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Mana最終章~Gene~  作者: 福島真琴
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1. 記憶の欠片

「この度は、国の大切な主、レナート統主の突然の死去に、深い哀悼の意を表します」

 その少年の国民に向けた会見は、そんな弔文から始まった。その朗々と続く説明は、たとえ原稿があるにしても、その年にしてはできすぎた会見と言えることだろう。

 その光景を、セイシェルはすぐ側で、魂が身体から抜け出してしまった人のように、俯瞰して見つめていた。呆然自失の境とは、まさにこのことだと思った。この世は全て、夢物語なのではないか。今のセイシェルは、本気でそう思っていた。そう思うしかないほどに、その事実は衝撃だった。

 目の前の少年、マナの顔立ちに似たその美少年は、独特のミステリアスな雰囲気を漂わせたまま、自分の出自を説明している。自分はレナートの甥で、リヒトという名であるということ。レナートの血縁はもう、自分しかいないということ。死の間際、統主の座を正式に賜ったこと。それらは物語でも語るようにすらすらと流れていった。

 セイシェルは、リヒトの物語を聞きながら心の中で、〝それは違う!!〟と叫んでいた。そのときのセイシェルの頭の中では、ある人物が送ってくれたメールの内容が、無限にループしていた。メールと言うよりかは、データファイルの数々だった。

 そこでセイシェルは全てを知った。今、目の前にいる少年は、レナートだと。いや、かつてレナートと呼ばれていた〝人格〟である、と表したほうがいいのだろうか。いずれにせよ、セイシェルの中で〝彼〟は、もはや人ではなかった。人を超えた何か。それも、化物に近い何かだった。

「ここで、重要な知らせがあります。これは、全国民にとっても有益な情報になることでしょう」

 そこでその少年は、それまでの話との区切りをつけるかのように唐突に間を置き、重々しくその一言を言った。そして再度、間を置く。その間は、自身の思考のスパイラルにはまり込んでいたセイシェルの注目さえも集めることに成功した。

「レナート統主からの、もう一つの遺言です。と同時にこれは、これからの私の職務となってゆくことでしょう」

 その瞬間は、カメラの向こう側にいる国民の、息を飲む微細な音さえも聞こえてきそうな、緊張感だった。そして、リヒトは一気にこう宣言した。

「私の代からこのノア国は、〝ノア王国〟と名乗ることを許されました。そして私は、〝ノア王〟の称号を賜ります。全ては、アルテミスへの移転計画を実行に移すためです」

 その言葉は、セイシェルのみならず、その場にいた誰もが、そして全国民が衝撃を受ける発表となったことだろう。そして尚も、リヒトの言葉は続く。

「このノア王国は、これまでたくさんの人々の努力により、ここまでの発展を遂げてきました。どのアルテミスの国と比較しても、人口の増加率、経済発展力、技術革新力、全てにおいて、どの国よりも勝っている。もはやこの力は、人の数は、この地の底のみでは賄いきれぬところまで来ている。それは、レナート統主の代からの、重要な課題でありました」

 整然と語られるその言葉は、少年独特のたどたどしいものではなかった。その中に、セイシェルはレナート以前から連綿と続く息吹のようなものを感じ取っていた。と同時に、アルカディア計画の本当の目的がここで繋がることを、歯車の音を聞くように感じ取っていた。

「幸いアルテミスのクラヴの街とは、良い同盟関係にあります。そこを足掛かりに、この事業を進めてゆくつもりです」

 リヒトの言葉は、セイシェルの身体に入るが、すぐに通り抜けてゆく。セイシェルは、彼の言葉をそのまま素直に受け取ることはできなかった。なぜならセイシェルは、同盟や外交を通じての進出というよりかは、武力や経済力での進出という臭いのほうが強く感じられてならないのだった。それは領土拡大と、武力侵攻と言い換えることができるのではないだろうか。

 そして、国防長官である自分を、一番の側近くに置いた今日この日の意味からして、リヒトは暗にそれを示唆しているような気がしてならないのだ。

 と同時に、リヒトの強かな戦略さえも透けて見えるような気がするのだった。自分にとって、癌になるかもしれない危険な(セイシェル)を、一番の側近くに置く。そこからは、ただ嫌なものを遠ざけるだけではなく、側近くに置いて監視するということと、セイシェルの行動を制限するという目論見を感じさせた。その老獪ぶりはやはり、ただの少年にできるものではないことだ。

