チャプター11
〜竜王族の住み処 玉座の間〜
『さて、エルリッヒよ』
ひとしきり親子の会話を終え、王が話しかける。相変わらず眼差しは優しいままだったが、その語り口は王の威厳を取り戻していた。ここから先は、再び「王」としての言葉なのだ。「父」ではなく。自然と、身が引き締まる。
優しく触れていた手を離すと、一歩後ずさって距離を取る。王と王女は君主と臣下ではないけれど、そこには明確な序列があった。
『はい。なんでしょう』
『この後はどうするのだ。しばらくの間いるのか? それとも、人の世に戻るのか?』
それは、拍子抜けするほど普通の質問だった。普通の、帰省した娘に対する父親の言葉だ。威厳に溢れる様子からは、てっきり魔王が復活した今の社会情勢についての話や、竜社会に戻そうとする話でもするのかと思ったら、まさかの滞在予定についての話だった。これには、さすがに肩の力が抜ける。
『お、お父様。どんなお話かと思えば。帰りますよ。お母様の墓前には参りましたし、こうしてお父様ともお話ができました。後、お兄様とお姉様とも。お姉様とは、相変わらず言い合いみたいになってしまいましたけど』
『そうか。身内といえど、気の合わぬこともあるであろう。気に病むことではない。それよりも、人の世に戻るのであれば、十分に気をつけることだ。復活した魔王の力は、今はまだ完全ではないが、日増しに強くなっている。配下の魔族もまた、その力の影響を受け、徐々に力を増している。いずれ遠からぬうちに人では敵わぬようになる』
この峻厳の地まではさほど脅威は及んでいないが、そもそも魔族の狙いは人間社会の征服だ。であれば、街に戻るということは、即ち今まで以上の危険に身を置くということにつながる。それは、覚悟せねばならないということだ。
『並みの魔族であれば、人の姿でも容易に勝つことができるだろうが、一筋縄ではいかない相手もいるだろう。くれぐれも、その命を粗末にするでないぞ?』
『……わかっています。でも、街や人々に危機が迫った時、守れる力があるのに我が身可愛さに行使しないなんていう選択は、やっぱりできません。もしもの時は、大切なものを守ったのだと誇ってやってください』
かつて、100年前の時には魔王の脅威に直接晒されることはなく、一介の市民として各地から届く武勇伝に聞き入るだけだった。自分の住んでいた村が襲われずに済んだのは、ひとえに幸運だったのかもしれないし、あるいは人知れず義勇兵が魔物を討伐してくれていたのかもしれない。だが、魔王討伐の噂話が届くまでの間、比較的穏やかな生活ができていたのもまた事実であり、それと同時に、当時の人間たちの多くが魔法の力を有していたために、今の人間たちよりも高い戦闘能力を有していたこともまた、事実だった。
『何しろ、魔王が倒されて以来、人は魔法の力を失ってしまったのですから』
『その話は我らの耳も届いている。結局、魔族の力と同様に、人もまた魔王の強すぎる力の影響を受けていたようだな。その理屈から言えば、今の人間たちも近いうちに魔力を有するようになるのだろうが……』
今の人間たちは、生まれた時から魔法のない人生を歩んでいる。もしそんな日がやってきたとしても、きっとうまく使いこなせる者は少ないだろう。当時でさえ、魔力を持たない者や、うまく使いこなせない者はいたのだ。それと同じ結果になるに違いない。下手に使って身を滅ぼすような力であれば、いっそないほうがいい。
『その辺りのことには、期待していません。今の人間たちが持っている力で、精一杯戦う、それでいいんです。でも、もしそれでは守りきれないくらいの脅威が迫っていたら、その時には私が戦います。もちろん、それだってこの両手で守れるだけの範囲です。でも、守りたいんです。大切な人たちだから……』
喧嘩別れ同然にここを飛び出していった娘に対し、「先立たれては悲しい」などとはさすがに言えなかった。今こうして穏やかに話ができるまでになったのに、親としての素直な気持ちを吐き出すのは、ためらわれたのだ。気恥ずかしさが先だったと言ってもいい。だが、それでも、遠回しには伝えたかった。
『我らとて、神ではない。無理は……するな……』
『それ、さっきの命は大切にっていうお話の、繰り返しですよね。お父様がそんなに心配性だとは思いませんでした。安心してください。命を粗末にしないっていう考えは、さっき伝えた通りですから。ただ、それくらいの覚悟で守りたい存在ができたことや、守りたい生活があるということは、親としてむしろ喜んでください。これは、娘の自活の話でもあるんですから』
本来であれば、次期竜王の側で生涯を竜社会の安寧に費やすか、あるいはどこか遠縁筋の竜の貴族に嫁ぐかのどちらかだっただろう。いずれにしても、約束された玉座に鎮座する兄とは近いところにいたはずだ。それは、一切の刺激がない、エルリッヒにとってはつまらない一生になっていただろう。
『今の生活は……楽しいか?』
『はい! とっても!』
迷いのない答えに、王はそれ以上立ち入ることをやめた。
『ならば何も言うまい。お前を待つ者のところへ帰るといい』
『ええ、そうします。あまり待たせては、みんなに悪いですから。それに、忘れられても、悲しいですから』
冗談めかした言葉には、街で人々に好かれている様子が見て取れた。人間社会の感情は理解しきれないが、これはきっと、喜ぶべき状況なのだろう。王女という重たいティアラを外し、町娘としての生涯を選んだのも、きっと必然だったのだ。周りとは明らかに異質な思考をしていたことに意味があったとすれば、それは親として納得せねばなるまい。
『……息災でな』
『お父様も。あぁ、それと、お兄様とお姉様にもよろしくお伝えください。最後までソリの合わない妹でしたけれど、一応、大切に思っています、と』
ここで「一応」と付け加える程度には、心の距離が離れている。それに、兄はともかく姉は、挨拶をされたところで何も嬉しくはないだろう。先ほどの態度が物語っていた。考えると少し寂しいが、お互いの価値観はそう簡単には譲れない。おそらく、生涯わかりあうことはないのだろう。
『わかった、伝えておこう』
『ありがとうございます、お父様』
別れの挨拶にと、再び父のそばに寄り、その白銀の首筋に口づけをした。わざわざ、身を下ろしてくれたささやかな心遣いが嬉しい。
『それでは、ごきげんよう』
目線を合わせたまま後ずさりするように数歩、そしてくるりと振り向き、静かな足取りで玉座の間を後にする。姿が見えなくなって少し、薄暗い洞窟内にまばゆい光が差し、強大な気配が 辺りを支配した。王はもちろんのこと、一族の者なら誰しもがすぐに理解できるだろう。これは、エルリッヒのものだ。
この地から出るために、本来の姿に戻ったのだろう。気配から察する分には、もとより兄を超えていたその力は、十分に王たる父親に匹敵していた。姿かたちまでは変わらないため本人が自覚していたかはわからないが、数百年という年月は、竜族の若者が成長し力を高めるのには十分だった。むしろ、長い生涯のうち、最も力の伸びる時期と言っても過言ではない。もし、本気で親子喧嘩をすれば、王とて無事では済まなかっただろう。
『別れ際くらい、竜の姿を見せてくれてもよかったのだがな……』
それは、父としての寂しさが吐き出させた、小さくも大きな本心だった。
〜つづく〜