十秒!」
段々とウィレムのカウントダウンの声が鋭さを増していく。
混乱するメリアローズの手を握るジェイルが、まるで指と指を絡めるように繋ぎなおした。
思わず息をのんだメリアローズの目前で、ジェイルはどこか寂しそうに笑うのだった。
「……覚えておいてください、メリア姉様。この先ずっと……どこにいても、いつでも、僕は貴女のことを想っています」
至近距離で、まっすぐにメリアローズの目を見つめて――ジェイルはそう告げた。
そして、驚き固まるメリアローズの視界に、ゆっくりとジェイルの顔が近づいてくる。
「おいっ!?」
慌てたようなウィレムの声が耳に入った直後、そっと頬に柔らかな感触を受ける。
まるで労わるような、慈しむような……優しい口付けだった。
「……昔、メリア姉様はこうやって落ち込む僕を励ましてくれましたよね。だから、僕は――」
ウィレムが続きを口にしようとした途端、やって来たウィレムが険しい表情のままジェイルを体ごとメリアローズから引きはがす。
その途端、ジェイルはぶーぶーと不満を垂れ始めた。
「フライングだ! あと十秒ほど残ってるはずです!」
「俺はメリアローズさんと話すことは許可したが、触れることまでは許可してない!」
「ちょっとした挨拶です。心が狭い男は嫌われますよ。……あっ、もしかして、意外とヘタレなウィレム先輩は、頬にキスすらできていないんですか!?」
「うるさい!!」
怒り心頭な様子のウィレムは、そのままずるずると引きずるようにして、ジェイルを扉の方へ連れていく。
そんな状況でも、ジェイルはひらひらと優雅にメリアローズに手を振った。
「お邪魔してすみませんでした、メリア姉様。それでは良い夢を。それと……」
そう言った彼が目を細めて笑う。
その表情は不思議と、幼い頃の彼を思い起こさせた。
「さっき僕が言ったこと、忘れないでくださいね」
ジェイルがそう告げた次の瞬間ウィレムが力任せに扉を開き、ジェイルをぽいっと扉の外に放り出す。
「……少しこいつと話をしてきます。ここには誰も近づけさせませんので、ご安心を」
「え、えぇ、わかったわ……」
実際はよくわからなかったが、メリアローズは混乱してそう答えてしまった。
ウィレムが後ろ手に扉を閉め、再び室内が静寂を戻す。
しばらくぼぉっとした後……メリアローズはぽふりとベッドに倒れ込んだ。
――もぅ……次から次へと何なのよ!!
いろいろなことが立て続けに起こりすぎて、頭を整理する時間すらない。
だが、今日くらいはゆっくり休んだ方がいいだろう。
――大丈夫、ウィレムともジェイルとも……またゆっくり話せばいいのだから。
柔らかなベッドに身を横たえると、途端に睡魔が襲ってくる。
その心地よさに抗わずに、メリアローズはそっと目を閉じた。