91 元悪役令嬢、ひどい誤解を受ける
片手でメリアローズを抱きしめたまま、ウィレムは耳元でそっと囁いた。
「怪我は?」
「いいえ、大丈夫よ……。あなたこそ、血が――」
「あぁ、これほとんど返り血なので大丈夫です」
「返り血!?」
メリアローズは慌てて顔を上げ、まじまじと彼の全身を検分した。
なるほど、確かにひどい格好だが、彼自身は流血するほど目立つ怪我を負っているようには見えない。
それでも、彼が危険を冒してここに来てくれたのは痛いほどにわかった。
――馬鹿、無茶するんだから……!
再び瞼が熱くなったところで、ウィレムにまた抱き寄せられた。
ウィレムはそのままメリアローズを庇うように、じっと黙って二人のやりとりを見ていた人物へと鋭い声を投げかける。
「メリアローズさんを誘拐したのは君か、ジェイル・リード」
「えぇ、見た通りです。まさかあなたが直接乗り込んでくるとは思いませんでしたけど」
明らかに、静かな怒りが込められたウィレムの声にも、ジェイルは動じなかった。
ジェイルは、ただ微笑んでいたのだ。
ウィレムがジェイルに剣先を向ける。
今にも斬りかかりそうなウィレムを押さえようと、メリアローズは慌てて彼の腕にしがみついた。
「待って! お願い、ジェイルを傷つけないで……!」
「メリアローズさん!?」
確かに、ジェイルはメリアローズを誘拐し、今の今までここに閉じ込めていた。
王家にも次ぐ公爵家の令嬢を誘拐するなど、その場で斬り捨てられてもおかしくはない愚行だ。
だが、メリアローズは何もされていない。せいぜい、美味しそうなケーキを目の前にぶら下げられたくらいだ。
ジェイルにどんな目的があったのかはいまだにわからないが、一般的な誘拐とは少し違う気がしてならない。
それに……メリアローズ自身が、ジェイルに傷ついて欲しくなかった。
こんな目に遭っても、やはりメリアローズにとってジェイルは可愛い弟のような存在だったのだ。
「ねぇ、教えてジェイル。何かこんなことをする理由があったんでしょ!?」
必死にそう問いかけるメリアローズに、ジェイルは自嘲するように笑った。
「……本当に、メリア姉様は人がいいですね」
「あなたのことは、これでもよく知っているつもりよ。何の理由もなくこんなことをするはずがないってこともね」
「僕を過大評価しすぎですよ。僕も愛に狂った一人の男。貴女を独占したいあまり、貴女を攫って閉じ込めた。ただそれだけです」
「いいえ、違うわ」
メリアローズがはっきりと否定すると、ジェイルは驚いたように目を見張った。
……やはりそうだ。どれだけ悪ぶっていても、ジェイルの中にはメリアローズのよく知る、幼い頃のジェイルがしっかりと残っている。
だから、わかる。
ジェイルがこんな大それたことを仕出かしたのには、ちゃんとした理由がある。
メリアローズを独占したいなどという短絡的な理由ではなく、もっとちゃんとした理由が。
「そんなに簡単に私を欺けると思った? 甘い、甘すぎるわ」
そっとウィレムから離れ、メリアローズはジェイルの傍へ足を進めようとした。
その途端ウィレムが慌てたようにメリアローズの腕を掴んで引き留めたが、メリアローズはしっかりと彼に向かって微笑んで見せた。
「大丈夫よ、ありがとう」
「ですが――」
「ジェイルは私を傷つけない。……大丈夫、私を信じて」
優しくそう言い聞かせると、ウィレムは逡巡した様子を見せたが、やがて観念したように頷いた。
「だったら、俺も一緒に」
「剣は仕舞ってね」
そう注意すると、ウィレムは少し不満そうな顔をしながらも、手にしていた剣を鞘に納めた。
もっとも、彼がその気になれば瞬時に剣を抜き相手を斬りつけることも容易いのかもしれないが。
「もう一度問うわ……ジェイル。あなたが私をここに連れてきた、本当の理由を」
二人でジェイルの元へと歩み寄り、メリアローズはできるだけ優しくそう問いかけた。
すると、ジェイルはどこか呆れたように笑うのだった。
「本当に……メリア姉様には敵わないな」
「そうよ、だからさっさと白状しなさい。吐けば楽になれるわよ」
腕を組み、胸を張り、メリアローズはそう言い放つ。
すると、ウィレムまで呆れたように笑うではないか。
「メリアローズさん、その言い方はちょっと……」
「なによぉ!」
苦言を呈するウィレムに口をとがらせると、その様子を見たジェイルは目を細めて口元を緩めた。
そして、くすくすと笑いだしたのだ。
「あはは……本当に貴女はいつもおもしろい」
「ちょっと! 人をピエロみたいに言わないでくれる!?」
「いいえ、誉め言葉ですよ。本当に、昔から……メリア姉様はいつも、楽しくて、明るくて、皆を幸せにする天才だった」
いきなりの褒め殺しに、メリアローズは若干恥ずかしくなった。
そんな自覚はなかったが、ジェイルは昔からメリアローズのことをそんな風に思っていてくれたのだろうか。
「僕はいつも、そんなあなたに励まされていた。あなたがいてくれたから、僕は一歩踏み出す勇気が出た。そんなあなただから、僕は…………誰よりも幸せになって欲しかった」
どこか悲しそうに笑って、ジェイルはそう告げた。その言葉に、メリアローズははっと息をのむ。
きっと、これが……ジェイルの本音なのだろう。
メリアローズも、ウィレムも、すぐにそう悟った。
「本当は、僕がメリア姉様を誰よりも一番傍で幸せにして差し上げたかったけど……自分でも、力不足ってことは承知しています。だから、よかったんです。僕以上に貴女を幸せにできる人が現れたのなら、その人に貴女を任せたかった」
ジェイルの思いの吐露を聞いて、メリアローズはきゅっと拳を握り締めた。
ジェイルは、こんなにもメリアローズのことを考えてくれていた。想ってくれていた。
……少しでも気を抜けば、うっかり泣いてしまいそうになる。
「最初は、ユリシーズ王子がその人だと思っていました。王子の傍にいる時のメリア姉様は幸せそうで、王子なら貴女を間違いなく幸せにしてくれると、そう思ってたんです」
……私の演技力も中々ね、と、メリアローズは秘かに自画自賛した。
昔から、ユリシーズ王子の隣に立つ時は常に緊張が絶えず、とても幸せな気持ちにはなれなかったが……どうやら周りには「幸せそうに王子に寄り添う公爵令嬢」のように見えていたようだ。
……などとあまり関係ないことを考えるメリアローズには気づかずに、ジェイルはぽつぽつと呟いている。
「でも、王子は貴女を裏切った。貴女という婚約者がいながら、別の相手を選んだ。……ユリシーズ王子は、貴女を幸せにするどころか、不幸の底へと突き落とした」
「それは違うわ」
すぐさま否定すると、ジェイルは驚いたようにメリアローズの方を見返してきた。
――やっぱり、物凄い誤解を受けているのね……。
どうやらジェイルは、メリアローズは王子を愛していたが、王子とリネットの為に泣く泣く身を引いた……などと勘違いをしているようである。
事実との乖離に、頭が痛くなりそうなほどだ。
さてどう説明しましょうか……と、メリアローズは小さく息を吐いたのだった。




