ミミリー宅にて
――暑い。
とにかくこの世界は年中暑いのである。太陽のような赤黒い巨星が、世界の中心にあると言われる【塔】のまわりを周回していて――そのせいで、空はいつも腐った静脈血みたいな色をしている。この太陽は沈まない。ギラギラギラギラ……人間やら動物やら魔物やらを熱していく。
匂い? 匂いは最悪、外に出れば泥のつまった排水溝の匂いがして、住民のほとんどは用がない限り家のなかにこもっている。
この世界にやってきた当初、あんまり暑いし臭いしで、俺もずっと【ミミリー】の家に引きこもっていた。もとの世界でも《引きこもり》という状態がよく話題になったけれど、そういう人たちの気持ちがよく分かったんだ。
ああ、外の世界はほんとに最悪、俺を傷つけるし、魔物がいっぱい住んでるこの界隈の近所づきあいも怖いし、みんな声が低くてヤクザみたいだし、とにかくやだよ……もう、俺にはどうしようもできないよ……助けてよ、僕を助けてよ、ねえ助けてよ!! ってね。
「ねえ、ねえ、きょうはどうする?」
俺の隣を歩くカバみたいな魔物――【ミミリー】がしきりに声をかけてくる。
彼女はどうも俺のことが好きみたいだった。異世界に来てウロウロしていた俺を見つけるやいなや「一目会った瞬間恋に落ちました。わたしをあなたのものにしてください」と彼女に宣言されて以来の付き合いである。
もちろん、俺はびびった。いきなりの神隠し的世界観に内心パニックになっていたし、そんな状態でいきなり怖いカバに告白されて……。
でも、びびっていながらも、俺はさわやかな笑みを浮かべた。そうしてリア充的テンションで断った。
「悪い。俺、好きなやつがいるんだ。でもアリガトな! お前の気持ちは嬉しいよ」
「そうですか……」
カバはしゅんとなった。
彼女はおそらく成人に達していて、約2メートルの巨体を誇る。普段は四足で歩いているが、俺に告白するときは北極熊みたいに後ろ足で立っていた。もちろん彼女はちゃんと服を着ている。服というよりは鎧みたいな……服ってなに? 布製品ってなに? みたいなものである。
思えば、ミミリーには感謝してもしきれないくらい世話になったんだ。
右も左もわからない異世界転生者――若年性アルツハイマーと思われても仕方ないこの俺を、彼女はほんとうによく導いてくれた。
だから、俺は彼女を大切にする。彼女がからだを寄せたら、そっとカバみたいな皮を撫でてやる。彼女が顔を寄せれば、その大きな……象牙のような立派な牙を撫でてやる。彼女が涙をみせれば、「どうしたんだい?」とその涙を掬い取ってやる――そうして俺は、彼女の家に転がりこみ、彼女の社会生活を破たんさせ、その日ぐらしのダメ冒険者としての道を踏み出そうとしていたのである。
「今日なにするかだって? なあ、ミミリー。今日――今日って何曜日だっけ?」
「木曜日だけれど……?」
「木曜か。そうなると、タコさんイカさんの番組があるじゃないか」
「タコさんとイカさんって……ふふ。もう、あなたったら好き勝手呼ぶんだから。でも、おもしろーい。うふふふ」
タコさんとイカさんの本当の名前は、それぞれアルドルフ(タコ)とブルドルフ(イカ)といって、この世界では超有名な芸能人である。この世界にもテレビのような、【スピーキー】と呼ばれる魔法を用いた映像媒体が普及しているのだが(残念なことにミミリーの家にあった【スピーキー】は売却して生活費の足しにしてしまった)、このテレビみたいなものを普及させた功労者がタコさんとイカさんなのである。タコさんとイカさんの巧みな話術が人気を博し、お茶の間はスピーキーにくぎ付けってわけらしい。
――ケッ、しょせんタコとイカの漫才だろ……。
