生首と教会~時々ウェンディゴ~
「ん……」
意識が戻ってきて、まず真っ先に感じたのは、猛烈な寒さだった。
自分は、雪の上に転がされていた。どれくらいそうしていたのかはわからないが、
既に指先の感覚がない。
「ヒール!」
女の子の声がしたと思ったら、指先にぬくもりが戻ってくる。
「軽く、手を握ったり開いたりしてください。
問題なければ、そのままゆっくり起き上がってください」
俺は、指示通りに手を動かしてみる。特に問題なく動いたので、そのまま起き上がる。
……改めて周囲を見回して、自分の置かれた現実を思い知らされた。
ひたすらに森が広がっている。俺の住んでいた町に、こんな場所はない。
本当に、異世界に飛ばされてしまったのだ。
「シンヤさん、よろしければ私を拾い上げてほしいのですが!
神造天使でも寒いものは寒いので……あと鼻水拭くモノ持ってませんか?」
声のする方を見ると、イーネスが雪に埋もれかけていた。
慌てて彼女の方へ駆け寄って、拾い上げてやる。
「大丈夫かイーネス……って鼻水すげーな」
「に、二時間もここでほったらかしでしたからね……へっくしゅ!」
とりあえず彼女の鼻をハンカチで拭ってやる。
……よし、美少女に戻った。
俺は脇に彼女を抱え込む。
自分の目の前の風景をもう一度見渡した時、もしかして悪夢でも見てるんじゃないかと思った。
もちろん、そんなことはないのだけれど。
「ここはおそらく、エディンの北西にある森林地帯でしょう」
「エディン?」
イーネスの声で現実に引き戻される。
エディンというのは文脈からして、地名の類だろうか。
「エウダイモニアに多数存在している都市のひとつで、規模もそれなりに大きいです。
ただし、産業革命以降は公害がひどくなって、病気なども流行っているようです」
「……さ、産業革命?」
なんか、色々情報が出てきたな。
ひとつずつ整理していく必要はあるんだろうが……
「そうですね、まずはエディンを目指しましょうか。
衛生環境に難はありますが、大都市には違いありません。
そこで冒険の準備を整えましょう」
「わかった」
最初イーネスを渡された時はどうなることかと思ったが、
右も左もわからない異世界でこうした助言を与えてくれるのはありがたい。
「……お、動物もいるのか」
視界の端に、小さなウサギが見えた。
もしかして、異世界も俺のいた世界とそこまで大きくは変わらない……
そう思いかけた瞬間、木々を揺らす勢いで何かが咆哮した。
ビリビリと、全身にしびれるような感覚が走る。
そして、声の主が目の前に現れた。
俺はそれが何かわからなかった。そんな動物を知らなかったからだ。
二本足で歩いているが、人間とは言い難い。
体長3メートルほどはあるだろうし、全身筋肉質で、白い毛皮に覆われている。
「……ウェンディゴ!? そんな、いきなり!?」
イーネスには心当たりがあるようだが……
「シンヤさん!
とにかく走ってあれから離れてください!」
「はい?」
イーネスがそう言うや否や、ウェンディゴはこっちに向かって突進してきた。
……迷ってる場合じゃない!
「くそっ!」
言われた通りに森の中を駆け出した。
しかし、振り返ってみるとウェンディゴが徐々に距離を詰めてきている!
「木々の間を通り抜けるように走ってください!
ウェンディゴは体が大きいので、多少の時間稼ぎにはなるはずです!」
「ご親切にどうも!」
なるべく木が密集している場所に駆け込む。
ウェンディゴの方は、邪魔な木をなぎ倒しながらこちらを追いかけてくる。
……時間稼ぎにはなってるんだけど、どう考えても追いつかれたら殺されるよね!?
「ウェンディゴは寒い地方に生息している中型モンスターです。
魔法の類は使いませんが、その凶暴性からギルドによく討伐命令が出されています!」
「じゃ、じゃあ何とかすれば勝てる相手ではあるのか!?」
「討伐依頼を受けた冒険者の5人に4人が死んでます!」
「ほぼダメじゃねーか!」
少なくともその冒険者とやらは俺より心得はあるだろう。
つまり、俺が真正面から戦っても勝機はないってことだ。逃げるしかない!
