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1枚の写真から……!

作者: 氷中冴樹

  ロフトの女王


 そもそもの間違いは、母が父と結婚したことにあると、僕は思っている。

 一枚の写真が、残っている。

 それは、暗い大きな部屋の中で、華やかなカクテル光線を浴びて躍る若い娘の姿だった。

 写真の中の娘は、長い髪を大きなリボンで束ね、それをさらに大きく上に跳ね上げながら、短いスカートを翻して、蝶のように躍っていた。その躍動感に満ちた華麗な姿は、ブロードウェイのミュージカル・スターだと言っても充分に通用した。

 華麗に舞う若い娘の姿は、彼女の周囲の闇に溶け込む、大勢の若者達によってさらに引き立てられていた。服装だけは、中央の娘に負けず劣らず華やかな若い男女達だったが、その視線は羨望と嫉妬を込めてただ一点に集中していた。彼らは惚けたように、じっと宙に舞う娘の姿を見つめ続けていた。

 その羨望と嫉妬の対象こそ、ロフトの女王ミキこと一文字美姫〈いちもんじ・みき〉。恐ろしいことに、正真正銘の僕の母だった。

 その母が、うだつの上がらない商社マン、比川正治〈ひかわ・まさはる〉と結ばれたことは、湾岸族と呼ばれていた当時の母の仲間の間では、驚天動地の出来事だったらしい。

 らしいと言うのは、もちろん僕はその頃まだ生まれてはいない訳で、人から聞いた話だからだ。ただ、そのどれもが同じ意味内容のことを口にしている以上、これはほとんど事実だったと、僕は確信している。

 ともかく、後に僕の父となる、この比川正治という男は、生真面目でお人好し。二十年以上、浮いた噂一つなく、高校・大学と勉強一筋で歩んでいたらしい。彼は、その学歴を買われて、当時としても一級の総合商社に、めでたく入社したのだった。

 この時も、別に彼に大きな野心がある訳でもなく、ただなんとなく、そこが有名でみんなが進めるからという理由で選んだのが、本当のところだったようだ。人に頼まれたり、勧められたりすると、嫌とは言えない性格の人だった。

 後に知ったのだが、どうも父は、本当は動物関係の学問か、天文学をやりたかったらしい。しかし、生じっか成績がそこそこに良く、人柄も大人しいため周囲が勧めるままに、大学も企業も決めてしまったようだ。

 ともかく、そんな正治にとって、恋愛とか恋人などとというものが、身近であるはずがなかった。

 確かに、彼の学歴や就職先に惹かれて、言い寄って来た女性達は少なくなかったようだ。だが、彼女達は皆、彼の性格的な雰囲気に付いて行けず、やがて離れて行った。

 そんな正治が入社二年目、二十四才の時に、会社の同僚達に会費の頭数合わせのために、ロフトと呼ばれる湾岸埋め立て地の巨大な倉庫街に引っ張り出された。そこでは、大規模なディスコ大会が、正治の会社の主催で行なわれていた。

 もちろん、正治が踊れるはずもなく、会費を払った彼に注目する者もまた、誰もいなかった。彼は巨大な踊りの空間の隅で、一人静かにひっそりと佇み、やがて頃合を見計らって消えるつもりだったらしい。

 ここでまた、らしいと付けたのは、他の多くの人の意見と、当事者である母の意見とが、見事に喰い違うからだった。彼女に言わせると、父は決して壁の花ではなかったことになる。

「深い泉を思わせる、澄んだ知的な瞳。暗い闇と、強烈な光が入り乱れる中で、何事にも動じない物静かなたたずまい。何もかもが、他とは違って見えたわ‥‥‥」

 そりゃ、そうだろう。ロックとサンバの違いもわからない、世間知らずの若い男が、いきなり派手な音楽と踊りの渦にの中に放り出されたのだ。父でなくても、ポカンと突っ立っているしかなかっただろう。

 この時、商社の社員が主催したのは、いわゆる新人の歓迎会だった。そして、既にロフトの女王として名前の知られていた母は、他の主だった仲間と共に、この大会に花を添えるべく、特別に招待された、言わばサクラだった。

 壁に突っ立っている、純朴なだけが取柄の青年と、芸能界入りすら噂されるロフトの女王は、こうして出会った。

 その場に居合わせた人の話によると、誘われても誰とも躍ろうとしない父に業を煮やした母が、強引にその手を取ると会場の中央に引っ張り出したのだという。音楽に乗って、激しく躍る母の動きに、運動センスが限りなくゼロに近い父が付いて行けるはずもなく、その珍妙な取り合わせは、会場の爆笑を誘った。

 その場にいたほとんどの者は、それを内気な男を翻弄する、勝気な少女のお遊びだと信じていた。だが、当事者達だけが、まったく違う意見を持っていた。

「父さんは、そこに蝶を見たんだ。人の姿をした、華麗に、そして大胆に舞う一羽の蝶を‥‥‥」

 後に、青年自身が幼い息子に向かって、夢みるように語って聞かせることになるその出会いは、彼の運命を大きく変えることになった。

 片や、本当にインスピレーションを感じたのか、それとも単なる遊び心だったのか、ロクに踊れもしない青年の手を引いた少女の中にも、変化が生じていた。当時の仲間の話によれば、確かにその頃の美姫は不安定な状態だったらしい。

 高校を卒業はしたものの、自分が何をやりたいのか思いあぐね、ロフトの女王ともてはやされてはみても、芸能界に興味は持てなかった。何よりも、自分に対する周囲の評価が、どれもこれも本当の自分を相手にしていないような気がして、彼女は苛立っていたらしい。

