第5章 卒業
クミにとって希望に胸を膨らませて入学した医専ではあったが、20歳前の娘にとって医学の勉強は厳しいものだった。元々身体が丈夫でなかったし、女学校の勉強とは比べものにならないほどきついものだった。
三か月間続く進級試験の期間中は、落ち着いて眠る間もなく、勉強の合間に眠り、再び起き上がっては勉強をした。眠気が襲い机に臥したまま朝を迎えることもあった。
「試験中は美味しい物食べさせにゃいかんね」
初対面の時はおっかないと思っていた下宿の女主人は、日を重ねる毎に気心も知れて、気遣いをしてくれるようになっていた。
同宿の学生の中には、同じ専門学校に通っている女子学生も数人いた。
「クミちゃん、試験が終ったらどこか行こうね」
「そうねぇ、どこかね」
そうは答えたものの、クミには西村という恋人がいることを友達には伏せていた。試験が終わったら西村と会えるのを心待ちにしていたのだ。
西村はクミと学校は違ったが、弁護士を目指している学生ということでは同じ境遇だった。
「卒業したら結婚しよう。僕も弁護士になれるように頑張るよ……」
互いに励まし合い、卒業した暁には西村と生涯を共にできると確信していたクミであった。
--*--
月日は流れ、クミはいよいよ六年間の医学専門学校の学業生活の終わりを迎えようとしていた。クミにとって念願の卒業という輝かしい日が目の前に迫っていた。
――いよいよ卒業式当日。
クミは黒いローング丈の制服を身に着けて、角帽を被り卒業式に臨んだ。実家からは誰も参列しなかったけれど、クミは父親の喜んでいる顔を想像できた。
――クミ、よくやったな。おとっつぁんもうれしいぞ……。あの父の声が聞こえるような気がした。クミは式が終ったらなるべく早く故郷に戻るつもりでいたのだ。
式が始まると、学長である女史が満面の笑みを浮かべて演台の前に立ち、卒業生に向かって贈る祝辞が、シーンと静まり返った講堂に響いた。
――みなさん、今日の佳き日にご卒業おめでとう!
クミは初めてこの学校へ入った時に聞いた女史の訓示と重ねながら、祝福の言葉をしみじみと味わっていた。これがこの学校へ来る最後の日かもしれない。六年間という長かった年月。勉学に置いては苦しいときもあったけれど充実していた。
雪の夜、深夜に凍えながら歩いて霊安室に行き、解剖の授業を受けたこと。卒業論文を書くために毎日通った学校の図書館。その時そこで知り合った恋人西村……。
女医として世の為人の為に働くのだという自負に、クミの胸は希望に満ちていた。
女史は学生一人ひとりに握手をし、祝福の言葉を送った。廊下に立ち並ぶ在校生は長い行列を為して、これから女医として活躍する先輩達を羨望の眼差しで、涙さえ浮かべて見送った。
クミはこの時、まるで天下を取ったような気分だった。
卒業式のあと記念撮影が終ると、卒業証書を手に浮き立つような気分で足早に下宿へと向かうクミであった。
--*--
クミが下宿の板戸を開けて部屋に入ろうとしたとき……。
「おかえり。電報が来てるよ」
下宿の女主人が一枚の紙きれを渡した。
『ニシムラ シス』それは、クミの最愛の恋人西村の死を告げる電報であった。
将来を約束した西村が死んだ!自分が卒業の歓びに有頂天になっているこのときに――。
今まで喜びに溢れていた気分は、奈落の底に突き落とされた。
ふと我に返ったとき、クミは二階への階段の下にしゃがみ込んでいた。
何時間そのようにしていたのだろう……。
這うように階段を上り、部屋の襖を開けた。
頭に浮かぶのは西村の優しい眼差し、別れる時いつも、がんばろうね、と口癖のように言った柔和な顔。川のほとりを散歩した時、人目を憚ってそっと交わした柔らかな唇の感触。夏の夕方嗅いだ彼の汗の匂い……。
西村と過ごした思い出の時間が次々とクミの心の中をうつろい、哀しみの中に身を埋めた夜が過ぎていった。