「あれは!?」
目の前に、建物が見えてくる。
パッと見は教会っぽい感じだが……
「ハルモニア教の教会です!
ステントグラスが割れてほったらかしになってるあたり廃教会の可能性大ですが、とりあえずあそこに逃げ込みましょう!」
「わかった!」
教会の扉を跳ね開けて、身廊に飛び込むと急いでかんぬきをかける。
直後に扉に衝撃が走った。祈るような気持ちで扉を見つめる。
……やがて静かになった。
「助かった、のか?」
「駆け込んだのが教会だったのが幸いでした。
教会は戦争時に拠点や避難場所としても機能するように堅牢に建てられたものが多いんです」
なるほど、ウェンディゴとしても諦めるしかないってことか。
俺はその場にへたり込んで、大きく息を吐いた。
「シンヤさん、お疲れ様でした。
ここなら休息を取ることも可能です。
どこかに暖炉のある部屋もあるでしょうから、そこで体を温めましょう」
「……そうだな、汗もかいてるし」
教会内も外よりマシといった程度の寒さなので、最悪凍死もありうる。
ここはイーネスの指示に従おう。
「それと……シンヤさん、休息の前に、至急で大切なお話があります」
「な、なんだよ?」
そう言うイーネスの表情は真剣そのものだった。
心なしか、元々白かった顔色も、蒼白になっているように見える。
「……逃げる時に思いっきり揺さぶられたので、吐きそう……うぷ」
「待てっ! あとちょっと我慢しろ!」
結論から言うと、間に合わなかった。
教会の奥の部屋へ移動した。
パッと見た感じは、何かの研究室のような感じだ。
ぎっしりと本の詰まった本棚に、実験器具の乗ったテーブルが置かれている。
よくわからない粉末や薬草の収まった棚も見える。
「お見苦しいところをお見せしました。
回復魔法かけようとも思ったんですけと、スペル唱えた瞬間リバースしそうだったので」
「……道具を見つけたら、あとで掃除だけしとくか」
放置したらバチがあたりそうだしな。
ちなみにイーネスの吐瀉物は天使だからきらきら光っているということもなく、普通に黄緑色で悪臭を放っていた。
「ここは教会の司祭室のようです。
その名の通り司祭が仕事の時に使っている部屋で、信者と交流するときにも使われたりしますね」
「……その割には実験器具とかも置いてあるけど。司祭なのに化学の実験とかするのか?」
テーブルの上のフラスコを手に取ってみる。この辺は異世界でも同じだな。
「私もこの世界のすべてを知っているわけではありませんが、傾向として孤立した集落や村などでは教会の司祭が医者や薬師の役割を果たすことがありました。
そういったことができるだけの教育を受けた人が、大都市から派遣される司祭くらいしかいないという都合からです」
「なるほど、医薬品を作ってたかもってことか。
もしかしたら、近くの村か何かに薬を提供したりしてたのかもな」
とりあえず、司祭室の暖炉に火をつけよう。幸いにしてマッチも備え付けてある。
「シンヤさん、マッチはこの世界では貴重品です。
購入しようとするとそれなりの額になりますから、それは取っておきましょう。
ここは私が魔法で火をつけます」
「おぉ、そんなこともできるのか。頼むぞイーネス」
「お任せください……シャイニングホーリーエクスプロード!!」
えっ、ちょっとそれここで使って丈夫なの?