 そしてリヒトは最後に、こんなことを言い始めた。

「それからもう一つ。これは、レナート統主からの遺言ではない、私個人が申し込んだある調査機関からの結論なのだが……」

 そこでリヒトは口調をがらりと変えた。それは、刑を言い渡す、裁判官のような低い声音だった。

「我が大切な叔父であるレナート統主。彼の死因は、毒殺であった」

 瞬間、あたりは騒然となった。カメラを構える男でさえも、小さな驚きの声を上げた。

 そんな中でセイシェルは、〝しまった〟と思った。このときほど、〝彼〟という人格の老獪な怖ろしさを痛感したのは、後にも先にもないだろう。

 それは、レナート統主と最後に会見した人物たちに、疑いの目が向けられるということを意味していた。そしてセイシェルのその危惧は、見事に当たったのだった。

 この日を境に、マナ、ジーン、レグルスは、ノア王国において指名手配犯となったのだった。及びに、彼らを幇助する者たちは、禁固十年の刑に処するという条例付きで。


 ◆  ◆  ◆


 その急行列車は、もう駅を出てしまっていた。だからマナたちは一路、クリスタルへの行き方を模索した。

 その中から導き出された答えが、貨物列車にこっそり忍び込むこと、だった。要は、ただ乗りである。そういうことに関して、普段は口うるさいマナなのだが、今回ばかりは珍しく、反対意見は言わなかった。自分たちはノア国から、国際的指名手配犯として追われているのだという、危惧もそうさせるのかもしれない。いずれにしても、そうまでしてクリスタルに行きたいということなのだろう。

 その原動力が何なのか、ジーンにはわからなかった。マナの中でしかわからないことだった。だけどジーンは、マナを信じてみようと思った。マナの中にある、その訳の分からない衝動にも近い何かを。

 〝変わったな……〟

 心の中でジーンは、そう思った。昔の自分だったら、理論ばかり並べたてて、否定していたはずなのに。だけど全面的にマナの意見に同調している、というわけではない自分もいる。なら、そんな自分にできることは、マナを見守るということだ。見守って、危なくなったら、引き揚げてやるということ。

 いつもどこかに飛んで行ってしまいそうな、そんな危うさのあるマナなのだ。ならば自分は、彼女が帰ってくる目印でありたい。休憩所、宿り木――。そんなことを考えていたら、なぜか家のイメージが生まれてきてしまった。普通、そういうことを思うのって、逆じゃない? と思う自分がいた。女性のほうが家にいて、家を守る。一般的には、そんなイメージのはずなのにと思うと、苦笑がこの顔にも漏れ出てしまう。だけどもう一方で、〝自分のイメージのほうがしっくりくる〟と思っている自分もいた。

 やがて室内の空気は、徐々に冷気のほうが勝ってきた。マナたちが乗っている室内には窓はないけれど、隙間から見える外の景色は、白く輝いているように感じられた。だんだんとクリスタルに近づいてきているのだろうか。吐き出される呼気も、白くその存在を主張し始めていた。

 こんな寒い国に、わざわざなぜ――

 そんな思いがよぎるけれど、ジーンはそれでも、マナの運命に身を委ねることに決めたのだった。

 やがて列車は唐突に、ある駅に止まった。周囲の音や、空気の流れを感じる限り、大きな都市ではないということは、ジーンにもわかった。どこにでもありそうな、小さな通過駅。ということは、ここはクリスタルではないということも、同時に導き出される。

 それなのに、マナは突然に立ち上がった。

「マナ? どうしたの?」

 今にも飛び出して行ってしまいそうなその勢いに、ジーンは小さな声で引き留めた。

「この香り……」

 マナは呟いた。その呟きに導かれるかのように、ジーンも駅から漂ってくる香りに集中した。それは温かくて、仄かに甘みを含んでいて、そして少しだけほろ苦い香りを漂わせていた。

