チャプター3
朝、まだ陽の昇らぬうちに街を出る。以前発行してもらった出国用の手形はまだ有効だった。やはり、元とはいえ騎士団の中でも親衛隊に勤めていたツァイネの口利きで発行してもらった手形は強い。
早朝の馬車はあまりないのだが、何しろ乗客が少ないので料金が安い。もちろん、そんな理由ではなく、人目につかない時間にこっそり出かけたかったのだ。
(みんなのことだから、お見送りしてくれそうだし、故郷がどこかって訊かれそうだし)
正直、そういうのはあまり好きではないし、あれこれ訊かれては困ってしまう。予定通りこの時間の馬車に乗ることができて、一安心だった。
こんなところで元の姿に戻ってはとてもではないが目立ちすぎるし、誰が見ているかもわからない。だから、飛んでいくのは少なくとも海を、国境を渡ってからにしようと決めていた。多少の旅を楽しみたいという気持ちもあった。港から海を越え、北東に出る。北東の国にはここ数十年行ったことがないので興味があるし、何より自分を知っている人も、「桜色の巨大なドラゴン」を知っている人もいないはずだ。元の姿に戻って飛んでいくのには好都合だった。
「さてと、それじゃあしばしの旅を楽しむとしますか!」
エルリッヒを含む数人の乗客を乗せ、馬車は街道を北上していった。硬い座席の振動も、初めのうちは心地いい。
☆☆☆☆☆☆☆
「着いたぞ〜!」
2週間後、エルリッヒは海を越えた港町『グリュックリンク・ポルトゼー』にたどり着いた。どこの港町もそうだが、潮風とうみねこの鳴く声、そして積荷を上げ下ろしする船員や露店を構える商人たちの活気が心地いい。
港町、そして商業の盛んな町というのは、本当に開放感があって、「よその町に来た」という実感がすぐに得られる。そして、この街に着いてすぐに感じたのは、漆喰の上に塗られた青だった。建物の壁に、青い絵の具で文様が描かれている。次に目に飛び込んできたのも、やっぱり青だった。こちらは屋根。屋根にも、もれなく青色の塗装が施してあった。しかも、丁寧にもこちらは壁の文様よりも少し薄い色で統一してある。
「わぁ! あの、あの青色って、なんなんですか?」
いてもたってもいられず、すぐそばにいた露天商のおじさんに話しかけてしまった。おじさんは最初少し面食らった様子だったが、すぐに真っ白な歯を見せながら教えてくれた。
「ああ、ありゃあな、空と海を表してるんだよ。壁が海で、屋根が空。どっちも、この街にはなくちゃならねぇもんだ」
「じゃあ、あの文様は? あれは何を表してるんですか?」
それは、見たことのない図形のような、線形のような、不思議な形をしていた。一見すると子供の落書きのようでもあり、でも、もしかしたらこの街やこの国に住んでいる芸術家の作品かもしれない。
考えただけで、ワクワクする。
「あぁ、あれはな、この街に昔っから伝わってる模様さ。各家庭に伝わっててな? それを家に描くんだ。ただ……意味までは失われちまってて、あれが何を意味してるのかは、誰にもわかんねーんだ。もしかしたら、家ごとの紋章かもしれないし、昔の文字で書いた名前かもしれないし、今じゃあさっぱりだ。でも、あれが何を意味してるのかって考えただけで、ワクワクするだろ?」
「はい! そのワクワク、すっごいよくわかります! 一体何を意味してて、いつ頃まで伝わってたんでしょうね!」
もしかしたら、いや、もしかしなくても、自分はこの文様の意味が伝わっていた時代にはもう生きていたはずなのだ。そう思うと、その時代にこの街にいなかったことが悔やまれてならない。今まで色々な国や街を行き来してきたが、滅ぶのも伝統が途絶えるのも、数十年あれば十分だったのだから。
「どこかに文献か遺跡でもあればいいのに!」