と思ったが、えらい大袈裟な呪文に反してイーネスの口から指先くらいの大きさの火の粉
が飛び出しただけだった。
火は暖炉の薪に燃え移り、煌々と炎をあげる。
「なんでそんな強そうな名前なの?」
「大昔、魔術師が儀式で松明などに火をともすときに使っていた魔法だそうです。
かっこよさみたいなのも求められてたんじゃないでしょうか。
ちなみに威力はマッチの火よりちょっと強火程度です」
遠回しにウェンディゴみたいなの相手じゃこれではムリだよと言ってるんだろう。
イーネス自身、回復以外まともにできないと言ってたしな。
「とにかく、これで凍死は避けられそうです。
ここでこれからの方針を立てましょう」
「……方針か。まずは、エディンって街を目指すんだよな?」
街として褒められた場所でもないらしいが、少なくとも化け物がうろつく森の中にある廃教会よりマシだろう。問題は、どうやってそこまでたどり着くかだが。
「まずは、この廃教会とエディンの正確な位置を知りたいですね。
私は神様に造られたとき、あなたの世界とこの世界の基本的な知識は与えられていますが、さすがに建物一軒一軒の場所まで把握しているわけではありません。
位置関係のわかるような地図があればいいのですが」
地図、か。
この教会は森の中にぽつんと立ってる。近くの町や村へ向かうのに、地図を用意してた可能性はある。
……ここから出ていくときに置いてってくれたかはさておき。
「あとは、役に立ちそうなものの確保ですね。
医薬品の類は基本的に不要です。私が回復魔法で治療しますので。
ここで期待できそうなのは防寒具や携帯できる日用品くらいでしょうか。
食料は難しそうですね」
「よし、最優先は地図、あとは役に立ちそうなものを適宜確保。これでいいか?」
「はい、頑張っていきましょう」
さっそく司祭室の中をひっくり返してみる。
……地図の類はなさそうだな。
「しかし、異世界なのに使ってる言語は日本語なんだな」
「いいえ? この辺りで使われているのはブリカン語ですけれど。
……あ、言い忘れてました。
シンヤさんはこの世界に来るときに“他者から聞いた言葉は日本語に、自分が話した言葉は相手の母語に”なる魔法を神様からかけられてます。
流石に意思疎通ができないのはまずいという判断でしょう」
「……そんなのよりパニヒダの弾の数無限にしてほしかったな」
俺は腰に差してある銃をちらりと見る。こいつの弾が一発じゃないならウェンディゴだって楽勝だったろうに。
「それについては、私からはなんとも。
神様は、越えられない試練はお与えになりません。
きっとシンヤさんに期待なさってるんですよ」
「だといいけどね」
けどまぁ、言葉がわかるというのは助かる。
司祭室の本を何冊か手に取ってみたが、俺の世界に存在しない言葉以外、全て日本語に置き換えてある。今後、この世界にしかない言葉について知りたいときはイーネスに尋ねることにしよう。
……それからしばらく司祭室を漁ったが、地図の方は見つからなかった。
役に立ちそうなものとしてはナイフが見つかったが、あくまでサバイバル用品として役に立つという意味であって、とてもじゃないがモンスターとの戦闘には使えないだろう。
司祭室の椅子に腰かけ、テーブルの上にイーネスを乗せる。
「ちょっと休憩しよう」
「そうですね」
イーネスはテーブルの上でニコニコしている。
うん、顔は文句なしにかわいい。ちなみに今俺の視点では、しっかりとした造りの木製机から美少女の首が生えているような感じになっている。
そっと、イーネスの頭に触れてみる。
イーネスは、相変わらずニコニコしている。
考えれば考えるほど、不思議な存在だ。
生首なのはもちろんそうだが、本当に最初から俺に対して好感度MAXだ。
普通、出会って1日も経ってない男がいきなり頭触ってきたら9割の女性はポリスメンに通報を入れる。
「あの、イーネス、変なこと聞くんだけど、俺と旅することになって怒ってない?」
今更こんなこと聞いてどうするんだと言う気もするが、せっかく時間ができたんだから確認しておきたい。
「まさか。
私はあなたの願いの結果です。あなたは神に願いました。
銀髪で、金目で、色白で、Dカップで、優しくて、身長が160センチくらいの心優しい少女を与えてほしいと」
「まぁ……」
「自画自賛するようで恐縮ですが、神はあなたの理想として私をお造りになったのです。
私はたとえどんな困難な旅に巻き込まれようとも、あなたが女性のカップ数を計測しては気味悪がられている変人だとしても、背が低くて巨乳の女性が好みとかいう男にだけ都合のいい性癖の持ち主だとしても、あなたの傍にあり続けます」
「やっぱり話し合おうイーネス」
いやこれ笑顔で絶対怒ってるパターンじゃん!?
