第11章 開業
圭介が小学2年生になった時、クミは自宅で医院を開業することになった。
玄関脇の柱に、『小松医院』の文字とその下に内科耳鼻科小児科と添え書きした木の看板が掛けられた。
村の小学生や中学生は耳の治療に通ってきた。小さな病室に入院していた女の子はジフテリアで死んだ。夜中に呼びに来られて、男の自転車の荷台に乗って遠くの集落まで往診をした。
女医の開業には怖いハプニングもあった。
深夜に毎晩「こんばんわ……」と雨戸を叩く音がした。クミは圭介をしっかり抱え、花江と身を寄せて聞き耳を立てていた。声の主は辺りがしーんとなった深夜の同じ時刻にやってきた。あまり何日も続くので、クミは苦肉の策で近所に下宿していた青年に夜だけ玄関脇の部屋に泊まってもらうよう頼んだ。それ以後深夜の声は止んだ。後のちまでその声の正体が何だったのか分からなかった。
開業して困ったことはそれ以外にもあった。医療費を払わずに診療を受ける人達がかなりいたことだ。日本に残留している長屋の外国人らは、食べるのもままならぬ状態で、診療費は支払われぬままに終った。
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そのころ福岡から毎月のように海を渡ってクミの元へ来る後藤という医師がいた。大学の研究室に宇多田と共に在籍していた医師の一人で、クミの境遇に同情して親密になっていた。
後藤はクミが並ぶと彼の肩ほどもないほど大きな男だった。研究室に入室した当初、クミが怖いと思った医師である。
後藤は圭介と相撲を取って遊んでくれた。
『ハッケヨイ 圭介の山……ノコッタ、ノコッタ!』
無粋な後藤医師が圭介にできることはそれ位しかなく、彼が圭介の家に来たときは圭介と後藤のお決まりの遊びになっていた。
或るとき後藤は圭介の鼻汁の出が異常に多いことに気がついた。
「圭ちゃんはアデノイドができてるようだね。手術したほうがいいよ」とクミに言った。
早速圭介はアデノイドの切開手術をされるはめになった。
「ちょっと、ここに上がってごらん」
後藤に言われて、何も分からぬまま圭介は診察台に座り、上を向いて口を開けさせられた。それも一瞬のことで、あっという間に手術は終っていた。
口の中から血の混じった泡がぶくぶく出てきた。取り出したアデノイドは、梅干ぐらいの脂の塊のようなものだった。アデノイドを残したまま成長すると、脳の発達が遅れるのだと聞いた圭介は、そのことを納得するよりも二度とあんな怖い目に会うのはご免だと思った。
手術した翌日、圭介は学校を休んだ。同級の友達が放課後、心配して訪ねてきた。圭介が顎に包帯を巻いているのを見て、不思議そうな顔をした。早くよくなって学校へ行きたいなと思いながら、圭介は友達の後ろ姿を見送っていた。
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クミは開業して家にいるようになってから、花を栽培するようになった。家の前の畑を耕して苗床を作り花の種を蒔いて育て、季節ごとの花が咲き誇った。
圭介の記憶の中には、大輪の色とりどりのダリアが咲き乱れている花畑の絵図が脳裏に深く刻み込まれている。
秋には宿根草のシオンとコスモスが畑の脇に丈高に咲き誇った。花畑を背景にクミと圭介とその友達、そして飼い犬のエスが写っている写真は、当時の幸せな生活を物語っている。
医院を開業して二年間はクミと圭介にとって幸せな暮らしだった。
圭介が小学3年生になった時、上の姉の信子がクミに言った。
「クミさん、あんたも田舎でこんな暮らししていてもしょうがなかろうが。都会に出てみたらどうかね」
信子の意外とも思える提案にクミは驚いたが、都会に出れば叉ひと華咲かせることができるかもしれないとも思ったりした。クミは圭介を花江に預けて、まずは一人で都会に出ることを考え始めていた。