「……カフェモカ?」

 ジーンがそう言うと、マナは弾かれたように同調した。だけどマナは、そう言われるまで、その単語さえも忘れてしまっていた人のようだった。

「カフェモカ……。そう! カフェモカ! 私、それを知ってる。この香り、私の好きな香りだった……」

 そう言うと、マナは室内を満たす荷物の山をかき分けて、外に出ようとし始めた。ジーンも、慌てて立ち上がる。

「ちょっと、マナ! ここは、クリスタルじゃないよ!」

 そう言ってその背を追いかけたのだが、彼女はその言葉さえ聞こえていないみたいだった。ギリギリのところで、自分たちの荷物を掘り出したような形になったジーンは、マナの分の荷物も背負って、結局この名前も知らない駅で降りることとなったのだった。

「マナ! どうしたの、急に?」

 人もまばらなその駅は、二人の声をしんと降り積もった雪が跳ね返した。

「この香り、いつも嗅いでた。この駅でいつも売ってるの。私はここを通って……」

 言い終わる前にマナは、駅の線路を歩きだした。改札には駅員が一人いたが、彼は半分居眠りをしているらしく、そこを通ろうと思えば通ることはできたことだろう。だが彼女は、方向を正確に知っているかのように、真っ直ぐ自分の目的地に向けて突き進み始めた。

「ちょっと待って、マナ! だって、目的地は〝クリスタルの海〟なんでしょ!? ここは、内陸だよ? 海岸さえもどこにも……」

「わかってる! 海なんだってことも!」

「えっ! じゃあ、どうしてここなの!?」

 ジーンの疑問に答えるでもなく、ただひたすらマナは進んでゆく。マナは自分でも、わかっているのだろう。海のはず。だけどここには、海の気配さえない。だけど、何かがここだって言っている。理性以上の何かに、付き従うように――

 やがてジーンも、そんなマナに何も言わなくなった。とにかく、彼女の行きたいところに行かせよう。気が済めば、きっと元に戻る。そう思いながら。

 しかしジーンは、それを安易に考えていた。きっと見つからなければ引き返す、くらいに思っていた。だけどマナは、どんどん進んでいった。田舎の道を、寂れた村の中を、頭の中に地図があるかのように進んでゆく。一歩一歩進むたびに、雪の鳴る音が後ろを歩くジーンにも届く。その音は吹き付ける風も相俟って、足元からじわじわと身体を冷やしていった。

 それなのにマナは、泣き言一つ言わずに進んでゆく。少しだけ垣間見えたその顔は、熱に浮かされているかのような、そんな顔をしていた。

 やがてまわりの風景は、木が多くなっていった。森の中とも言えるのだろうが、それでも民家がちらほらと見えるから、一応は公道の通る森、と言えるのだろう。そして、歩くその先には、しんと静まり返った水の香りが香った。近づいてゆくとそこは、寒さで一部が凍り付いた湖だった。開けたその場所には一軒の寂れた家が、ぽつんと忘れられたかのように存在していた。

 マナはその家を見つけた瞬間、駆け寄った。ジーンも遅れまいと必死で駆けるものの、なんせ二人分の荷物を抱えている身。少し遅れての到着となった。そしてマナは相変わらず、止める間もなく、その家の中に何の躊躇もなく入っていった。幸いその家は寂れているとは言え、壊れかけているとまでは言えない家で、ちゃんと〝家〟としての機能はまだ残っているようだった。とにかく荷物を降ろしたいジーンも、マナのあとについてその家の入ることにした。

 内装は外の寂れ具合とは反比例して、まだ使われなくなって数年しか経っていないのではないかと思わせる、綺麗な内装だった。ここに住んでいた者の使い方が、丁寧だったのか、内装工事の職人の腕が優れていたのか、どちらなのかは定かではないが――。そしてその内装の雰囲気からして、ここに住んでいたのは女性だということは、確実に言えることだとジーンは思った。

 部屋の中に入ると、マナはその真ん中で立ち尽くしていた。電気もガスも止まったその部屋はがらんとしていて、何の気配も感じなかった。

「……マナ?」

 ジーンは遠慮がちに、そう声をかけた。振り返ったマナは、いつも通りのマナだった。少しだけジーンはほっとした。また急に倒れたときのように、記憶錯誤を起こしたりしやしないかと、心配していたからだ。

 だけど次の瞬間、ジーンはぎょっとした。マナは、泣いていたからだ。

「マナ……、どうして……」

 彼女は頬の滴もそのままに、ある一点に視線を向けていた。

「私、ここに住んでいたことがある。ううん、〝私〟じゃなくて、〝ソフィア〟の私が」

 その視線は、白テーブルの机の引き出しに向いていた。マナはそこにそれがあることを確信しているかのように、引き出しを開けた。そこには、一冊の本が眠っていた。いや、本だと思っていたそれはどうやら、日記だった。彼女がパラパラとめくるたびに、手書きの文字が揺れていた。