と馬鹿にしていた俺も、ミミリーの家でその芸をみた瞬間、とりこになってしまった。そう、タコとイカがほんとに楽しそうにおしゃべりしているのである。仲良しなのである。みんな、彼らと仲良しなのである。みんな笑顔で、やさしく触れ合い、彼らの背後には花畑が広がっているようである。
(ああ……)
俺は腕組みしてうなった。そうしてリア充っぽく言った。
「なあ、ミミリー」
「なあに? あなた」
ミミリーが流し目を送ってくる。
「この世界はパラダイスだ。まさか、こんなにも生物が楽しそうに暮らしている世界があるなんて、思ってもいなかったよ」
「まあ……」
ミミリーが感銘を受けたように目を潤ませている。熱っぽい視線である。
俺はそっとカバのちいさな耳に触れた。こいつったら、いっちょ前にイヤリングなんてしやがって、ふふふ。
「なあ、これ、いつ買ったんだ? つけてなかったじゃないか」
「あら、これ?」
カバが太くて不器用な腕を耳に近づけた。
「これ、知り合いの冒険者からもらったの。結構羽振りがいいのよ」
「へえ、冒険者」
――そいつはとんだ負け組ドキュンだな。
と、言いそうになったが、俺はさわやかな笑顔を浮かべてこう言った。
「冒険者なんてすごいじゃないか。彼らのおかげで、俺たちは希望を見いだせるんだ。この地獄から抜け出せるってね」
この世界にあっても肉体労働者は負け組的イメージがある。
目指すは公務員、というのは俺の世界と同じである。
が、冒険者は一発成り上がる可能性が高いので、人気の職業であった。死人が多いので、離職率が高いのは事実であるが――。
さて、そんなわけで、夕方からのタコさんイカさんの番組を街の大型テレビでみるため、俺たちは急いで昼食をとろうと商店街から自宅へと帰る途中だったのである。
行き交う人々はスターウォーズの世界のような……着ぐるみを来た巨大生物、いわゆる魔物のようなやつばかりなのだが、そのなかで俺と同じ人間的存在が通りの向こうからやって来た。
向こうも俺を見つけてビックリしたらしい。目を見開いて一瞬固まり、それから笑顔を浮かべてペコリと会釈をした。
見知らぬやつだったが、俺は善意には善意で返すほうだ。
「よお」
と、気さくに手を上げて、そのまま通り過ぎようとした。
が、向こうは立ち止まった。微笑を浮かべている。そうして俺とミミリーを見つめている。
(なんだ、こいつは……)
俺は会釈してそいつの横を通り過ぎるつもりだった。が、ふと、ミミリーが立ち止まった。
喧噪のなかで時間が止まったようだった。ミミリーは恥ずかしそうに立ち上がった(四足歩行から二足歩行になった)。俺はミミリーの恥ずかしそうな笑顔をみて、それから次に、人間的存在のさわやかな微笑を眺めた。
「まあ、マサト……久しぶりね」
「や、ミミリー。お散歩かい?」
チラリとマサトと呼ばれる人間的存在が、俺に笑顔を向けた。
ミミリーは恥ずかしそうに眼を伏せて、それから俺を紹介した。
「ええ。彼が、私の相方のユウイチよ。話したことあったかしら? ちょっと妄想が激しいところがあって、もしかしたら統合失調症かも、精神科に通わせたほうがいいかもって思ってるのだけれど……でも、私、彼のそういうところ、大好きだから……」
人間的存在は一瞬きょとんとした顔で首をひねった。が、すぐに気持ちのよい笑顔を浮かべた。そして俺に握手を求めた。
「やあ、はじめまして。ミミリーの友人の、アイザワ・マサトです。きみと同じように、ぼくも【人間】の血筋を引いてるんだ。きみの姓はなんだい?」
俺もリア充的笑顔でアイザワ・マサトさんに相対する。
「姓? ――姓は徳川。徳川祐一って言うんだ。この世界にはちょっと前に来たばかりなんだ」
「トクガワ? 聞いたことないね」
アイザワさんはミミリーに目を向けた。
ミミリーは困ったように苦笑している。そうして弁解じみた調子で言う。
「彼は自分の名前をそう思っているのでしょうね」
「ふむ……」
