チャプター2
〜竜の紅玉亭 夜〜
突如思いついた「女性限定の日」企画は、企画した当人の心配を余所に、盛況だった。常連のおばさま方が来てくれたのはもちろんのこと、普段は家で食事を作っているという友達まで連れて来てくれた。みんな、たまには男のいない場所で気兼ねなく過ごしたいと思っていたらしい。
予想以上に客足のあったお昼の営業から一転、夜はますますの盛況ぶりとなった。こちらでは、昼に比べても酒を飲む人が多く、それだけ料理も売れれば話も弾む。客足以上の盛り上がりと言ってもよかった。
「それにしても、面白い事を考えたねぇ」
お皿をトレイに載せて給仕をしていると、この日何度言われたかわからない話題が振られる。内心「またか」と思わないでもなかったが、この企画がどれだけ画期的なアイディアだったかを物語っているようで、嫌な気は一切しない。にっこりと微笑み返し、「それが、突然思いついたんですよ」と返す。
事実だからどうしようもないのだが、本当に、何のきっかけがあったのか、自分に問いたいくらいだった。
「でも、女同士の気安さって、あると思うんです。だから、今日は羽を伸ばしてもらいたいと思って」
「そうかい? 何だか嬉しいねぇ。それに、エルちゃんも今日はおめかししてるね? いつも少し地味だから、気になってたんだよ」
嬉しそうにグラスを傾けるのは近所のおばさま。常連客だが、この日は一人で来てくれた。こちらも、少しおしゃれをしていることに気づいてくれて、言いようのない嬉しさがこみ上げる。
「ありがとうございます! 普段は、酔っ払ったおじさま方の相手をしなきゃいけませんから。でも、今日は特別です」
「な〜るほど〜、わかるわ、それ。あたしらも、若い頃はよく悩まされたもの。まーったくねー」
一人で切り盛りしていると、どうしてもこうして会話に巻き込まれるタイミングが発生する。そんな時、普段ならやれ料理が遅い、やれ酒瓶が空になったと大きな声を上げる客がいるものだが、不思議と今日はそのようなことはなかった。これもまた、女同士の気安さだろうか。
(あぁ、私はお客さんに恵まれてるなぁ……)
女性客と言っても一言ではまとめられないので、本当に巡り合わせの良さに感謝する。人はこういう時、神に祈るのだろう。今ならその気持ちがよくわかる。
何しろ、人の巡り合わせは目に見えないし、コントロールもできない。出会った人との関係は幾らでもコントロールできるが、いつ誰と出会うかは、本当にわからないのだ。
自らの出自をして神とでも呼ぶべき”超越者”の存在は信じているエルリッヒだったが、信仰の対象としての神も、やはり信じるに値するのだと思い知る。
「なーんか、こうして好きなことでお仕事ができて、お客さんにも恵まれて、本当に幸せだなぁ」
「それもこれも、エルちゃんがこの世に生まれてきたからさ。ご両親に感謝しなきゃだよ? 全然、帰ってないんだろ? たまには帰ってもいいんじゃないかねぇ」
話の流れとはいえ、思いがけないことを言われてしまった。そうか、今こうして幸せを噛み締めていられるのも、この世に生を受けたればこそではないか。これまで、決して一人で生きてきたつもりはなかったし、今も街のみんなに助けられながらお仕事ができているという認識で暮らしている。だが、遡って両親の存在がなければ今のこの気持ちすらない、ということには及びもしなかった。
「そうだよ。普段だってたまーにお店をお休みにして出かけるだろ? 今更里帰りしたって、誰も離れたりなんかしないさ。遠慮なく帰っておいでよ」
エルリッヒの表情があまりにも幸せそうだったからか、周りの席のみんなも話に乗ってくる。
「そっかー。確かに親に感謝っていうのはなかったです。そもそも生まれてなかったら、何も感じませんものね。でも、家を出てから一度も帰ってないです……」