「ソフィアの日記、ソフィアのペン、ソフィアのパソコン、ベッド、シンク、マグカップ……。やっぱり全部そうだ。ここは、ソフィアが最期のときを過ごした家……」

 風もないのに、流されるようにマナの手からソフィアの日記が落ちていった。ジーンは一瞬戸惑ったものの、遠慮がちにその日記を拾い上げた。読んでいいのか迷ったけれど、結局ジーンはその日記に目を通した。

 そこには、晩年のソフィアの切々としたカイルへの想いが綴られていた。時折行間に涙の跡が滲んでいて、それらが胸を締め付ける。そしてその日記には、カイルの命を奪った爆発事件のこと、彼が亡くなったあとの研究チームの人間関係、ソフィアがこんな寂れた街に住まなければならなくなった経緯に到るまで、詳細に記されていた。

 彼女がこの街を隠れるように住む場所として選んだ理由は、カイルのデータを持ち出し、保管しているからという理由からだけではなかった。そこには、ベイズという男も関係していた。その行間を読み解く限り、彼女はカイルを想い続けたまま、生きたかったのだ。他の男のものになど、さらさらなりたくなかったのだ。もしかしたら彼女にとって死とは、ある意味ではそれらから逃げることに等しいことだったのかもしれない。

 ジーンは震える手で、その日記を読み終えた。衝撃と、悲しみと、憤りが()い交ぜになって、ただひたすらに、自分でもコントロールの利かない激しい感情に揺さぶられていた。だから、気づけないでいた。マナが、そんな自分をじっと見つめていたことに。

 はっと顔を上げると、マナはジーンにこう言った。

「私、行かなきゃ」

 一瞬、その言葉を理解できなかった。

「行くって……、どこに?」

 少し、間が抜けたようなそんな問いが、ジーンの口から漏れた。

「見つけに行かなきゃ。カイルのデータ。私しか、知らないから」

 マナはそう言うと、さっと踵を返してベランダから外に出た。枯れた草木が覆う庭を横切って、そのまま凍った湖のほうに向かってゆく。

「ちょっ……、ちょっと、マナ!!」

 ジーンは全速力でマナに追いつき、その腕を掴んだ。

「どこに行くの、マナ!? 見つけるって、まさか……、冗談だろ?」

 ジーンはマナがどこに行こうとしているのか、そしてマナも、ジーンがそれに気づいていることを、わかっていた。だからマナはそれ以上、何も言わなかった。その代わりのように、マナはすっと、ジーンの懐に入り込んだ。

「……ここは、あたたかいね。またここに、戻ってきたい」

 まるで子供みたいに抱きついてくるマナを、ジーンはただひたすらに、その背に手を回すことしかできなかった。いつもよりも素直なマナに、嬉しいと思う自分もいたけれど、そんなこと、もっと違う状況でもっと違うタイミングだったなら、どんなに良かっただろうと、後悔にも近い感情が湧き上がってくる。

 不意に、その湖の湖面のような瞳が、自分を見上げて縋るようにこう言った。

「どうか、私に勇気をください」

 と同時に、彼女の腕がすっと離れていった。次の瞬間、彼女は水飛沫と共に、極寒の湖の中に飛び込んでいった。ジーンはそれを、止めることができなかった。


 世界から分断されてゆく。

 マナは湖の底に近づいてゆくたびに、そう思った。そこは、たった独りの世界。生き物も全てが眠りについた、まるでこの世ならざる死の世界のように感じられた。ただそこには暗闇が広がっていて、時折、底のほうから何者のものなのかわからない泡が、昇ってゆくのみ。その泡を見ていると、研究所で眠っていたときのことを思い出す。ならば今の自分は、目覚めたばかりの自分なのか、それともこれから眠りにつこうとしている自分なのか――。

 運命はどちらに傾いているのか、わからない。だけどそういうものは、もうどうでもよかった。見えざる力だとか、そういうものを感じられる自身の力だとか。ただ今の自分は、カイルのデータを探し出す。そして、必ずジーンの元に戻るんだ。そういうことしか、考えられなかった。それ以外の何かが、警告なり何かなりで示されたとしても、今のマナは止まる気はさらさらなかった。もう、自分自身が決めたことなのだから。

