下
「主殿は、何ものですか」
女は自分の髪に触れている右手を自分の左手で優しく握り、そのまま、行昌の胸に左肩と頭を預ける形でうつむくように寄りかかった。
そして、これではまるで私が抱きしめているようではないか、と慌てる行昌を無視して小さく呟いた。
「妖蛇……白蛇にございます」
その途端、部屋の隅に座っていた女童が、すっと消えた。
行昌が驚くと、あれは私の力で創った式神ですから、と女が言った。
しばらく用はないので、消しました、と。
「ここにいるのは、わたくしと行昌さまだけです」
「だから、これほどまでに静かだったのですか」
「はい」
女は微笑んでいるような声で答えた。
けれど行昌にうつむいて寄りかかっているため、その表情は見えない。
それでも、きっと微笑んでいるのだろうと行昌は思った。
「主殿は蛇なのですか?」
「敬語でなくて結構です、行昌さま。見た目は貴方さまより年下ですし、身分もないわたくしですから」
「はぁ」
(でも妖なら、かなりの長命なのではないのだろうか)
行昌がどうしようかと考えていると、女は突然顔を上げた。
見上げるようにして見つめる女はやはり微笑んでいた。
「主殿は蛇なのか?」
行昌は結局、女の言葉に従うことにした。
「はい。白蛇にございます」
「だから髪が白いのか」
「はい」
女が淋しそうに言った。
さあさあと、雨は降り続いている。
このままだと、夜明けまで降り続くかもしれない。
行昌は、思い出したように尋ねた。
「ではこの屋敷も、中にあるものも全て幻か?」
「いいえ、それは違います」
「主殿が創ったのか」
「はい、私の力で創った物です。一瞬で創り上げましたから、一瞬で消せます」
ふふっ、と冗談のように女が言った。
(まぁ、事実なんだろうな)
女の顔は笑っていたが、目は本気だった。
「このように、逃げずに私に接してくださった人は行昌さまが二人目でございます」
女はぽつりと呟いた。
「二人目?以前にも誰かいらしたのか」
はい、と女は答えた。
そして握っていた行昌の右手を離すと、さらにぴたりと彼にくっつく。
行昌は離された右手を女の右肩に添えて、自分の方に引き寄せた。
そうしろと、女の目がいっている気がした。
満足そうに微笑んだ女は、もう百年も昔になりますが、とけろりと言った。
「……ということは、主殿はそんなに昔からこんなふうに人を招いていたのか」
「はい。皆わたくしの姿を見ると逃げていきますが。中には陰陽師の方に退治するように頼む方もいるようで」
「誰か、退治しに来たのか」
「今までに何人もいらっしゃいました。けれど私はその方々が来る前に、屋敷を消してもとの姿に戻って森へ逃げます。しばらくして、わたくしのことが忘れられてから、また別の場所に屋敷を創ります。その繰り返しです」
「この屋敷も?」
「二十年程前に創りました」
「何故?」
「え」
女は訊かれていることの意味がわからないというような顔をした。
何が何故なのか。
行昌は続けた。
「何故、主殿はわざわざ人間の姿になるんだ。どうして、自分を見れば逃げるかもしれない人間を屋敷に招いて、姿を見せるんだ?」
つい責めるような口調になってしまうのを行昌は止められなかった。
女が当然のことのように話したことは、実に不可解だ。
「自分を見た人間が逃げていくのは、辛くないのか?森にいれば、逃げられることもないし、仲間だっているんじゃないのか?」
真剣に尋ねる行昌に、女はやわらかく笑って、だって、と言った。
「だって、わたくしは人間が、人が好きなのです。人のように生きたい、人のように在りたい、人になりたい、そう願っております」
「……人に?」
「わたくしたち妖は不老長寿の身。何千年という時を生きるものも珍しくはないのです」
「それは、良いことではないのか」
人の多くは、不老不死や不老長寿を望む。
それが叶わぬ願いだと知っていても。
「短い時を生きる人間は、自分の生命が短いからこそ、毎日を大切に生きている気がいたします。そのように生きる姿はとても素敵で羨ましい……。―――――わたくしは人に生まれたかった」