それ相応の強い決意と覚悟で家を出たものの、「一度も帰省していない」ことを指摘されると、なんとなくバツが悪い。つい、言葉尻がすぼんでしまう。
「やっぱり。可愛い娘が帰ってきて、喜ばない親はいないんだから、帰っておあげよ」
「うーん、そうですよね。私も、たまには帰ってみるのもいいんじゃないかと思ってたんです。色々意見が合わなくて家を出たんですけど、お母様のお墓参りはしたいなぁって思いまして」
「おや、エルちゃんお母さんが亡くなってたのか。辛いことを思い出せちまったんじゃないかい?」
「そうだねぇ。ごめんよ」
おばさん達の表情がわずかばかり曇る。そういえば、今までこの話はしてこなかったかもしれない。しかし、それは昔の話であり、あまりしんみりされても困る。
すぐに笑顔を作り、場を取り繕う。
「ちょっとみんな、そんな顔しないでよ! お母様がいないって言っても、私が小さい頃の話だし、気にしてないですから!それよりも、せっかくの女性限定の日なんですから、もっと騒ぎましょうよ!」
パン! と手を叩く乾いた音が響くと、漂い始めていた重い空気がふっと和らいだ。そうだった。ここはしんみりしている場合ではない。男達のいない場所で羽根を伸ばすのが目的だった。それに、本人が気にするなと言っているのだから、ここで騒ぎ立てたり暗いムードになるのは本意ではあるまい。ここは、思い切り楽しんだ方が喜ばれるに違いない。そんな、一番大事なことをみんなが思い出した。
「ごめんよ、そうだったね! せっかく男達がいないんだ、羽を伸ばさなきゃね!」
「そうだ、大事なことだった! ごめんよ、しんみりさせちまって」
「そうだね! それに、こうしてしっかりお店をやってるんだ、お母さんも天国で安心しているだろうさ。さて、何か一皿作っとくれ!」
「みんな、ありがとう。それじゃあ、これ飲んで待ってて! 今作っちゃうから!」
棚からボトルを取り出し、封を開けてグラスとともに手渡す。普段誰も頼まない上物だ。これには、一同も色めき立つ。そうして上物の酒を飲んでもらっている間に、野菜を切り、肉を切り、特注の香辛料で味付けをする。一般家庭とは違う火力の高さもあり、すぐに出来上がる。
それを、テーブルごと大皿に取り分けて配膳する。その一部始終を見ていた一部のおばさんたちは、手際の良さに感心する。目の前の若い娘が、自分たちが二十年と家庭の台所を預かって培ったそれにも勝るとも劣らない手際を見せたのだから、無理もない。
店中に香辛料の爽やかなか香りが立ち込める。
「さ、冷めないうちに食べちゃってください!」
「そうだね。それじゃ、いただくとするよ」
「どれどれ? 美味しいね! こりゃあ食べたことない味だよ! この匂いもそうだけど、新しい味付けだねぇ」
香辛料が好評だったのは幸いだった。国外から取り寄せた珍しい調味料ということもあり、口に合うかどうかがわからなかったのだ。それでも、自分の舌で選んだもの、こうして受け入れられると、頭の片隅では強く信じていた。
「よかった〜。気に入ってくれて嬉しいです! 今日はどんどん作りますからね! なんでも言ってください!」
エルリッヒも、すっかり楽しくなってしまう。だが、これが望んだ楽しさなのだ。普段も味わっているが、普段より味に厳しそうな街の女性達に新しい味が受け入れられるというのは、この上ない喜びだった。
「そうかい? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかね!」
「あたしゃお酒をもらおうか。何か、ワインじゃない果実酒はあるかい?」
「じゃあ、わたしは煮込み料理が欲しいな。そこで煮えてるのを頂戴な」
注文の声に活気付く店内。なんと充実しているのだろう。これこそが醍醐味だ。そんなことを考えながら、厨房に立ち続けた。
〜翌朝〜
「行ってきます」
エルリッヒはまだ日の明けぬうちに家を出る。ここ最近考えていたこと、”里帰り”をするために。
〜つづく〜