第7章 新たなる旅路
長男の久一郎は家業には元々関心はなかったものの、形だけの跡取りとして、家業の跡を継いだ。だがそう世間は甘くはなかった……。
お暇をいただきます……、と働き手の男衆たちは次々に店をやめ散っていった。必要とされない白壁の蔵は土埃をあげて、あっという間に取り壊された。
これまで寅三の勢力に物言えなかった周りの百姓達は、姑息な侵入をし始めていた。彼らは道から庭に続く踏み石まで堀り起こし、奪い合うように持ち帰った。まるで山賊の襲撃を受けた如く、跡に残ったのは平屋一棟とそれに続く作業場一棟だった。
「人は怖いものよのう。落ち目になったらこうも変わるもんかのう」花江はしみじみ言った。
「負けないで頑張りましょ、おっかさん。私ももう少し勉強して、いい医者になります!」
「そうしておくれ、おとっつぁんのいない今となっては、嫁入りも難しいだろうし、仕事を探すのは大変だろうが……」
クミに頼り切っている花江は、済まなさそうにクミに哀願するのだった。
クミは花江が一も二もなく自分の決意に賛成してくれたことで、きっぱりと自分の進路が決まったような気がした。専門学校の学長の紹介で、クミは大学の研究室に入室することになった。研究室には同じ大学から入った男の医師はいたが、女医は一緒に入った専門学校出身の坂下ナツエと二人だけだった。
クミは見知らぬ世界に来たようで戸惑っていた。どの医師も怖くて物を言うのも憚られた。ナツエは無粋な顔をしていたが、妙になれなれしく誰彼となく話し掛けていたので、どの医師もナツエには気安く冗談など言っていた。
クミは背の高い鷲鼻の、ぎょろ眼の医師が一番怖かった。クミに声を掛けてくる20代の医師には気軽に話しができたが、40代の医師に比べると、彼らはまだ若造という感じがして男性を意識するにはあまりにも頼り甲斐がなく、興味もなかった。
「クミ先生、乗馬やってみませんか。今度の日曜はどうですか」
よく声をかけてくる医師は、東京の私立の医大出で、いかにも坊ちゃんという感じだ。
クミは、ありがとうございます、残念だけど都合があって……、と誘われる都度断った。
--*--
ある日、研究室の前に10歳ほどと思える女の子が立っていた。
「誰か待ってるの?」女の子は返事をする代わりに首をコクンと下げた。
「この部屋の中にいるひと?」
叉女の子はコクンと頷いて、今度はほっとしたような顔でクミを見上げた。それほど可愛い顔というほどではないが、クミは幼い子を見ると可愛くて、自分も子供が欲しいなと思ってしまうのだ。
しばらくして、部屋からでっぷりした背の低い医師が出てきて、女の子を抱き上げ、傍にいるクミに気付き、あ、今年入室した君かね、と優しい目で笑った。その医師は40代半ばだろうと、クミには思えた。
「家内がこの町に来てるものだから、こうしてこの子が研究室まで来るんだよ」
そう言いながら、構内の庭へ出ようとしてクミのほうを振り返り「君も出てみないかね、まだ外周りは知らないんじゃないのかね」と誘った。
クミは仕事も一段落した後だったので、父娘の後へ付いて庭に出た。
研究室の裏庭は芝生になっていて、延びた新芽が青く柔らかかった。彼らが腰を下ろした傍にクミも一緒に並んで座った。
「お子さんは他にもいらっしゃるのですか」
「あれの下に4人いる、男3人、女2人、合わせて5人。」
「はぁ……」
ベルがなってるようだ、医師はそう言って女の子の手を引いて建物の中に入って行こうとした。
変なひと!一人取り残されたクミは少しがっかりした。
彼こそ、クミの人生に大いなる影響を与えた人物――。
小柄だが、大きな顔。おっとりと柔和な物言い。生真面目で融通の利かない勉強家。クミは自分が次第に彼に惹かれて行くのを感じていた。