 ロクに踊れもしない青年と、バカ騒ぎに飽き飽きしていた少女は、お互いに手を取り合って会場を抜け出した。そして、どうしてそういう展開になったのか、良くわからないのだが、ともかく青年は誰にも打ち明けたことのない夢を、少女に語り始めたのだった。

「アラスカには、オーロラが輝くのだそうです。それはそれは美しい、この世のものとは思えない光景なんだそうです。アフリカのキリマンジャロという山には、夏でも雪が残っているのだそうです。赤道直下なのに‥‥‥それに、その頂から見上げる夜空は、本当に星が洪水のように輝いているのだそうですよ。せっかく商社という仕事に付いたからには、是非そういうものを見てみたいのです」

 青年の夢に、少女の憧れが共鳴した‥‥‥らしい。

 確かに、ロマンチックな話ではある。いささか、陳腐だとは思うが。若き日の父が、比川正治が、そういうセリフを口にすることは、現在からも充分想像のつくことだった。

 問題は、なぜ母が、ロフトの女王と異名を取る一文字美姫が、そんな陳腐な夢に同調したのかと言うことだった。

 だいたい、彼女の実家一文字家と言うのは、大財閥の家系で、地位も財産も何の不足もない家庭だった。美姫はその家の一人娘として、何不自由なく、我が侭一杯、やりたい放題、優雅で自由な暮らしを満喫しているはずだった。

 そんな彼女にとって、アフリカだろうがアラスカだろうが、行こうと思えば、その日の内に行くことができたはずだった。それが、何を勘違いしたのか、冴えない男の、ささやかと呼ぶには陳腐過ぎる話に、すっかり感動してしまったのだ。

 これは今日に至るまで、息子である僕にも、まったく理解できないことだった。

「わたしも、是非見てみたいわ‥‥‥」

「なら、一緒に見れたら、いいですね」

「ええ‥‥‥」

 他愛ない、余りにも単純なこの会話によって、僕の父と母は、残りの人生をお互いの傍で一緒に過ごす予感があったのだと言う。

 余りにもバカバカしい話で、当時の彼らの周囲の人間、特に母を知る者が、誰もその話を本気にしなかったことは、充分に信じられることだった。息子である僕自身ですら、とうてい信じられないことだった。

 事実、話はそんなに簡単には進みはしなかったようだ。

 母にしても、一時の熱に浮かされて、そんなことを口走ってはみたものの、それが直ちに結婚に結び付くとは、思っていなかったらしい。増して、父の知り合いに至っては、彼が一文字美姫と二人きりで時を過ごしたという事実さえ、用意に認めようとはしなかった。無理もないと僕も思う。

 だが、純情一筋、思い込んだら命賭け。これまで、なまじ品行方正、学術優秀、人畜無害で過ごして来た正治青年にとって、これはまさしく、一生一代の大恋愛ということになったようだ。

「また、お会いしたいのですが?」

 自分の、そんな問いに対する相手の答えに気を良くした彼は、それからは毎日のようにロフトに現れ、娘に付きまとうようになったらしい。

「それは、熱心だったんだから。まるで、小野小町に恋する深草少将みたいに‥‥‥」

 それが事実であったかどうかは、口にしたのが母なのでに鵜呑みにはできないけれど、ともかく熱心であったことには間違いはなかったらしい。

 時には、母の親衛隊を自認する男達に、寄ってたかって袋叩きにされたこともあったと言う。それでもめげずに、父は母の元に通った。ただ、それが全部、仕事を終えた後か、休みの日に限られるところが、真面目だけが取柄の父らしいと言えば、言えたのだろう。

 そんな父を、邪険にするでもなく、むしろ父が来ないと寂しそうにする母に、周囲の者達は不吉なものを感じたという。だが、周囲の人々が案じたのは、何も母に対してだけではなかった。

 突然のように、そんな比川正治に、アラスカ営業所配属の辞令が下りたのは、単なる偶然ではなかった。ロフトの女王に入れ挙げる、父の将来を心配した同僚や上司の配慮の結果だった。もっとも、同僚の方に、父に対する母の態度に、内心面白くないものを持っていた者がまったくいなかったとは、言い難い状況ではあったらしい。

 他の社員ならば、極寒最果てのアラスカ営業所は、左遷の究極の代名詞で、まったくなり手がないというような場所だった。しかし、正治にとっては違っていた。

 輝くオーロラに、トナカイの群れ。白熊が躍動し、シャケの群れが遡上する北の大地は、まさしく彼が憧れて止まない、自然の宝庫だった。

「僕と一緒に、オーロラを見ませんか?」

 それが、父のプロポーズの言葉だった。

「こんなに素敵なプロポーズを受けたのは、世界中でわたし一人よ!」

 母は今でも、そう言うと目を潤ませ、頬を上気させて、遠くへ視線を向ける。

 別に母だけではなく、似たような言葉は、それこそ世界中にありふれているような気もする。だが、そんなことは口にするだけ無駄であることを、僕はこれまでの短い人生の中で、思い知らされている。

 それどころか、下手に異議を唱えようものなら、母にどんな目に遭わされるか、わかったものではなかった。確か、小学生の時に、うっかりマセた口でそんなことを言ったら、三日間食事を抜かれた。