この先どうなるかわからないけど、少なくとも向こうしばらく一緒に旅する仲間からの心証がコレなのは嫌すぎるだろ!
「皮肉じゃありませんよ。
私はあなたを、無条件で愛する女として造られているのです。
忘れないでください、シンヤさん。
この先何があっても、あなたがどんな行動を取っても、私だけは味方です」
その言葉に、俺は少し背筋が寒くなった。
イーネスは相変わらず優し気に微笑んだままそう言っているが、話していることは深刻な内容な気がしたからだ。
「……違う部屋を探索しよう」
なんて答えたらいいかわからずに、俺はイーネスを抱きかかえる。
指先に銀髪の絡む感覚が心地いい。
「はい!」
元気よく返事をしてくれたイーネスの頭を撫でてやる。彼女は、とことん俺に心地よくできている。
俺は、薄々自分の願いの重大さを、理解し始めていた。
俺は、かわいい女の子が欲しいと神様に願った。
――自分にとって都合のいい人間を作ってくれと、願ってしまったのだ。
「この世界の魔王というのは、あなたの思っている魔王とは少し違うかもしれません」
「具体的には?」
今度は教会の地下にある倉庫を探索することにした。倉庫の隅にイーネスを置いて、俺は黙々と棚や木箱をまさぐり続ける。
そうしながら、イーネスがこの世界について説明をしてくれていた。
「ご理解されていると思いますが、この世界には魔法が実在しています。
当然、それらを扱う魔法使いという職業の人々も存在していました」
魔法使い、か。俺は映画やアニメ、ゲームくらいでしか見たことないけど。
……それが当たり前か。
「彼らを束ね、諸都市に対して宣戦を布告しているのが魔王ユーリなのです。
要は、魔法使いの王ということですね」
「あーなるほど、確かに俺のイメージと違うな」
俺のイメージだと、魔物の王って感じだもんな。
こう、人間とモンスターを足して割ったような外見みたいな。
「けど、そのユーリってやつはなんでそんなことしてんだ?」
「……それを説明するには、エウダイモニアの歴史について少し触れる必要があります。
全てを理解する必要はありません。作業をしながら聞いてください」
ということらしいので、俺は相槌だけ打って手を動かし続ける。
「エウダイモニアでは60年ほど前に産業革命が起こりました。
要は技術革新です。今まで手間をかけて作っていたものが、非常に短時間で大量に生産できるようになったんだと理解してください」
「俺の世界でも似たようなことがあったから、なんとなくわかるよ」
……200年以上前の話だけどな。
「最初は機織り機から始まって、製鉄業でも技術革新が起こり、やがては大陸を横断する汽車や、蒸気をあげて進む船まで造られるようになりました。
当時の知識人たちは、やがて人は魔法なしでも空を飛ぶようになるだろうともてはやしました」
「よかったじゃん」
「いいえ、そうとも言い切れません。
急激な技術革新によって、社会は欠陥や矛盾を多数抱えるようになったのです。
労働を楽にするために造られたはずの機械を延々動かし続けるために過労死する人が出てきたり、工場からの汚水で病気になる人が出たり……」
この辺は、俺の世界とさほど事情は変わらないのかもしれない。
俺の世界だと、大分マシにはなってたけど。
「中でも割を食ったのが魔法使いたちです。
機械の登場によって、彼らは活躍の場の大半を失いました。
もう魔法などに頼らなくてもマッチで簡単に火はつくし、ダイナマイトで鉱山は掘れるし、大量生産された医薬品で病気を癒すことができる。
戦争だって、高額の報酬が必要な魔法使いより、安価に大量生産できる銃を持たせた軍隊の方が有効になってきました」
「……段々話が見えてきたかも。つまり、ユーリってやつはそれが気に食わないのか?」
イーネスの方へ振り返る。イーネスは頷こうとして、ごろりと床の上を転がった。
なんとか起き上がろうと床の上をごろごろしているイーネスを、ちゃんと立たせてやる。
「そういうことです。
今までは魔法使いをありがたがって重用してたのに、機械ができた瞬間お払い箱にしてしまった。
それが許せなかった有力な魔法使いたちはみなユーリの元に集い、エウダイモニアを産業革命前の状態に戻すことを目的としています。
要は、機械のない世界を目指してるということです」
「な、なんかそれだけ聞くとメチャクチャなこと言ってるような……」
「そう、メチャクチャです。だから、私たちでそれを止めるんです」
まぁ、魔王ユーリとやらの考えはわかった。同情できる部分がまったくないでもないが、
俺のハーレムのためにも倒されていただくしかない。
……つっても、今の話を聞く限り、ユーリって人間っぽいよな?
