チャプター1
〜竜の紅玉亭 朝〜
その日、エルリッヒはいつもよりも弾む心持ちで目を覚ました。やることはいつもと変わらない。着替えて、顔を洗って、身支度を整えたら台車を引っ張って仕入れに行く。なんとか、日が昇る頃には市場に到着していたい。そんな行動の予定時間も、いつもと変わらない。
だが、この日はいつもと違っていた。少し、特別な日なのだった。
「よーし、行きますか!」
すっかり支度を調えると、いつものように台車を手に、「じゃがいも通り」へと歩いて行った。
〜じゃがいも通り〜
少しずつ明るくなっていく街角を歩いていると、顔見知りの同業者と合流することがある。市場の開く時間は決まっているため、誰もかれもが似たような時間に活動を始める。すると、自然とばったり出くわす、というわけだ。
「エルちゃん、おはよう」
「あぁ、シェンクさん! おはようございますー」
同業と言っても、お店の立地が通り一本違っていれば、それはもう競合たりえない。それがこの街の商習慣だ。今出会った「シェンクさん」は、夫婦で食堂を営んでいるが、それは「コッペパン通り」からはいくらも離れた「エリカ通り」である。味の研究のために顔を出すこともあれば、王都で食堂を営む者同士の寄り合いで顔を合わせることもありるので、お互いのことはそれなりに知っている。
この日も、夫婦二人で前後に分かれて台車を押していた。どうやら、前方を赤毛が揺れていたので、エルリッヒだと気付いたらしい。その名の通り、まさに馬の尻尾のような揺れ方をしていたようだ。
やはり、深紅の髪はこの街でも目立つ。
「もう、すっかり暖かくなりましたねー。昼間は汗ばむくらい」
「過ごしやすいのは、嬉しいんだけどねぇ」
「その代わり、食料品は痛みが早くなるだろ? そこが悩みの種だな」
他愛のない会話をしながら、三人は「じゃがいも通り」にたどり着いた。
「それじゃ、お互い良い仕入れができますように」
「そうだね」
「お互い、商売繁盛を願って」
軽い別れの挨拶を交わし、それぞれの仕入れに向かう。それなりに重量のある台車を、それなりの距離引っ張っていたため、額にはうっすら汗がにじんでいた。
「今日は暑くなるのかな……」
立ち止まり、腕で額の汗を拭うと、目の前にある野菜市場に声をかけた。
「おじさーん! くださいなー!」
〜竜の紅玉亭〜
「ただいま〜」
仕入れてきた食材を抱えながら、誰もいない自宅に帰ってくる食材は何往復もして台車から厨房に運ぶ。さすがにここは人海戦術になるので一人しかいないのでは手間がかかる。
「ふぅ」
ひとしきり食材を運び終えると、井戸に出て顔を洗う。そして、ここからが大変だ。朝の仕込みである。毎日の営みとはいえ、これが一番の作業なのである。
野菜の下準備、スープの準備、煮込み料理の用意、そういった下ごしらえを、仕入れた食材の種類や量に合わせてその日その日の分量で行う。どのメニューをどれだけ出すか、ということを考えなければならないのだ。楽しくもあり、大変でもある。食材は自分が食べるいくばくかの量を除けばできるだけ余らせたくないし、来てくれるお客さんには希望通りのメニューを出したい。そのために、今日は何をオススメにするか、どれを出すか、必死にこれまでの経験を巡らせるのである。
「よし、やるか!」
ひとしきりメニュープランを立てると、盛大に腕まくりをし、包丁を手に取った。
それから数時間経ち、ようやく仕込みを終えた頃、日はずいぶんと高くなっていた。お昼の営業開始まで、あと少し。ここまでは、普段通りだった。
「さて、と」
緊張する心持ちをごまかすように呟くと、厨房を出て階段を上り、部屋へと戻って行った。着替えをせねばならない。
〜竜の紅玉亭・二階 自室〜
「さてと、何を着ようかなー」