 もしあの時、父が出張から戻ってこなかったらどうなっていたか、今に至るも僕には自信がない。

 ともかく、天下無敵、恐いもの無しのお嬢様。湾岸のロフトの女王は、周囲の批判、懇願、哀願、制止をのすべてを振り切って、冴えない商社マンの懐へと飛び込んだのだった。

 二人の新婚旅行は、そのまま最北の地への片道切符となった。

 かくして、この新婚夫婦の最初の赴任地で、僕は氷河の氷を溶かしたお湯を生湯として、この世に生を受けた。

 両親は、僕を正姫〈まさき〉と名付けた。およそ男らしくないこの正姫という名は、まさしく父正治と母美姫から一字づつを取った、正真証明、夫婦合作の証しだった。

 以来十六年。一筋縄では行かない僕の人生は、この時既に、半ば確定していたのかも知れない。



  アラスカ


 一枚の写真がある。

 写真の中央には、白いシルクのブラウスに、フリルの付いた長いスカート姿の若い女性が、大きな藤の肘掛け椅子に座っている。誇らし気な笑みを浮かべたその女性は、胸にこれもシルクの産着にくるまれた、小さな赤ん坊を抱いている。

 それだけを見れば、それは一枚の絵のように美しい、気品に満ちた記念写真だった。ところが、その写真には著しく趣を損なうというか、場違いな姿の人物が、その若い女性の傍らに写り込んでいるのだった。

 言うまでもなく、白いシルクが映える若い女性が僕の母で、その腕に抱かれている赤ん坊は、生まれた直後の他ならぬ僕自身だった。そして、その隣りに立っている場違いな格好の人物こそ、僕の父その人だった。

 では、なぜ母が赤ん坊共々シルクのドレスで決めているのに、父は場違いな格好をしているのだろうか。

 その写真の中で、父は今で言うところのモコモコのダウン・ジャケット。つまり、寒冷地用の分厚い防寒コートを着て、大きな長靴を履き、顔は目の部分を除いて、ほとんどフードに覆われていた。

 なによりも悲惨なのは、その両手を包む巨大な手袋だった。その姿には、どこにも長男の誕生を祝う父親の威厳はなく、ひたすら寒さに堪え忍ぶしかない、極北地方に住む人々の厳しい生活感だけが漂っていた。

もちろん、父がそんな格好をしていたのには、それ相応の訳があった。写真は室内で撮られたもので、背後には暖炉と、ログ・ハウスらしい丸太の壁が見える。

 その暖炉と、丸太の壁こそが問題だった。

 確かにアラスカの大地に建つログ・ハウスには、都会人のロマンを掻き立てるものがある。事実、夏の間であれば、それはあながち見当違いのロマンという訳でもなかった。

 問題は、それが冬のさ中だということにあった。

 なぜ、そういうことになったのか、定かなことはとうとうわからないままだったらしい。ともかく、父の赴任先のアラスカ営業所というところは、営業所とは名ばかりの丸太小屋に過ぎなかった。

 夏の間はそれでも良かったが、いざ冬になってみて新婚夫婦は、いきなり極限状態での生活を体験することになった。

 零下何十度という寒気を、丸太組みの壁は、ほとんど遮る術を知らなかった。唯一の頼みは、暖炉で一日中小屋を暖めることだった。

 どうやらその営業所は、当初、夏の間だけ使われていたものらしい。地元の人間には、そんなことは常識だった。彼らは、遠い国からやって来た若夫婦が、まさかそこで冬を過ごすなどとは、夢にも思いはしなかったのだろう。暖房の燃料が冬を過ごすためには、とうてい足りないことなど、誰も若夫婦に知らせてはくれなかった。

 もし、僕を宿していた母が急に産気付いて、父がラジオ無線機のあらゆるチャンネルで救援を求めなかったならば、春には若夫婦のフリーズ・ドライが出来上がっていたのかも知れない。

 病院で、自分達の無謀さを知らされた父は、さすがに青くなったそうだが、母はまったく動じなかった。

「違いますわ、わたし達はせっかくの新婚一年目を、ロマンチックな冬のログ・ハウスで過ごしたかったのですわ。ねェ、あなた!?」

 そう言って、何としても自分達の落度を、認めようとはしなかったと言う。

 その母は、自分達の正しさを証明するために、退院すると早速、この記念写真を写したらしい。そのために、部屋の暖炉にはまだ火が入っておらず、父は寒さに震えていたのだ。

 にも関わらず、母は悠然とシルクのドレスを纏い、生まれたばかりのか弱い赤ん坊、つまり当時の僕にも、わざわざ薄いシルクの産着を着せて、この写真を撮ったのだった。彼女はそれを、自慢気に自分と父の実家はもとより、父をアラスカに送り込み、不手際から丸太小屋に押し込んだ、会社の関係者達にも送り付けたという。

 見る目を持った人間が見れば、それはまさに自殺行為に等しい写真だった。さすがに会社の関係者も驚いたのか、ほどなく父は丸太小屋の営業所から、少し離れた都市のマンションの一室を与えられた。

「わたしは、このログ・ハウスの方がよろしいですわ」

 と、母は最後まで抵抗したらしい。

 父が生まれたばかりの子供のためにも、都会の方が何かと便利だからと説得して、ようやく母は折れた。だが、それでも次の年の冬は、絶対に丸太小屋で過ごすと譲らなかったそうだ。

 結局、父はそれから半年以上をかけて、会社の力を借りずに、その丸太小屋を越冬可能な建物に、作り替えなければならなかった。結婚二年目にして、この母の我が侭は、充分に夫婦破局の原因になると思うのだが、わからないのは人が好いにも程がある、そんな父の態度だった。

 確かに、当時のアラスカには、商社の取り引きの対象となるようなものは、毛皮ぐらいしかなかったので、仕事は忙しくなかった。そうは言っても、永久凍土の下には豊富な地下資源があり、北の海は魚介類の宝庫だった。取り引きの材料を探そうと思えば、幾らでも探すことができるはずだった。