魔王討伐なんだから犯罪にはならないだろうけど、俺に殺人なんてできるのか……?
イーネスのこともそうだけど、もしかして俺、ものすごく大事なことを安請け合いしてしまったんじゃ……?
「……っと、そんなこと言ってたら地図発見だな。ついでにコンパスも」
「お疲れ様でした、コンパスまで見つかったのは幸運です。
これでエディンに確実にたどり着けます。他にめぼしいものがなければ、すぐにでも出発しましょう」
その後、倉庫で防寒具を見つけたのでそれを着込み、教会の身廊へと戻ってきた。
……そして、その光景を見て凍り付く羽目になった。
教会の扉を粉砕して、ウェンディゴが中に入り込んできていた。
ウェンディゴはなぜかイーネスの吐瀉物を舌で掬い取っている。
……どんだけ腹が減ってんだこのケダモノは。柱の陰に隠れて、注意深く相手の様子を窺う。
「あの、シンヤさん、私そういう性癖にも理解ありますから。
もしお望みならいつでも口移しで私のゲロを……」
「イーネスちゃん、どんな解釈をしたらそうなるの?」
とにかく、迂闊に動けなくなってしまった。
教会の出口はウェンディゴの向こう側。一通り教会を探索した感じでは、あそこ以外に出入り口はない。
……となると、ウェンディゴをやり過ごすか、倒すしかない。当然、現実的な選択としては前者だ。
「イーネス、わかる範囲でいい、ウェンディゴの習性について知ってることを教えてくれ」
こういう時はステルスゲーを思い出せばいい。相手の思考や習性を利用して、うまい具合に通り抜けてしまおう……全然自信ないけど!
「ウェンディゴは雑食です。肉でも草木でも、食べられるものなら何でも食べます」
そりゃまぁゲロ食うくらいだからな、大体のものはいけるだろ。
「しかし、特に好物としているのが動物の脳です。
これがウェンディゴが討伐対象に指定されやすい最大の理由で、人間にも被害が出やすいんです」
「……余計なこと聞かなきゃよかった」
なんだそのホラー映画のモンスターみたいな設定は。
とにかく、このまま馬鹿正直に突っ込めば、俺は頭を勝ち割られて脳みそを食われるわけだ。
「……ウェンディゴは、あまり賢いモンスターではありません。
確かにゲロと脳なら脳を優先しますが、脳を食べている最中に別の脳を追いかけようとはしません。
食事を優先するでしょう」
「無茶言うなよイーネス、脳みそなんて用意できないぞ?」
そう言ってイーネスを見た時、彼女は微笑んでいた。
今までより、ちょっと寂しそうに。
「……ウェンディゴに向かって、私を投げつけてください。
そして私が食べられている間に、走り抜けてください」
「いきなり何言って……そんなことして、お前大丈夫なのか?」
一応、イーネスは回復魔法が使える。
だから、何か考えがあっての提案だと思ったのだ。
「いいえ、私の場合、手足がないので魔法は口でスペルを唱えなければ発動できません。
ウェンディゴに食われながらスペルを唱えるというのは、現実的ではないでしょう」
「……つまり、自分が囮になって、ここで死ぬって言ってんのか」
イーネスは、静かに目を閉じた。
「私は、あなたの冒険の助けとなるために遣わされました。
あなたのために私が死ぬことはよくても、私のためにあなたが死ぬことは許されません」
彼女は、にっこりと笑う。
大したことないよとでも言いたげに。
「大丈夫です。
魔王さえ倒せば、私と似たような女の子でも、もっとかわいい女の子でも、いくらでも神様が用意してくれます。もちろん、首から下もちゃんとついてる女の子です。
……だから、ここはご自分を優先してください」
俺は、イーネスをじっと見た。
彼女は、笑っていた。
小さく震えながら、無理やり、作り笑いを浮かべていた。
「……何か方法を考えよう」
俺は、勘違いをしてた。
イーネスは、都合のいい女なんかじゃない。