 今、目の前に広がるのは、真っ暗な静かな世界。この世界にいるのは、自分独り。

 そんな感覚が、水の冷たさと共に、身体の芯まで染み入ってくる。だけどマナは不思議と、その世界が嫌いじゃなかった。ともすれば、世界から分断されたまま、命を落としかねないというのに、それなのになぜか、心地良ささえ感じている自分がいた。

 目を開けると、不思議な光景がそこには広がっていた。夜光虫のような光の粒が群れをなして、泳いでいるのだ。それらは集まったり、離れたりして、何かの形を作っていた。マナは、はっとした。それらは、ソフィアの思い出だった。カイルと共に過ごした幸せだった時間、爆発事件の光景、脳裏に焼き付いたソフィアの大きな哀しみ、その後の人生、ベイズという研究員の企みを知ったソフィア――

 そのとき、自身の身体に麻酔を打つソフィアの光景が、目の前に広がった。防水加工の施された小さな真鍮管に、マイクロチップのようなデータを入れるソフィア。腕を切開し、そこに埋め込む手術を、あの閑散とした彼女の部屋の中で、一人執り行っていた――。その心が、今のマナに手に取るように伝わってくるのだ。まるでそれは、祈りを積み重ねている殉教者のような――

 〝よく……きたね……〟

 不意に、そんな言葉が耳の奥に鳴り響いた。マナは、まわりを見回した。その瞬間、目の前に広がっていた映像も、夜光虫のような光も、一瞬にして消え失せた。ただあるのは、闇の世界。だけどそれでも、自分がどのあたりの位置にいるのか、マナにはなぜかわかった。そして声は、尚も続く。

 〝マナ……なんでしょ? あなたは私であって、私ではない。私はあなたであって、あなたではない。だけど私たちは、似ている〟

 その声は、湖の底から聞こえてくるのか、それとも自身の奥底から聞こえてくるのか、どちらなのかはマナにもわからなかった。それでもマナは、その場所に向けて泳ぎ出した。身体はもう、かじかんでいて、何もかもが止まってしまいそうだったけれど。

 〝だけどあなたは、別の命を与えられ、別の人生を生きている。それでも、あの人を愛している気持ちは、一緒。私はずっと、あなたを待っていた〟

 一かき一かき泳ぐたびに、身体から力を奪われてゆく。その感覚が徐々に強まってきていて、今にも全てを手放してしまいそうだった。それでもマナの心の中には、ずっとこんな思いがあった。

 こんな冷たいところに、ずっと彼女はいたのだ、ずっとあの人の想いを抱きながら。それは、見つけなければならない。そしてそれを見つけられるのは、私だけなのだと。

 やがて、底が見えてきた。視界は闇のままで変わらないけれど、マナには底に辿り着いたのだということがわかった。そしてその場所だけがなぜか、ぼんやりと発光しているかのように感じられた。必死で伸ばした手の先に、触れるものがあった。それを手にした瞬間、再度声は耳に鳴り響いた。

 〝あの人を守ってあげて〟

 その声は不思議と、マナに力を与えた。もう息も苦しくて、ぎりぎりの状態だったマナに、最後の力を与えてくれた。そのまま真っ直ぐ、水面に向けて上昇してゆく。無我夢中だった。身体にかかる急激な水圧に耐えながら、持ってくれと必死に言い聞かせながら。

 水面まで、あと百、九十、八十……。元の世界に戻るんだ、現実の世界に必ず戻るんだ。必死にまじないをかけるように、心に言い聞かせていた。

 あと六十、五十、四十……。光が待っていた。だけどその光に、マナの意識がだんだんぼやけてゆく。ほっとしてしまったせいなのだろうか。身体に全く力が入らない。頭ではしっかりしろって思っているのに、身体が全然言うことを聞いてくれない。口から漏れてゆく泡だけが、水面に上昇してゆく。私も連れてって。そう思うのに、身体はどんどん沈んでゆくばかり。