 もちろんそのためには、法律の網の目をくぐり、地元の有力者や政治家に物を言わさなくてはならなかった。実際、優秀な商社マンというものは、そうやって新たな市場を開拓するものなのだろう。

 けれども、父にはそういった素養は、まったくなかったようだ。彼は、正規の取り引きを誠実に行い、会社の無茶な指示は聞き流し、ひたすら自分の愛する妻のために、丸太小屋の改築に汗を流し続けるのだった。

 どうやら、この比川正治と人物には、政治家や実力者を相手に裏取り引きをするよりも、ログ・ハウスの改造に精を出す方が、性にあっていたらしい。また、彼のそんなところに、このやたらにファッション・センスと美意識だけが高い、お嬢様育ちの我が侭な女性は惹かれたらしい。

 比川美姫は、自分の夫が仕事をそっちのけにして、自分のためにせっせと家を改造する傍らで、嬉しそうに彼の手伝いをしていたという。その時にも、彼女は体のラインにピッタリと合ったスーツと、ヒールの高いブーツで決めることを忘れなかったらしい。

 もちろん、母親らしく、赤ん坊である僕は、きちんと背中にベビー・ホルダーでしょっていたのだそうだ。その時は、僕にもジーンズのベビー服と、カウボーイ・ハットを着せていたそうだが‥‥‥。

 ついに、アラスカ営業所は、名実共に定住可能なログ・ハウスとして、二回目の冬を迎える前に生まれ変わった。父自身が手を加えたこの家を、母はことのほか気に入ったようだった。アラスカを離れる時には、解体して持って帰れないものかと、本気で考えて周囲を慌てさせたらしい。

 防寒設備の整ったこのログ・ハウスの中で、母は徹底して自分のポリシーを守り通した。即ち、外は雪と氷に閉ざされ、ブリザードが吹き荒れているというのに、家の中の彼女は最後まで、シルクのドレスをコーディネイトし続けたのだった。

「だって、雪と氷の世界にひっそり佇むログ・ハウスの中では、やっぱりシルクの白よ!雪の女王のイメージでしょう!?」

 それが、彼女の言い分だった。

 そして、彼女がそう言い出したなら、他の誰であっても異議を唱えることはできなかった。何しろ、必ずそれを実践する人なのだから‥‥‥。

 それほど母が気に入った、せっかくのログ・ハウスでの生活も、残念ながら三回目の冬を迎えることはできなかった。ちっとも成績の上がらない父の業績に呆れたのか、そのログ・ハウスに対する母の愛情に嫉妬したのか、会社は父を呼び戻した。

 僕が、覚えているのは、この最初の帰国の頃からだった。幸いと言うべきか、僕は自分が母の美意識によって、氷漬けの危機に直面したことは、まったく記憶に持っていなかった。

 その代わり、僕は物心付いたとたんに、幼稚園での迫害という危機に、母のそのファッション・センスと美意識によって、直面したのだった。母は、幼稚園の制服に美意識の欠片も感じられないと言って、保母と園児の母親達を向こうに回して、派手な論戦を展開したのだった。

 それが単なる言葉の応酬ではなく、実力行使に結び付く直前。父に再び、海外赴任の辞令が出たことは、誰にとっても幸いなことだったと、僕は思っている。



  ボリビア


 一枚の写真が、残っている。

 南米のボリビアで、ジープに乗ってライフルを担いでいる、サファリ・ルックの母の姿だ。濃い軍用サングラス越しに、遠くを見つめるその表情は、獲物を狙うハンターそのものだった。

 事実、母はこのボリビアでハンターのボランティアをしていた。それも、ハンティングする相手は人間という、はなはだ物騒なボランティアだった。

 比川美姫は、なかなか優れたハンターだったらしい。彼女に狩やライフル銃の扱いを教えたのは、カナダに住んでいた彼女の祖父だった。

 幼い頃から、狩猟のお供に連れられた母は、自然と銃の扱いに慣れて行った。ただ、生き物を撃つことには小さい頃から抵抗があって、祖父のお供をしても、自分が撃つことはほとんどなかった。

「鳥や動物に鉄砲を使うのは、一方的で面白くなくて、それにやっぱり可愛そうよ」

 それが、母の意見だった。

 ともかく、狩猟に銃を使うことはなくても、射撃自体は決して嫌いではなかったらしい。アラスカにいた時も、地元の大会で入賞したそうだから、相当の腕前なのだろう。

 その腕前が、ボリビアでは妙なところで役に立った。

 今度の父の赴任先は、ジャングルの真ん中で、またしてもほとんど売り物のない土地だったが、貴重な野生動物にだけは恵まれていた。

 もちろん、生真面目で人の好い比川正治が、会社の命令とはいえ貴重な動植物の裏取り引きに荷担するなど、有り得るはずもなかった。

 確かに彼は命令に従がって、最善は尽くした。だが、それはどれもまっとうな方法なものだから、当然のように律やモラルを超えることはできなかった。結果的に、彼はまったく仕事を果たすことができなかった。

 そして、彼が真面目に貴重な動植物を持ち出そうとしている間に、彼の妻は現地で知り合った人を通じて、地元のジャングル・レンジャーに協力することになった。そのレンジャーとは、密猟者から動植物を守る組織だったから、何のことはない、夫婦で正反対のことをやっているようなものだった。

 母にこの仕事を紹介した人は、地味な事務処理の手伝いか、キャンプでの食事の手伝いなどを期待していたらしいが、母の方は違っていた。

「レンジャーとしてなら、お手伝いできますわ」

 それが、母の返事だったらしい。

 もちろん、最初は誰も母にレンジャーの仕事ができるとは思えなかったようだ。ただ、外国の若い夫人の我が侭と諦めて、ともかく一度、パトロールに連れて行ってみたらということになったらしい。

