第10章 圭介の成長
圭介を連れて実家に戻ったクミの生活はスタートを切った。
そのことを快く思っていない隣接の棟に住む兄嫁は、近所の農家の嫁らとひそひそクミの悪口を言い合っていた。洗濯場に置いている籠の中から、圭介のおむつが跳ね飛ばされていたりもした。そのような状況の中好意的なのは病院の同僚の医師らだった。彼らはクミが少しでも早く圭介の元に帰れるように勤務時間を融通してくれたりもした。
クミは歩いて40分の道のりの病院まで、着物姿で通勤した。
田んぼの中の細い道を通り抜け、川のほとりを一キロそこそこ歩くと、店屋が建ち並ぶ町に出た。更に20分歩いて姉雪江の営む小物屋の前まで来ると、そこからは病院の建物が見えてきた。
夏が終わり次第に日が短くなると、仕事を終えて家に着く頃にはすっかり日が暮れていた。一歳を過ぎたばかりの圭介は、花江に守られていい子で一日を過ごしていたが、クミが帰ったのを見つけるとヨチヨチ歩きで手を伸ばしたクミの所までやってくる。
「圭ちゃん、いい子にしてたか」クミは手提げ袋を置くのももどかしく、圭介を抱き上げて頬ずりしたり揺すったりして、夕食前のひとときを母子のスキンシップに時間を費やした。
花江は土間の竈で飯を炊き、七輪で魚や野菜の煮炊きをし、クミが病院から帰るとすぐに食事ができるように支度をしていた。
圭介は柔らかく炊いたご飯と白身の魚や野菜の煮たのをよく食べ、丸々と元気な子に育っていた。
花江は裏山の野苺が熟れる時期には、圭介をおぶって細い道を上り、草の中から赤い実を見つけて摘んで草の茎に次々刺し、真っ赤な長い苺の棒を圭介に持たせた。
四歳になると、圭介は裏山の柿や蜜柑の木に登れるようになった。雑木の茂った山の中を駆けめぐる近所の子らの後を付いて走ったりもした。
高熱が出たとき、クミが持ち帰ったリンゲルを注射して命をとり止めたこともあった。
父親は居なくても圭介は寂しい思いをすることもなくすくすくと成長していった。
或る時、花江は5歳になったばかりの圭介を連れて裏の山を登っていった。山から下りた所にある海岸の小さな集落には花江の実家があり、そこには馴染みの婆ちゃんが住んでいたのだ。
花江と圭介が山の頂きに着いたとき、海の上に大きな赤い夕日が見えた。
「圭ちゃん、見てみ。お日様があんなに大きいね」
「うん」
山の上の広場に、花江と幼子の姿が二つ、細長い影を落としていた。誰も知らない、誰も見ることのない影絵だった。だが圭介の心の中にその心象はいつまでも居続けていたのだ。
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物資の少ない時勢ではあったが、クミが患者からのもらい物で珍しい魚など持ち帰り、贅沢とも思える程食べ物には恵まれていた。
春の夕暮れには病院からの帰り道、田圃に生えている茅の芽を摘んで束にして持ち帰ると、圭介は大喜びした。秋になると昼休みに病院の近くの城山に上って、落ちている胡桃を番人に見つからないように拾い、圭介への土産にしたこともあった。
休日にはクミは毛糸で圭介のぽんしん(今でいうベスト)を編んだ。青い地に赤い糸で音符の模様を編み込んだり、黄色い地には茶の糸で花模様を編み込んだ。圭介はいつもクミの手作りの毛糸の服を着て温かい冬を過ごした。
穏やかで怒るということのない祖母花江と、圭介との毎日が静かに過ぎて行った。圭介を中心にクミと花江の暮らしは、その後花江が85歳で死ぬまで続いたのである。