 すごく眠い。冷たさも、痛みも、もう何も感じない。今あるのは、ただ眠りたいという感覚だけ。

 そう思った。だけど急激な水の揺らぎが、水面の上のほうで湧き上がった白い細かい泡の群れが、マナの猛烈な眠気を妨げた。必死で手を伸ばすと、その人はこの身体を支えてくれた。急激に、光が顔に突き刺さる。気が付くと抱えられたまま、岸まで辿り着いていた。何度咳き込んだか、わからない。飲み込んでしまった水が、口から吐き出されてゆく。

「……泳げた」

 隣を見ると、緊張感のないそんな言葉とは裏腹に、張り詰めた顔のジーンが白い顔のままでそこにいた。よほど心配してなのか、水の恐怖と戦ってなのかはわからないが、気の毒なまでに具合が悪そうだった。マナよりも悪いのではないかと、思えるほどだった。

 その顔を見た瞬間、安心してしまったのか、再度抗うことのできないほどの強い眠気が襲ってきた。と同時に、がくがくと震えさせるほどの猛烈な冷えが、身体を覆う。だけど気を失う直前、こう言ったのだけは覚えている。

「……ありがとう」


 寒い。肩が冷えている。

 そんな感覚で、マナは目を覚ました。天井が見えた。見知らぬ場所だと思った。

 だけどよくよく順番通りに記憶を思い返してみると、そこはソフィアの家の中なのだということを思い出す。身体を丸めるために、横に寝返りを打った。そこでマナは、ぎょっとした。隣にはジーンが寝ていたのだ。しかも薄着で。よく見ると、自分も同じ格好だった。ほぼ、〝下着姿〟と言ってもいい格好だった。

 慌てふためいているマナに気づいたのか、ジーンもやがて目を覚ました。

「あー、ごめん、マナ」

 その口調は、頭の後ろを掻きながら、のんびりとしたものだった。

「なにが、〝ごめん〟なのさ!」

 思わず口を突いて、出てしまう。身を起こすと、思っていたよりも室内は温かかった。ぱちぱちと何かが爆ぜる音が、室内に静かに響いている。部屋の真ん中に、火が灯っていた。どこかから探してきたであろう、缶の蓋の上で、簡易的にたき火をしていたようだ。

「だってさ、服、二人ともびしょびしょでさ。あんなん着てたら、凍傷になっちゃうでしょ。それとも、真っ裸のほうがよかった?」

 よく見るとベッドの淵に、濡れた二人分の服がかけてあり、干されていた。ちょうど火も側にあり、程よく服も乾いていた。

「まっ……! 馬鹿じゃないの!?」

 ジーンのそんな軽口に、マナはそんな言葉しか返せなかった。だけどどうやらジーンは、まんざらでもなさそうな雰囲気のようで。さらにこんな軽口を叩く。

「あー、安心してよね。べつに、なぁんにもしてないからさ。まぁ、本音を言えば、したかったんだけどね。でもそれって、強姦みたいなものになっちゃうでしょ。それに俺、そういう趣味はないし」

「ほんっと、馬鹿じゃないのッッ!?」

 今までで一番強い〝馬鹿じゃないの〟が出た。マナは自分のその勢いに、自分でも驚きつつも、かけられた簡易タオルケットに、縮こまるように身体を隠した。

「マナ、先に着替えていいよ。それとも、俺、外に出てようか? 見られたくないだろうし」

 そう言って、気を使ってくれるジーンに、マナは何も答えずに相変わらず縮こまってしまっていた。よく考えてみれば、あのとき彼が助けに水の中に飛び込んでくれなければ、私はこうして今ここにいられなかったかもしれないのだ。それに、下着姿で一緒に寝てくれたのだって、冷え切った私の身体を暖めるためだったのだろう。

 そう思うと、なんだかここから動けずにいた。そのうちに、〝?〟マークを付けたジーンが、〝どうしたの?〟と覗き込んでくる。

 自分でも、なぜそうしたのかはわからない。ただ、溢れてくる気持ちを、抑えておくことができなかった。ただ、伝えたい気持ちで、満たされていた。

 すっとその唇に、触れるだけのキスをした。そして、

「助けてくれて、ありがとう」

 はっきりと、そう伝えた。束の間、何が起きたのかわからないという顔で、ジーンは固まってしまっていた。だけど次の瞬間、いろんな現実感を伴って、喜びやら爆発的な感情が湧き上がってきてしまったようで。まるでその姿はシアンみたいだと、心のどこかでマナは思った。

