第8章 クミの岐路
宇多田がクミに言った。
「僕は研究室に来てもう長いんだ。そろそろ自立してもいい年だし、故郷に帰って町の病院へ勤めることに決めたんだよ。君はここにずっといるつもりかね?」
「私ももうこちらにきて2年になりますからそろそろ臨床をする時期だと思ってますの」
だったら……後の言葉はふたりには必要なかった。
クミは自分も宇多田の住む町へ一緒に付いて行き、同じ病院で仕事がしたかった。
「私も先生の行かれる病院に勤めることはできないでしょうか」
「君がそう望むならその道はあるんだよ」
「実家に帰っても仕事のツテはありませんのでよろしくお願いします」
そう言いながらもクミは、――先生と一緒にいたいんです!と心の内で訴えていた。
宇多田の計らいでクミが総合病院に勤務し始めてから、彼は自分の家に遊びに来るようにクミを誘った。クミも大勢の子供がいる宇多田の家で遊び相手をするのがうれしかった。
「お姉ちゃん、あやとりしよ」長女の奈津子はクミに懐いているようだった。クミはお姉ちゃんと呼ばれて気をよくしていた。
「ねえねえ。もっと遊ぼうよぉ」帰ろうとするクミの着物の袖を引っ張り帰そうとしない奈津子を、クミは可愛いと思った。
その様子を傍で見ていた宇多田は、病院で見る真剣な顔とは別の、お父さんの顔をしていた。
宇多田はいつか言った。
「君は優しい目をして子供を見るんだね……」と。
二重瞼で少し吊り気味のクミの眼は幼い子供を前にすると、優しい表情に変わっていた。
宇多田はクミにとって師とも仰ぐ大先輩ではあったが、父親を亡くしたばかりのクミには、年の差がある彼は父親の傍にいるような気がしていた。次第にふたりの距離は密なものになって行った。
宇多田がクミの部屋を訪ねるようになって3カ月が経った。クミは多忙を極める宇多田が時間を作って来てくれるのがうれしかった。
専門学校や研究室に居た時はまかない付きの下宿に住んでいたので、自分で食事の支度をすることはなかった。包丁を握ることさえもできないクミだったが、宇多田が来るようになってからは、いそいそと買い物をして晩御飯の支度をするようになった。
宇多田はクミの作る料理を、この魚はどういう風に料理したらいいかとか、少し栄養のバランスが偏っているとか、細かいチェックを入れながら食べた。クミはこれが彼の性格だろうなと苦手な説教にも耳を傾けて、はいはいと頷きながらも、一向に料理の腕は上がっていなかった。
宇多田との生活が始まって半年過ぎたとき、クミは身体の異変を感じた。毎月きちんとあった*月のものが2ヶ月もないことに気がついた。
「別の病院で診てもらいなさい」宇多田はクミの訴えに、個人病院に行くことを勧めた。