アイザワさんはいやに心配そうに眉根を寄せた。
どうでもいいけれど、周囲のヤクザみたいな魔物の方々が、俺たちに注目している。トロンボーンみたいな声で鳴きながら俺たちをおもしろそうに眺めているし、また、角笛のような低い声でガハハハ指を差して笑っている。なんて野蛮な連中なんだ、魔物ってやつは。少しはハムスターとかチワワとかの小型動物を愛し、いとおしむ気持ちをもったほうがいいのではないか……(ビクビク)
「歩きながら話そうか」
俺のびびっている様子に気づいたのか、アイザワさんが俺たちの進行方向に歩き出した。
「あら、こっちでいいの? 反対方向みたいだけど」
「いいんだ。ちょっとギルドをぶらぶらしようと思ってただけだから」
俺たち3人は、路地をゆっくり歩いていく。
魔物たちは珍しそうに俺たちを眺めている。【人間】が2人、そうしてわざわざ二足歩行で歩くカバのミミリーが1匹――この取り合わせが珍しいのだろうか。
この世界は、今日も真っ赤な、どす黒い景色をしている。空を眺めれば、遠くに塔がみえる。天を貫く塔。そのかたわらで、巨大な星が輝いている。星から炎が上がっている。
――あの塔をのぼっていけば、本当に地上に出られるのだろうか。
わからない。が、この世界では、そういうことになっている。地上――天を目指し、冒険者どもは日々塔内で血戦を繰り広げているのである。
アイザワさんが、俺に気をつかってか、ミミリーに小声で話しかけた。
「トクガワさんのそれは、本当に妄想なのかい?」
「ええ、そうとしか考えられないわ」
「いや、アイザワさん――」
と、俺は口をはさんだ。
「ほんとうなんだ。ミミリーは信じちゃくれないけれど、俺はこの世界の住人じゃないんだ。数か月前、気が付いたらこの世界に来てたんだ」
「ふむ……」
アイザワさんは思慮深く顎に手を当てた。
カチャ、カチャ、とアイザワさんのブーツの拍車が鳴っている。
「君のもといた世界は、どんなところなんだい?」
アイザワさんは笑顔になって俺に様々なことを尋ねた。俺のもといた世界の地理、文化、宗教、科学技術……俺は拙いながらも、リア充的冗談を交えながら一生懸命話した。
俺の話を真面目に聞いてくれる人は、初めてだった。
アイザワさんは、微笑を浮かべている。そうして相槌を打って、共感してくれる。やさしい目をしているのである。俺が女だったら、間違いなく惚れている。なんなら友好のあかしにミミリーを譲ってもいい、そんなことを考えさせるくらい素晴らしい方だった。
ミミリーの自宅前に着いた。そこでもちょっとの間、俺たちは立ち話をした。すでに仲良し3人組の雑談である。最近のスピーキーは面白くないということ、しかしそのなかではタコさんイカさんは例外であること、そうしてもうすぐ【ビッグマウス】という宗教行事があるということ。
いつしかずいぶん時間が経ってしまった。赤い巨星が塔の裏に隠れている。
アイザワさんは腕時計で時間を確認すると、ちょっと考え込んだ。それから鞄から羽ペンを取り出すと、それを携帯インクにひたし、紙片に何か書き留めた。そうして彼は精一杯真面目な表情になって、誠実に、ゆっくりと言葉を発した。
「通院をするなら、入院もできる病院がいいと思う。サンクトピエトロ病院っていうのが、入院もできる精神科病院なんだ。ここにはスズキ先生っていう【人間】の先生もいる。どうかぼくを信用して、一度、行ってみてくれないか」
アイザワさんが、ミミリーに念押しするような視線を送る。
俺がきょとんとしていると、ミミリーがその紙片を受け取った。覗き込んでみると、病院名と住所、電話番号が書いてあるらしかった(この世界の文字は勉強中である)。
ミミリーは目を潤ませている。そうしてじっとアイザワさんを見つめ、
「わかったわ」
と、やっとのことで言ったようだった。