そういう風に、演じさせられているだけだ。
怖いものは怖いし、嫌なものは嫌なんだ。
彼女は死にたくないし、俺は、彼女を死なせたくない。
「でも、方法なんて……」
「絶対にある、二人でここから出る方法が。
イーネス、俺はな……」
イーネスの困惑した表情。
作った表情じゃない。ありのままの、彼女の感情の表れ。
それが、最後に俺の背中を押した。
「絶対にお前と一緒に魔王を倒す。
それで神様に体を作ってもらって、俺がハーレム王になってもお前を一番の嫁にする。
……だから、こんなところで死なせない」
イーネスの表情が、困惑から、驚きに変わった。
そして――
「……はい!」
また、満面の笑みに戻ってきた。
「ウェンディゴの討伐に成功した時は、どんな方法でヤツを倒したんだ?」
とりあえずいったん地下の倉庫へ戻り、作戦会議をすることになった。
「強力な戦士や魔法使いに依頼して正面から打ち倒すか、銃を持たせた軍隊で対応かの二択ですね。
ウェンディゴも不老不死の化け物ではありませんから、あれの筋肉を貫通してダメージを与えられる方法さえあれば倒すこと自体は可能です」
俺は先ほど手に入れたナイフをじっと見つめた。まぁ無理だろうな。
「……正直に言うと、今のシンヤさんでは100回やっても100回脳みそチューチューされて終わりです。
やり過ごすにしても、身廊にしか出口はありませんし」
「どこかの壁を壊して、そこから逃げるってのは?」
イーネスは静かに首を振った。ちょっとシュールだ。
「先ほども説明しましたが、教会というのは非常時の避難場所や拠点も兼ねています。
シンヤさんがちょっとどうこうしたくらいで崩れる壁はありませんし、大きな音を立てればウェンディゴが寄ってきます」
思い出せ、何か今までの探索でなかったか、この状況を打破できそうなもの……!
「……イーネス、この世界じゃ司祭が医者を兼ねることが珍しくないんだよな?」
「ええ、田舎限定ではありますが」
「……なら、さっきの司祭室に麻酔があるいんじゃないのか?」
しかし、イーネスはこれにも首を振った。
「麻酔は探せばあるかもしれませんが、ウェンディゴに投与する方法がありません。
司祭が使う麻酔薬としてはへロコカ草から作った粉末がメジャーではありますが、ウェンディゴは自分から口にしないと思います。有効かどうかもわかりませんし」
なんか色々キマりそうな薬草の名前はさておき、効かなかったという前例がない以上、食わせてみる価値はあるってことだ。
「イーネス、俺に考えがある。まずはそのヘロコカ草を探そう」
司祭室へ戻り、薬草棚を漁るとヘロコカ草の粉末はすぐに見つかった。
「服用した際の効果としては、意識が朦朧とし、多幸感に包まれ、感覚が鈍くなります。
あと中毒性が高いので本当に必要な時以外服用しない方がいいです」
多分もうしばらくしたら法律で禁止されるな、コレ。
さておきこれで麻酔は手に入った。あとはウェンディゴの口にこいつを放り込むだけだ。
そこで、俺はイーネスに向き直った。
「イーネス、この作戦にはお前の協力がいる。
かなり辛い役割をお願いすることになるが、大丈夫か?」
イーネスは、頷く代わりに微笑んだ。
「……身廊でのシンヤさんの言葉、忘れてません。
私も、できる限りのことはお手伝いします」
「よし」
俺はイーネスを両手で持ち上げた。
イーネスがきょとんとする。
「あの、シンヤさん?」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
俺はものすごい勢いでイーネスを揺さぶった。
「ひょおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
イーネスがすごい悲鳴をあげているが、ここでやめてはいけない。
あと30秒くらいは続けよう。