 そんなことだから、当然それほど危険な地域のパトロールでないはずだった。ところが、偶然にも大規模な密猟団と鉢合せしてしまった。しかも、運悪く、こちらのレンジャーが真っ先に銃弾を受けて、戦闘不能となってしまった。残るのは期待されないままに、ともかくライフルだけは持たされた母と、雑用を受け持つために付いて来た他の婦人達だった。

 怯えて声もでない御婦人方と、怪我をしたレンジャーをかばいながら、母は密猟団の向けて発砲した。たちまち、数人の肩が撃ち抜かれ、戦闘不能となった。

 驚いた密猟団は、形勢を一気に逆転するために、隠していたヘリコプターによる攻撃をかけた。そんなものを持ち込めることに、この密猟団の組織の大きさが感じられたが、レンジャーの方としてはまさに絶体絶命だった。

 ところが母にとっては、この空飛ぶ大きな鉄の鳥は、まさに絶好の標的だった。プロペラの回転軸と、燃料タンク、そして後方に付いている舵という、ヘリコプターの三つの弱点を効率よく母は撃ち抜いた。

 軍用の攻撃ヘリコプターならともかく、防弾もろくにしていない普通のヘリコプターでは、たまったものではなかった。安定を失ったヘリコプターは、仲間の頭上へと落下して行った。

 この結果、比川美姫は近年最大の密猟団を、一瞬にして壊滅させ、そのほぼ全員の逮捕に成功した。この出来事と成果は、一夜にして彼女を有名にした。

 大統領の晩餐会にまで招待された彼女が、正式にレンジャーとして採用されない訳がなかった。これ以後、この国に滞在している間中、比川正治は商社マンとしてではなく、レンジャー・ミキの夫としてこの国では知られたのだった。

 もちろん、父は父なりに母がレンジャーになることには反対した。ただそれは、自分の仕事に差し障るからではなく、純粋に妻の身の安全を心配したためだった。

 サファリ・ルックに身を固めて、パトロールに出かける度に、父は不機嫌だった。けれど、そんな父も母にそっと口付けをされると、それ以上行くなとは言えなかった。そんな場面を、僕は何度も目にしていた。

 運がいいのか、僕達がボリビアにいる間、最初の時ほど大胆な密猟団は、ついに現われなかった。三年後に、父の帰国が決まると、母もこの物騒なボランティアを終わりにしたが、現地の人々としては止めて欲しくなかったようだ。大統領までもが、説得に動いたという話を、僕は聞いている。

「レディ・ミキが帰国して以来、安心したかのように、再び密猟団の動きが活発になってしまって‥‥‥」

 などという、手紙がその後も何度か母の元には届いたらしい。

 母としても、協力したい気持ちは今も失ってはいないようだ。ただ、彼女にとって、何よりもまず大事なことは父と共にいることで、父と離れて、単身で行くということは、頭から考えていないようだった。

 そんな母の活躍はともかく、大統領と親しくなりながらも、まったく成果を上げることのなかった父に対して、会社がどう思っていたのか僕にはわからない。

 それからも、僕達家族はヒマラヤの山の中やアフリカの砂漠など、およそ地上の果てのような場所へ、都合四回もたらい回しにされた。父と一緒に世界を飛び回ることが、ほとんど唯一の結婚動機と言っていい母が、僕の将来を考えて国に残るなどということは、まったく有り得なかった。

「いつでもどこでも、家族が一緒!それが、史上最高の幸せよ!!」

 それが母の口癖だった。

 母の両親、つまり僕の祖父母を見る限り、母がこれほどまでに家族に執着するほど、家族愛の薄い家庭だったとは思えなかった。それなのに、これほど母が家族にこだわることが、僕には不思議だった。

「わからないのかい?お母さんがこだわっているのは、君のお父さんに対してで、彼女はあの比川正治と一緒にいることが、史上最高の幸せなのさ」

 少し皮肉っぽくそう言ったのは、母の古い友人の一人で、母を慕い続けて未だに独身を貫いている、かつての湾岸族の一人だった。

 彼の言うことが正しいとすれば、僕は余計なお邪魔虫のはずなのだが、母は決して僕一人を残そうとしなかった。その理由に付いても、かつて母の親衛隊だった人は明解に答えた。

「簡単さ、君のお父さんが、君と一緒にいたいからさ」

 納得。何ともわかりやすい論理だった。

 もっとも、そうだとすれば、母にとっての僕の存在意義は、いったいどんなものなのだろう。思春期を前にした少年にとって、それはそれで、なかなか深刻な問題だった。

 どこまで行っても、お人好しで生真面目な父は、ほとんど何の業績も上げられなかった。そんな父が、とうとう本社へと呼び戻されたのは、僕が小学校の五年に上がった年だった。

 母の武勇伝には事欠かないものの、会社に損害を与えることはあっても、利益を上げたことのない父に対して、今度こそ会社も諦めたらしい。本社に呼び戻された父は、そのまま文字通りの、窓際の閑職へと回されてしまった。

 おかげで僕は、ようやく落ち着いて、学校に通うことができるようになった。不謹慎かも知れないが、このまま父が閑職であり続けてくれればと、秘かに願わずにはいられなかった。しかし、それは所詮叶わぬ願いだった。