 そのあとのことは……、覚えていない。あえて、覚えていないと表記しておこう。本当は、覚えているけれど。


 ◆  ◆  ◆


「はい」

 パソコンの前で、真剣な眼差しで滔々と続くデータと格闘しているジーンに、マナはマグカップに入った白湯を差し出した。

「駅で、カフェモカ買っておけばよかった。粉状の簡易的なものだけどね」

 白いシャツを羽織っているだけの上半身は寒そうだったけれど、それ以上にカイルのデータに深い興味を示すジーンは、着替えることさえ面倒そうに見えた。

「いや、十分だよ。ありがとう。ちょうど喉乾いてたんだ」

 その白湯を口に運びながら、目の前にあるカイルのデータを読み解いてゆく。

 そこに示されていた内容は、脳移植に関する拒絶反応についてだった。もうすでにカイルのその時代に、彼はその危険性や具体的な実験結果をデータとして残していたのだ。ということは、彼のその時代から脳移植という手段を使っての、不老長寿実現を果たそうとする動きがあったということだろう。彼はその危険性を指摘しようとした。そのために作ったデータなのだろう、彼にとっては。

 だがそのデータには、成功例も記されている。全体のデータ量に比べれば、ごく僅かだが(それは脳細胞遺伝子のみを移植するという方法で、リスクも少ないが、完全な移植とも言い難い結果のようだ。要するに、不完全継承に終わるケースが高いということだろう)。ノア国の研究者たちは、そのごく僅かなこのデータを欲していたのだろう。

 だが彼自身、そのデータ自体が示す大きな問題点を指摘している。なぜなら、彼の実験は全て、人間以外の脳を使用して行われた実験だったからだ。実際のところ、人の場合ではどんな予想外の拒絶反応が表われ出てくるか、わからないというところだ。

 だがその実験は、倫理的観点から彼の良心が咎めたのだろう。マウス以外の動物を数種使用するということでさえも、彼の論文からはためらいを感じられるからだ。

 他にも彼のデータには、身体的長寿を促すための仮説も展開されていた。細胞分裂の寿命を決める染色体末端テロメアを伸長させる酵素、テロメラーゼを投与することによって、身体的長寿を得られる可能性も示唆されていた。だがその仮説は諸刃の剣で、癌細胞の活性化という影響も与える可能性が高い――。

 だがこれらはあくまでも仮説であるため、実際のところ人間の身体ではどうなるかは、まだ誰もわからない。だからこそ彼は、このデータを見た者が功労を得たいがために、無謀な実証と、ごく僅かな確率の中で得た奇跡的な成功のあとに続くであろう、無謀な発展を願ってしまうことさえも、封印したかったのではないだろうか。

 ジーンはこれらのデータを身体全体に染み込ませるように、何度も繰り返し読み込んだ。しかし最後には全部の力を使い果たしたのか、椅子の背もたれに身を預けるように、だらりとさせた。

「どういう感じ?」

 画面を覗き込むように近くに立ったマナは、ジーンにそう聞いた。今は薄着でいるわけでもなく、服もいつものように着込んだマナではあったが、妙にその身体の匂いを近くに感じてしまって、ジーンは急激にカイルのデータからマナのほうに意識が呼び戻される。

「私が聞いて、わかるかどうかさえも怪しいけれど……」

 同じく白湯の入ったカップを、その紅い唇に押し当てている光景が、視界の端に映り込んだ。くらつきそうになる自身の頭に喝を入れてジーンは努めて冷静に、マナにもわかるように説明した。

「……なんとなく、わかったような……」

 予想通りの反応が、マナから返ってくる。〝とりあえず、多くは求めないよ〟と心の中で唱えたジーンではあったが、その後のマナの言葉を聞くと、概要は理解できたんだなということがわかる。

「不老長寿に関する、メリットとデメリットのデータなんだね。そしてカイルは、どちらかというと、デメリットのほうを伝えたかった……」

「まぁ、要約するとそういうことだね」

 すっかり温かかった湯は冷え、ジーンはただの水と化した飲み物を口に運ぶ。

「なら、それは絶対に守りきらなきゃ」

 パソコンに接続された、マイクロチップを読み込んだUSBメモリを見つめながら、マナは呟いた。

「あぁ……」

 そう言い切らないうちに、唐突にジーンのタブレットはメール受信の音を奏でた。荷物の中からそれを取り出す。指先で操作し、その文面を読んだジーンは、しばらくの間不可解なものを見る目で、メール画面を見つめた。