「アイザワさんは、その病院に勤めているのか?」
俺の問いかけに、アイザワさんが笑顔になった。人懐っこい、素敵な笑顔である。俺と違って、きっと心の底からいい人なのであろう。
「いいや――」
と、言って、彼は両手を広げた。そうして自分の格好を指し示し、
「――このとおり、ぼくは冒険者だよ。ただ、ぼくとスズキ先生は【人間】だからね。【人解連】(じんかいれん)に所属する仲間でもあるんだ」
「ジンカイレン?」
不意にミミリーが眉をひそめた。俺の腕を取る。そうして俺の顔を心配そうに覗き込んだ。
「政治団体よ。ユウイチには関係ないこと」
「政治団体?」
アイザワさんが困ったような笑顔を浮かべる。
「【人解連】は、正確には【人間解放連盟】。人間に対する差別を解消しようとしている団体だよ」
「そんなこと、どうでもいいわ」
ミミリーが冷たい声で言う。アイザワさんは、やはり困ったような微笑を浮かべている。俺はなんて言えばいいかわからず、黙ってしまった。
奇妙な沈黙であった。
微笑を浮かべる人間と、冷たい顔のカバの魔物と、そうして存在からしてあやふやな俺。お互いがお互いを探り合っている感じだ。そうしてそんな俺たちを、まるで動物でも眺めるように眺める近所の魔物たち。
――ああ、やっぱり、この世界は嫌いだ。真っ赤な景色も嫌いだし、この、泥のつまった排水溝の匂いも嫌いだ。
漠然と、そんなことを思ってしまった。
アイザワさんが、声を上げて笑った。
「変な空気になっちゃったね。ごめん」
アイザワさんの笑顔には他意がなかった。ふと、ミミリーの顔にもやさしさが戻る。
「ううん、私こそ」
ミミリーが恥ずかしそうに言った。
「お詫びに……」
そう言って、アイザワさんは鞄から貨幣の入った袋を取り出し、それをそのまま俺に渡した。
「大した額じゃないけれど、きみたちの結婚資金にでも使ってくれないか」
そうして小声で言う。
「ミミリー、きみが生活保護を申請しているのは知っているよ。でも、通らないんだろ? 【人間】と同居しているから。しかも若い、働き盛りの【人間】だ。それじゃあ通らないよ」
「…………」
ミミリーはうつむいている。
そんなこと、俺は知らなかった。ミミリーにはまだ貯金があると思い込んでいた。だって、ミミリーはいつも明るかったし、俺に働けとか言わなかったし……。
「マサト、ありがとう」
震える声で口にして、ミミリーは黙ってしまった。目がうるんでいる。何かに耐えるように、背中を縮こまらせている。
「【人間】と魔物が一緒になれたら、そんな素晴らしいことはないよ。まるで夢の世界だ。ぼくはできる限り、きみたちを応援するからね――」
アイザワさんと話したのはこれが最初で最後だった。
後で聞けば、アイザワさんは、その二日後に死んだらしい。
新聞の社会面にも記載された事件だった。塔の30階クラスで、同じ冒険者であるはずの魔物に集団で襲われたとのことだった。アイザワさんの主な死因は、後頭部を刃物で切り付けられたことによる脳挫傷とのことだが、この怪我はおそらく不意打ちの初撃に違いなかった。アイザワさんはもうろうとする意識のまま、剣を抜き、振るったのだろう。が、そのまま崩れるように前のめりに倒れ、首やら背中やらを滅多刺しにされたらしい。
【人間】が魔物に殺されることは、この世界ではまあよくあることなのだ。
知らせを聞いたミミリーは苦しそうにからだ全体で呼吸し、俺の前では決して上げない、恐ろしい声で吠えた。
俺はその声を聞いて、ミミリーが魔物であることを痛感した。ミミリーに守られているにもかかわらず、ミミリーが本気になったら俺は一瞬で殺されるだろう、などと自分勝手なことを思った。
――この異世界では、どうやったら強くなれるんだろう。
ミミリーを慰めながら、そんなことを思った。