 その名前を聞いた時、僕にはそれが地図のどの辺になるのか見当も付かなかった。

 奥山県中山村。それが、父の今度の赴任先だった。

「あの、ひょっとして僕も一緒に?」

「正姫ちゃん、まさか嫌だとなんて言う気はないでしょうネ?」

「もちろんです、お母様!」

 口調と表情は微笑みに満ちていたけど、ほとんど笑っていない母の目を見て、僕は慌てて頷くとささやかな期待を胸の内にしまった。

 中学の三年間を都会の学校で穏便に過ごし、今年から近くの公立高校へ進学した僕としては、平凡でも穏やかな日常が続いてくれることが、何よりの願いだった。確かに、他人から見れば余りにも小市民的で、セコイ願いだとは思う。だけど、生まれた時に凍死の危機にさらされて以来、大自然の驚異と、そこに生きるシビアな人間関係に翻弄され続けた僕としては、それはささやかでも、最大の願望に他ならなかった。

「何だ、正姫には将来を誓ったガール・フレンドでもいるのか?」

「そうなの、正姫ちゃん?」

 父にそう言われ、母に疑惑に満ちた眼差しを向けられた時、僕は転勤に付いていかないという、あらゆる理由が尽きたことを知った。

 と言うよりも、父を説得し母を納得させる、唯一の理由がそれだったのだ。あらゆる存在の中で、男女の愛情にこそ最上のものを認める、恋愛至上主義の母にとって、僕に恋人がいることだけが、家族と別れて暮らすことを正当化できるものだった。

 ひょっとしたら、父は父なりに僕の気持ちを察して、助け船を出してくれたのかも知れない。しかし、残念ながら落ち着いた都会暮しに満足していた僕は、ガール・フレンドを作るようなところまでには、行っていなかった。

 こんなことならと、僕は心底自分のふがいなさを呪った。もっとも、すべてに恋愛感情を優先させる、この母を納得させられる恋などというものが、そうそうこの世に転がっているとも思えなかったのだが。

 僕は、潔く白旗を掲げた。どうせ、子供の頃から転勤には慣れている。諦めと決断の早さは、僕の数少ない取柄だった。

 こうして十六才になった僕は、同じ国内とは言いながら、地図の中を虫眼鏡で探さなければならないような土地へと、引っ越したのだった。

 それが、僕の人生の第二の幕開けだなどとは、思うはずもなかった。


  村立田中高校


 一枚の写真がある。

 雪まみれの防寒着を着た学生が、精も根も尽き果てたた表情で、雪の上に座り込んでいる写真だ。

 奥山県中山村とは、東北と関東に挟まれた、地味な土地柄だった。恐らくこの地方の出身でない限り、全国地図の中で正確な位置を示すことは困難だっただろう。

 そんな山の中の、村立高校が僕の新しい学校だった。全国でも珍しいこの村立高校は、田んぼの中に不釣合いなほど立派な、白亜の殿堂としてそびえていた。

 なんでも、この土地の大地主が、村の過疎対策のために土地と建築費を、気前良く提供してくれたらしい。もしそれだけなら、新聞の地方版の片隅を飾るにふさわしい美談だった。けれども、その見返りとして、生徒全員に学校周囲の田んぼ十町分の管理を義務付けるとなると、雲行きが妖しくなって来る。

 十町分と言えば約三百坪、一千平方メートル余りになる。学校の周囲に、それだけの田んぼが広がっていることも異様だが、その土地を全校生徒とはいえ、高校生に管理させようというのは尋常ではなかった。

 トラクターなどが使えるのなら、さすがに農家出身の生徒が多いのでそれほど問題はなかったが、困るのは機械が入らない場所だった。地盤や立地条件の関係で、学校の周囲の田んぼは、その約三分の一が人力でないと耕せない土地となっていた。

 大地主は、学校に提供するとかなんとかうまいことを言って、扱いに困る自分の田んぼを、生徒達に押しつけたのだと言うのが、この村での公然の秘密となっていた。

 幸い夏になってから転校した僕は、全校生徒による田起こしと田植には参加しないで済んだ。しかし、二学期が始まって直後の、収穫祭というものには度肝を抜かれた。

 どんな高校でも、普通は秋に文化祭というものが行なわれる。この田中高校では、それを収穫祭と呼んでいたのだ。

 確かに、文化祭に独自の名前を付けて呼んでいる学校は多い。ところがこの学校の場合、それは単なるネーミングの問題ではなかった。文字通り、本当に全校挙げて稲刈りをし、その収穫を祝う祭り。それが、村立田中高校の収穫祭だったのだ。

 初めての鎌を使う稲刈りで、僕は腰を痛めてしまった。そのため、一週間後の祭りに参加することができなかった。悪いけれども、僕はそのことを悔やみはしなかった。

 何しろその祭りのメイン・イベントは、刈り取った稲で作ったクラス対抗の案山子コンクールで、それにはその案山子にまつわる寸劇まで付いているのだった。

 ちなみに、五体満足であれば僕がやるはずだったのは、巨大ロボット・ヒーローに見立てた案山子に倒される、敵の戦闘員役だった。やらずに済んで、僕は心底ホッとしていた。

 ところが、このことで僕は思いもよらない母の非難を浴びてしまった。

 世界中の僻地を転々とした経験と、持ち前の陽気さと行動力で、母は半年も経たない内に、村の中に溶け込んでいた。都会でポルシェやフェラーリーを乗り回していた彼女は、ここではそれを大きなランド・クルーザーに換えていた。そして、ボリビアのジャングルで鳴らした腕を、遺憾なく発揮していた。

