第6章 ふるさと
閉めきった暗い四畳半の部屋でじっとうずくまるクミの脳裏を、力強い寅三の面影がよぎった。今のクミにとっての支えは、まず実家に戻って父に縋ることだった。
クミは西村の死という悲しみを背負い、故郷に向かう汽車に乗っていた。クミにとって車窓の景色は薄墨色の世界のように思えた。
長い汽車の旅の終着駅から汽船に乗りかえて甲板に上がると、果てしなくつづく青い海原がクミの眼前に広がっていた。まだ春の海風は冷たく、肩に掛けた藍のショールが風に飛ばないように握りしめ、クミはいつまでも海を見て佇んでいた。
「どうかされましたか?」若い船員が行き過ぎようとして立ち止まり、クミに声を掛けた。
千路に乱れる心を抱いて、クミはわが身を引きずるように、父と母のいる家に辿りついた。ボストンバッグの中には卒業証書の入った筒が納まっている。まるで『私の宝物』というように……。今のクミに残されたものはそれしかないような気がしていた。
「ただいま――]
「ああ……クミ、帰ったか。疲れたろう」
玄関を入ると、花江の声が耳に飛び込んできた。待ち焦がれていたかのような母の声だった。
――家の中がシーンと静まり返っている。
「何かあったの、おっかさん」
「おとっつぁんがね……」
「おとっつぁんがどうかした?」
クミはボストンバッグを玄関先の踏み台に置いたまま、父がいつも座っている奥座敷へ急いだ。 花江がクミの荷物を抱えて後を追った。
――そこには眼を閉じて横たわっている寅三の姿があった。
「ただいま。おとっつぁん。医専、卒業できたのよ!」
クミは寅三の耳元でそっと声を掛けた。眠っているかのようにみえる寅三はうっすらと目を開け、目の前にいるクミに驚いたふうだった。
「おお、クミか……。よう帰ってきたのう」
いつもの威勢のいい父の声ではなかったが、クミの卒業を心待ちにしていた寅三は、うれしそうにつぶやくように言った。
「おとっつぁんはね、田植えの時の菌で破傷風になっとるんよ」
花江が寅三の症状を説明するように口を挟んだ。
「破傷風?お医者さまに診てもらったの?」
「診てはもらったけど、もうどうにもならんということで、家で最後を迎えることになったんよ」
「最後ですって!」
その母の言葉にクミは、西村の死で打ちのめされ、父の胸に縋って思い切り泣きたいと踏ん張ってきた何かが崩れ落ちるのを感じた。あれほど待ち望んでいた医専の卒業を共に喜び合えないまま、父の意識が薄れていくのを目の当たりにして、クミは花江と共にまんじりともせず夜を過ごしたのだった。
--*--
「クミ、辛かろうがおとっつぁんはあの世へ逝きなさっても、おまえのことはしっかり見守ってくださるから頑張ろうな」
花江はこれまで一人で耐えていた悲しみを、クミが傍にいることでほっとしているかのようにも見えた。
一介の商人の身で、成功の極みを尽くし、六人の子供をこよなく愛し守ってきた寅三であった。酒が大好きだった父。その偉大なる父寅三の生涯は不慮ともいえる病で、あっという間に幕を閉じてしまったのである。