「おっ、お嬢ちゃんいいこと言うねぇ。おじさんまけちゃうからなんか買ってってくれよな〜?」
唐突に、商品を勧められてしまった。思えば、露天商と話をしていたのだから、こうなるのは必然だった。しかし、この街には一泊だけする予定だったので、何かを買う予定はなかった。まして、このおじさんが何を売っているかということすら、全く気にしていなかった。
「私、旅の人なんだけど、私が買っても意味のあるやつ?」
「もちろんだとも! ずっと南の国から仕入れた果物に、こっちはこの国特産の野菜だ。どれも新鮮だぜ?」
果物と野菜と聞いて、一安心する。それなら、確かに無駄にはならないし、目利きもできる。こう言う露天商の場合、粗悪品を売りつけられることも多く、何も知らない旅行者はまんまと騙されたりするのだ。
幸い、このおじさんはそのようなことをするタイプには見えず、売っている品々も確かに新鮮なものばかりだった。尤も、今回がたまたま善良なおじさんのお店だっただけで、粗悪品をいい値段で売りつけようとするような輩も、悪いものの顔をしたりはしないのだが。
「そうだなぁ。じゃ、このオレンジ一つと、こっちの葉物野菜を少しちょうだい。ひと束だと多いけど、そこは仕方ないか。あ、あと、支払いは銀貨でいいよね?」
「もちろん! オレンジ一つとツヴァイクひと束だと、銀貨十枚ってとこだ」
国が違えば物価も違う。だから、これが安いのか高いのか、本当のところは判断できない部分もあるのだが、当然、払えない金額ではない。まけてくれているという言葉も信じて、ここは快く払おう。
「はい、じゃあこれで十枚ね」
「毎度あり〜!」
通貨が統一されているこの時代に感謝しつつ、銀貨を十枚払った。
〜グリュックリンク・ポルトゼー 港沿いの目抜き通り〜
「えーと、なになに? 三つ目の角を曲がってすぐのところ? あぁ、あそこか」
もう一つついでにとおじさんに教えて貰った「料理の美味しい宿」に向かう。宿屋の名前は『潮騒のささやき亭』というらしい。そのネーミングセンスに、自分の店といい勝負だと思いながら、ドアを開けた。
もちろん、いい勝負だと思ったネーミングセンスには、優劣などない。
「いらっしゃいませ〜。お一人ですか?」
「はい。一人です。今晩一泊、食事付きで取れますか?」
港町に船が着くときは、間違いなく宿が繁盛、つまり混雑するときだ。飛び入り客が泊まれるかどうかは、正直賭けだった。同時に、食堂や酒場もいっぱいかもしれないと思うと、なお一層である。
フロント係のお姉さんは宿帳を確認すると、明るい笑顔でこちらを向いた。表情からも窺い知れるが、
「はい、大丈夫ですよ!」
という回答に、そっと胸を撫で下ろした。
☆☆☆☆☆☆☆
「ごゆっくりどうぞ〜」
案内された部屋は、単身用のこじんまりとした客室で、ベッドとテーブルセット一式があるだけの、簡素なものだった。大人数でもなければ、スイートルームに泊まるわけでもない。ここまでの野宿や船中泊に比べれば、よほど豪華にすら思えた。
それに、何より、
「海だー!」
窓からは港越しに大海原が見えた。窓を開ければ潮風も入ってくる。これの何と心地よいことか。波に沿って小さく揺れる帆船や、忙しなく上げ下ろしされる積荷の様子を見ているだけでも、日が暮れるまで過ごせそうだった。
これぞまさに「旅情」である。
「いやー、いい部屋に通してもらったよ〜」
荷解きもそこそこに、今度はベッドに横たわる。決して「すごくふかふか」というわけではなかったが、自宅で使っているものと比べても、なんら遜色のないそれは、今晩一晩体を休めるのには、十分すぎるほどだった。
異国の地での最初の夜は、とても充実していた。
〜つづく〜