着替えを考えながら、少しだけおしゃれをしようと思い立った。もちろん、厨房に立ったり給仕をしたりする以上そんなに派手な化粧はできないし、そもそも興味が薄いせいか化粧道具の類をほとんど持っていない。だから、できたとしても少しだけなのだが、普段の飾り気を置いてきたような出で立ちよりは、少しくらいは飾り立てようという気になっている。
あれこれ考えるものの、結局思いつくものがなく、とりあえず、髪を縛るリボンをコバルト色のものにしてみた。どこで手に入れたのか、もうすっかり忘れたのだが、この色の染色は高価だったと記憶している。それに、髪の色とまるで違うので、程よく目立ってくれるだろう。
香水を使うわけにもいかず、白粉を塗ることもしないので、普段とさほど変わらない姿がそこにはあった。
「……ちょっと、悔しい」
鏡に映った姿に軽い悔しさと落胆を覚えつつも、諦めて着替えをする。クローゼットから取り出した服に着替えて、再び鏡の前に立つ。
胸の奥の空気を吐き出すように、気持ちも服装も、少しだけ緩めてみる。
「良いも悪いも、自分のことは本当にわからないもんだなぁ」
例えばこれがフォルクローレがドレスを着ようものなら、即座に可愛いかどうかがわかるのだが、とかく自分のことになると無頓着になってしまう。この辺りはおしゃれに興味の薄いフォルクローレと気の合うところでもあるのだが、うら若き娘としては、やはり少し寂しい。
「何百年と生きてきても、これだもんなぁ。変じゃなきゃいいって思ってたけど、それだけじゃダメだよね、やっぱ」
いろんな出会いと別れを繰り返してきたが、ようやく関心が出てきたかと、自分の変化を実感する。これでまた一つ人間らしくなれただろうか。
そんなことを考えていると、不意に我に返る。そうだ、思いふけっている時間はないのだ。もうすぐお客さんが来てしまう。その前にすべての支度を整えなければ。
鏡の前に映る自分の姿に向けて、強引に「かわいいぞ!」と花束を贈り、話題を切り上げた。そして、少し急ぐような足取りで、階段を下りていく。
〜竜の紅玉亭・一階〜
テーブルとイスのセッティング、よし。お皿やカップ、グラスといった食器類の用意、よし。酒瓶の確認、よし。掃除は前の晩に念入りに行っている。これで準備万端のはずだ。
いつも行っている開店前のチェックを済ませると、こっそり外に出て、いつもとは違う札を下げた。そこには、「Frauenbeschränkung(女性限定)」と彫り込んである。
そう、今日は初めての、「女性限定の日」なのだ。
「よしっ!」
準備は万端とばかりに店に戻る。この日のために、何日も前から告知をしてきた。常連の男性客からは幾らかの反発はあったものの、周囲の女性客の歓迎する声に、いつしかそう言った意見は小さくなっていった。ずっと前から考えていたわけではなかったが、思いついてしまった以上実行しなければ気が済まないのが性分。そして、今回の「女性限定の日」企画の成功に大事なのはあくまでも告知と理解だと考え、心を砕いてきた。
(大丈夫、上手くいく!)
そう自分に言い聞かせ、不安を遠く押し流す。女性客はみんな、喜んでくれていたじゃないか。あの時の言葉は、決してウソではないはずだ!
誰かに不安を気取られないよう、努めて元気よく、明るくドアを開ける。お客様を待たなくては!
そして、待つ事数分。
「おや、本当に女性限定なんだねぇ」
「若い子ってのは、面白い事を考えるもんだね」
外から聞き慣れたおばさま方の声が聞こえてきた。続いて、ドアが開けられる。
「こんにちは。今日も来たよー」
「あたしらお腹ぺこぺこだよ〜」
この嬉しさは、本当に久しぶりだ。初めてこの街で開店した時以来だ。
「っ! いらっしゃいませ〜! 2名様ごあんな〜い!」
威勢のいいその声は、通りにまで響き渡った。
〜つづく〜