「やっぱり、人間は自然に親しまなくっちゃ!」

 それが、都会住いの時は、昼間でも胸開きの裾の長いドレスを翻して、高いヒールのパンプスを履いていた女性のセリフだった。

 比川美姫は、あっさりとシルクのスカートをサファリ・ジャケットに変えると、週末の度に夫と一緒に、そのランド・クルーザーで出かけた。目的は、近くの野山に野鳥観察、つまりバード・ウォッチングだった。もっとも夫の方の目的は、鳥を見るよりも、釣りをすることにあったようだ。

「地域のイベントに参加することは、その地域の人と親しくなる絶好の機会だと、いつも言っているでしょう?」

 それが、母である彼女の主張だった。

 確かに、母は既に村の婦人会のメンバーとして、学校の収穫祭の準備も手伝っていた。彼女にとって、刈入れで腰を痛めたことなど、その重要な機会を逃す言い訳にはならなかったのだ。

 冗談じゃないと、僕は心の中で思っていた。しかし、面と向かって母にそう言う勇気は、持ち合わせがなかった。

 僕はその埋め合せとして、学校の家畜の世話係を買って出る羽目になった。学校には、三十頭もの豚を始めに、牛・馬・鶏はもちろん、アヒルや山羊、果てはミミズやバクテリアに至るまで、人間教育と農業実践の一環として飼われていた。ちなみに、ミミズは鶏などの餌であると同時に、バクテリアと共に土質改良の研究の材料だと言われていた。

 この村立田中高校のモットーは、バイオテクノロジーを加えた近代的自然教育ということらしかった。ただ、僕の見たところ、バクテリアの飼育以外にバイオテクノロジーらしきものは、まったく見当らなかった。

 また近代的自然教育というものが何を意味するのか、理解している者は、生徒にも教師にもいないような気がした。ついでに言えば、このモットーは創立功労者で、学校の名誉会長を務める、大地主、田中伝造氏のものだった。田中高校という名前も、彼の名前から取ったらしいというのが、もっぱらの噂だった。

確かに、母の思惑は正しかった。

 家畜の世話を買って出たことによって、僕はそれまで敬遠気味だった生徒達と、次第に親しくなって行った。もっとも、彼らと僕との意識の差は、そうそう埋まるものでもなかったが、それは世界中どこへ行っても同じことだったので、それほど気にはならなかった。

 ともかく、秋から冬にかけて、僕はほぼ一日の大半を家畜の糞にまみれて過ごした。そして、冬休みがやって来た。

 雪国の常で、この学校も冬休みが長かった。そのためもあって、家畜や田畑の世話は、生徒が交代で行なわなければならなかった。

 その日、前夜からの雪が積もり積もって、村全体は一面の銀世界になっていた。僕は母が用意してくれた防寒着と、雪山登山用のブーツで身支度をすると、いつものように村に一本しかないバスに乗った。

 村道の停留所から、学校の門まではアゼ道を舗装したような細い道が、一本あるだけだった。その距離は、およそ五百メートル。

 その学校前の停留所に降りた時、なにやら嫌な予感が僕を捉えた。

目の前の通学路は雪に覆われて、周囲の田んぼとの境界が失われていた。さらに、鉛色に曇った空から、チラチラと雪が舞い落ちていた。

 バスが去ると、僕一人だけが残った。他に、どうすることもできないので、僕はともかく歩き始めた。

 まるで、それを待っていたかのように、風が強まり、積もった雪が舞い上がった。そして、空から落ちる雪は、その量と速度を飛躍的に増した。

 しばらくは前が見えていたのだが、道を半分も行かない内に、視界は完全に白く閉ざされてしまった。アッと言う間に、僕は道を見失ってしまったのだ。

 これ以上は、動くと危ない。僕は、嫌な予感が当たったことを確信した。学校前のアゼ道で、なんと遭難の危機に直面していたのだ。雪の上に身を屈めながら、僕は風雪が納まるのを待つことにした。僕はこの時、こんなところへ行かせた母と、その原因を作った父を呪った。

 そもそも、母が父なんかと結婚したことが間違いなのだ。

 僕は、前々からそうではないかと思っていたことを、この時ハッキリと確信した。お嬢様はお嬢様らしく、自分の美意識が許される世界で、気ままに生けて行けば良かったのだ。父は、商社マンの収入をあてにする普通の女性と結婚して、単身赴任に明け暮れていれば良かったのだ。

 どちらの家に生まれたとしても、こんな理不尽な目に遭うはずはないと、僕は勝手に思い込んだ。ともかく、こんなところで雪に埋もれて人生を終わるとしたら、僕は余りに惨めだった。



  そもそもの間違い


 風雪がやや納まったのを感じて、僕は再び歩き始めた。

 腰まで雪に埋もれていたので、前の雪を掻きながら少しづつ進む、ラッセルという歩み方をするしかなかった。

 少し納まったと言っても、相変わらずの吹雪で前はほとんど見えず、学校がどこにあるのかも定かではなかった。しかし、後戻りしようとは思わなかった。

 背後には村道があるだけで、それもこの雪では、行き交う車などあるはずもなかった。それなら、まだ学校の方がなんとかなるはずだった。

 そうは言っても、行けども行けども、ちっとも学校の門は見えて来なかった。近付いているのかどうかさえも、まるでわからなかった。

 ついに、僕は力尽きた。もう、手も足も動かすことはできなかった。感覚がマヒしたのか、寒さは不思議と感じなかった。僕は雪の白い闇の中に、座り込んだ。

 母ならどう思うだろう。ふと、唐突に僕は思った。もし母がこういう目に遭ったとしたら、どうするだろうか。

 恐らく父に逢うまでは死ねないと、必死に抵抗するのだろう。その予想は容易で、しかも確実だった。少なくとも、現在の母の人生は父と共にある。それを遮る運命があったとしても、母は力ずくで運命の方をねじ曲げるに違いない。