「ど、どうだ……イーネス……」
「……吐きそう」
俺はイーネスを抱えたまま、司祭室の隅にあったバケツのところへ駆けていった。
「よし、吐いていいぞ!」
「ヴぉええええええええええええええ!!」
いやほんとヒドイ絵面なんですけど。
ちょっと描写できない。
「し、シンヤさん……これ……なんの意味が……」
「量が足りないな」
「えっ」
俺はもう一度イーネスの頭をしっかり握りなおした。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「ひょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「よくやったイーネス、これだけあれば十分だろう」
「……シンヤさん、私今泣いてるんですけど、流した涙からゲロの臭いがします」
流石のイーネスも疲弊しきっているが、これで準備は整った。
俺はバケツ一杯の吐瀉物にヘロコカ草をありったけ混ぜ込む。
「食い意地張った化け物め、とびっきりのを奢ってやるぜ」
そして再び身廊へ戻ってきた。
先ほどと同じように、柱の陰から様子を窺う。
ウェンディゴは食べる物もなくなり、その場にうずくまっていた。
俺は持ってきたバケツを見た。
簡単に蓋をして、床に落ちたら中身が飛び散るようにしてある。
……あとは、気合でこいつをウェンディゴの傍まで放り投げるだけだ。
距離は……ざっと30メートル。
この前のスポーツテスト、砲丸投げやったけど10メートルしか飛ばなかったんだよね俺。
ちょっと投げ入れるのは無理くさくね?
ハンマー投げっぽい感じの方がいいのか?
「ストレングス……!」
イーネスが横で小さく囁いた。
途端に、全身から力が溢れてくる。
「シンヤさんの肉体を強化しました。
……といっても多少筋力が上がったくらいなので、ウェンディゴに突っ込むような真似はしないでください」
「……いまなら、30メートル、中身入りのバケツを投げられるか?」
「それくらいなら、行けます」
イーネスの言葉に、俺は頷いた。
彼女を床に置き、バケツの取っ手を両手でしっかりと握る。
柱の陰から身廊へ飛び出す。
そして、遠心力を利用するような形で……
「ふんぬっ!!」
ウェンディゴへ向かってイーネスのゲロ入りバケツを放り投げた。
バケツはウェンディゴの手前で落ちて、中身を周囲にぶちまける。
地獄絵図だ。
ウェンディゴは最初こそ音に驚いていた様子だが、すぐに“餌”の方に夢中になった。
さっきより大量のぶちまけられた吐瀉物を、舌先ですすっていく。
それを見届けた後は、すぐに柱の陰に身を隠した。
「頼む……効いてくれ……」
ウェンディゴの舌なめずりの音だけが、延々と身廊に響く。
いけるか……?
もう一度、ゆっくりと柱からウェンディゴの方を窺ってみる。
ウェンディゴはふらついた足取りで、壁に頭をぶつけながら歩き、最後には倒れて動かなくなってしまった。
……つまり、作戦成功ってことだ。
「信じられません。ホントに、こんな方法で、ウェンディゴを無力化しちゃった」
イーネスは呆然としていた。俺はしゃがみこんで、頭をくしゃくしゃになるまで撫でてやる。
「お前のおかげだよ、イーネス」
いやホントに。ホントにありがとう、そしてごめん。
「どんな形であれ、お役に立ててうれしいです。
……でも街についたら歯を磨いてもらえませんか?」
「……うん」
俺はイーネスを抱え上げる。
ほのかにゲロの臭いがしたが、別に気にならなかった。
そんなものより、ずっと大きな達成感が、心の中を占めていたからだ。
「行こう、イーネス。エディンに行って、歯ブラシを探そう」
「はい。……やっぱりその前に、適当な川で口だけすすがせてください」
俺はイーネスの方を見た。
ちょっとだけ彼女が頬を膨らませていたのを、俺は見逃さなかった。