「どうしたの?」

 マナがそう問うと、ジーンはタブレットの文面を見せつつ、こう説明した。

「研究所施設へ向かえって。宛先は、カミュからになってる」

 ジーンのその言葉を聞いて、マナはすぐさま疑問を口にした。

「私たちは今や、ノア国にとっては国際的指名手配犯のはず。そんな人たちからの指令で研究所に行けって、それは捕まれってことなの!?」

 マナの疑問は尤もな疑問である。しかも、そこはかとなく〝王国〟と呼ばないあたりも、まだ認めていないという気持ちが滲んでいた。ジーンは、先を続けた。

「セイシェルの元に、一通のメールが届いたらしい。それが研究所の職員からのメールで、そのメールの内容が……」

 ジーンは、長いその暗号文で記されたメール画面を確認しながら、説明を続けた。その研究所職員は、〝レナート〟という人格の正体を知ったこと、脳移植手術が研究所で極秘裏に行われてきたこと、そしてそれによる拒絶反応の最新の実証データを得ることができたことを、職員はメールで報告してきたようだ。

 そしてそれを受けたセイシェルは、現場に誰かを派遣しようとした。だが自分や、自分のまわりに近いカミュは、今やリヒトの監視網が強まり、動くに動けない。そしてそのお鉢が、ジーンたちの元へ回ってきたということのようだ。幸いジーンならば、職員の実証データや、現場を見て、理解できるだけの医学的知識も豊富だ。一番の適任者として選ばれたのだろうが、この状況下で研究所に向かうのは、自殺行為に等しい。そして、その職員は信頼に値するほどの人物なのか、という疑問点。

 その点に関して、ジーンは即座にメールを返信した(もちろん、暗号文で)。意外にも数分後に、カミュからその答えは返ってきた。

 リヒト自身が、研究所を潰したがっている。だから機動部隊や軍は、近々派遣するつもりのようだ。そいつらの中や研究所職員の中に、セイシェル派の人物を紛れ込ませるつもりだ、とのこと。

 そして、もう一つの疑問点。メールで様々な隠蔽情報を報告した、職員の正体。この内容に関しては、前記の事項よりも長くとっていた。

 職員の正式な名は、ベイズ=タウ。

 その姓を見て、ジーンは目を瞠った。タウ姓ということは、セイシェルの血筋の者ということになる。セイシェルは、タウは武人の一族であると言っていた。そのタウ一族から、研究所職員となる者が輩出されたのは、異例とも言えることだったようだ。

 だからこそベイズ本人は、タウ姓を封印し、その出生を隠すようにして生きてきた節があったようだ。武人の一族に生まれながら、非人道的な実験を繰り返す研究所で生きる自分。その姓を名乗ることを、恥じていたのかもしれない。

 その彼が自身の本来の名を明かし、セイシェルを頼ってきた。タウ一族には、苦境に陥ったとき、互いに助け合うという固い掟がある。セイシェルはそれを守るため、またベイズも情報提供という方法で、その掟を守るために、互いを信頼することに決めたのだろう。

 ジーンは互いの気持ちに、思いを馳せた。だがその中に、自身の中から湧き上がってくる、不快な感覚も感じ取っていた。それは、〝ベイズ〟という名を目にした瞬間から、思い出してしまった感覚だ。

 あの研究所で目覚めたときの、彼の首を絞めるその光景と感覚が甦ってくる――

 ジーンは息を吐き出した。髪をかき上げながら、下を向く。そうすることによって、何かが静まるのを待っていた。

「……ジーン?」

 不思議に思ったマナは、そう声をかけた。ジーンは、はっとしたように顔を上げる。

「ごめん。大丈夫。とにかく考えよう。ここから研究所に向かうルートを」

 結局のところジーンは、セイシェルからのその依頼を請けることにしたようだ。ノア国で国際的指名手配犯にされて、危険極まりないこの状況下において、ジーンがそう決断すること自体、マナにとっては意外とも思える決断だった。

 逆を返せば、それほどに興味をそそられることなのだろうか。それとも、ジーンの中でもカイルの記憶が甦り始めているのだろうか。

 マナは朝日の光を受けて輝きを放つ、窓の外の湖面を見つめた。

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