 それほどまでに、恋い慕うことのできる男に巡り会えた母は、やはり至上最高の幸せ者なのだろう。なら、父はどうだろうか。父は、母と別れ別れの運命を、受け入れるのだろうか。

 僕は首を振った。お人好しで、生真面目さだけが取柄の父だが、母に対する愛情だけは本物だった。会社の仕事よりも、自分の人生よりも、父は母の我が侭を優先させるだろう。そんな父だから、あの母が惚れたのだろうか。それとも、あんな母だから‥‥‥いや、どちらでもない、きっとあんな二人が出会ったことそのものが、奇跡だったのだ。

 雪の中で、意識が遠くなりながら、僕は幸せな気持ちで満たされていた。父さん、母さん、僕はあなた達の息子でよかった。幸せでした。

「誰が幸せですって?」

 白い闇の中に溶けようとしたした僕の意識は、その突然の声に、現実に引き戻された。

 見上げると、眩しい青い空を背景に、僕を見おろす顔があった。

「まったく、いったい何をやっているのよ!こんなところで昼寝をしていたら、冗談抜きに凍死するわよ!!」

 空はすっかり晴れ渡り、周囲の一面の銀世界が眩しかった。

 僕を見おろす母の傍らには、自慢のランド・クルーザーの巨大な雄姿があった。僕はてっきり、母が助けに来てくれたものだと思った。

「なに言ってるの!校門の前であなたが昼寝をしているから、引き取りに来るようにって、学校から連絡をいただいたのよ。まったく、恥ずかしいたらないわ!!」

何と、僕は雪の中を歩き切り、校門の前で座り込んでいたのだった。

 しかも、僕が座り込んだ直後、吹雪は納まって、天候は回復したらしい。学校の宿直が、窓からそんな僕の姿を見つけて、母に知らせたのだった。

 だったら、自分で助けに来ればいいのにと、思わず僕は呟いた。

「どうやって?」

 母は背後の校門を振り向きながら、そう答えた。

 校門の内側は、雪の吹き溜まりとなって、埋め尽くされていた。

 雪が降ると構造上こうなりやすいために、学校に登校する時には事前に確認の電話を入れるようにと、僕も確かに言われていた。どうやら僕は、いささか雪を甘く見ていたらしい。

「この冬の遭難者、第一号だァな!」

 妙なアクセントのある声がしたとたんに、シャッターの音が響いた。

 雪の少ない裏門から、大きく迂回して来た宿直の先生が、僕のこの惨めな姿を写真に撮ったのだ。

 その写真は、新学期の学校新聞を華やかに飾ることになった。幸か不幸かこの一件で、僕は学校のみならず、村全体ですっかり有名になってしまった。

 そして、僕以上に、有名になったのが、ランド・クルーザーで雪深い校門に乗り付けた母の雄姿だった。新雪の雪溜りを車で走ることは、地元の人間にも難しいことなのだそうだ。

 しかも、母は裏門から出た宿直の先生よりも早く、自分の家から駆けつけたのだった。その速度は、雪で道がなくなり、最短の直線コースを使えたとしても、尋常なものとは思えなかった。

 宿直の先生からそのことを聞かされて、僕はちょっと嬉しくなった。もっとも、母にしてみれば初めての雪道で、単に思いっ切り暴走しただけなのかも、知れなかった。

 ちなみにその時の母は、真っ赤なボディ・スーツにダウン・ジャケットを羽織り、サファリ・パンタンロンに踵の高いハンティング・ブーツ姿だった。そして、濃い軍用サングラスと、真っ赤なルージュの口元が決め手だった。

 父はと言えば、わざわざ届けられた学校新聞の母の写真を、嬉しそうに眺めていた。その父に、派手な花柄の、体の線にピッタリとしたワンピースを着た母が、自慢のアプリコット・ケーキを差し出しながら寄り添っていた。

 父が見ている新聞の裏側に、僕の惨めな姿の写真があった。その写真を横目で見ながら、僕は小さく、一人でため息を吐いていた。

 やはり、この父と母が結婚したことが、そもそもの間違いだったのだ。あの極北のアラスカの大地で生まれ、初めての写真を撮られた時から、僕の運命は決まっていたに違いない。

 しもやけで腫れ上がった両足を、プラスチックの風呂桶に張ったお湯で暖めながら、僕は再び確信に満ちてそう思っていた。


END


えっと、これは主人公にとっては間違いなく、シリアスな物語です。大真面目です!!ですが、誰がどう見ても、何があっても、どうやっても、主人公の喜劇にしか見えません。まァ、ある意味羨ましい家庭環境?の、お坊ちゃんと言えなくもないのですが、こうも命懸けだと、本人にしてみれば、お笑いでは済まないのでしょう!?という訳で、作者としてはジャンルは、コメディとせざるを得ません。主人公には、甚だ気の毒ですが……。なお作者の、未完の長編小説などは自ら主宰する、創作小説の同人サークル『あんのん』のホーム・ページ〈http://ryuproj.com/cweb/site/aonow〉に、載せております。またこちらには載せられない、アニメやマンガ、小説などの意見や感想などは、同じくブログ〈http://blog.so-net.ne.jp/aonow/〉に載せております。相互にリンクさせてありますので、御覧いただければ幸いです。それではまた、機会があれば、宜しくお願い致します!

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[一言] 思いついたネタをただ羅列したように見える。 ストーリーもキャラの書き込みも中途半端。 ヒロイン美姫の半生を息子の視点から描くのではなく、内容を整理して例えばボリビア編だけを描き込んだ方がよか…
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