「だが、人の中には、日々を何の希望も夢も持たずにただぼんやりと過ごすものもいる。生きることを諦めているようなものも」
「存じております。けれど、そのものたちにも遅かれ早かれ数十年後に終わりはきます。わたくしには、ぼんやりと数千年の時を森の中でひっそりと生きていこうとは思えませんでした」
「ですから」
女は行昌の手を握る。
「せめて人と同じ場所で生きようと決めたのでございます。人を招くのはその方と関わりたいと、この姿を受け止めてくださる方に会いたいと思うからです。確かに逃げられるのはつろうございます。でも、慣れてしまえば何てことないもの。わたくしにとっては、森の中で鬱々とすごす日々の方が辛いのです」
確かめるようにゆっくりと女は答えた。
曇りのない目で真直ぐに、行昌を見つめて。
* * *
「行昌さま、行昌さまっ」
「ん……」
「そろそろお起きになってくださいませ。ここから内裏までは少々距離がございます。のんびりしていては遅れてしまいますっ」
寝転がっている自分の体を遠慮なしにゆっさゆっさと揺さぶられて、行昌は目を覚ました。
「あぁ、お前は」
「『あぁ』じゃありません。さ、朝餉の準備もできていますから」
さっさと支度してくださいっ、と小さい体で一生懸命急かすのは、昨日の女童だった。
「……主殿は?」
「お支度なさっているところです。行昌さまの朝餉が終わる頃にはいらっしゃると思います」
「そうか」
行昌は用意された(女の力で創ったのではなく、市でちゃんと買ってきてあったらしい)新しい狩衣に着替えた。
昨日は、あのまま寝てしまったようだ。
いつ眠ってしまったのかはっきりとは覚えていない。
気がついたときには自分は数枚の衣をかけて横になっていて、女童に起こされていた。
隣に女はいなかった。
昨夜の雨は、もう上がっていた。
朝餉を終え、そろそろ行かないと、と思った頃に女がやってきた。
今日は昨夜とは違って杜若の重ねの袿姿だ。
相変わらずの白い髪、顔には穏やかな微笑を浮かべている。
女は行昌の目の前にちょこんと座った。
妖だからだろう、顔や姿を隠そうとは思っていないらしい。
「泊めていただいてすまなかった」
行昌が礼を言う。
「いいえ。お話してくださってありがとうございました」
「やはり何か礼を」
「物なら自分で創れますので」
「……そうだな、だが」
このままさよならというのも嫌な気がする。
物を贈っても意味がないのは昨夜の話でわかった。
(物でなく、何か私にやれるもの……)
むう、と行昌が考えていると、女が小さな声で言った。
「あの、欲しいものが1つ、あるのです」
「主殿には創れないものか?」
女は少し考えてから
「創れないというわけではないのですが、やはり与えてもらった方が嬉しいかと……」
と言った。
そして、すっと居住まいを正して続けた。
「名が、欲しゅうございます」
「名?主殿のか」
「はい。親に与えられし名はございますが、それはで妖蛇の姿の時のもの。ですので、この人の姿の時の名が欲しいのです」
「その場合、どちらが本当の名になるのだ?」
「どちらも、です。姿によって変わりますが、どちらもわたくしを表す名となります」
「なるほど。名か……」
行昌は考えた。
女にぴったりの名。
長すぎる寿命が辛いと言った、白い髪の女。
どこか儚く、けれど凛としていて自分の意思を持っている。
弱々しく見えても、その実は強い可憐な姫君。
(あぁ、そうだ。あれにしよう)
では、と行昌は言った。
「では、主殿を『沙羅』と名付けよう」
「さら……この髪のせいでしょうか?」
女は行昌の言葉に不安そうに尋ねる。
沙羅とは沙羅の樹。
夏椿のこと。
花は白く、一日でぽとりと落ちる。
「それもあるが……、主殿は長すぎる寿命を厭っていたから」
「だから一日で落ちる儚き花の名を?」
「いや、そうではない。沙羅の花は確かに朝咲くと次の朝にはもう落ちている。けれどその樹には別の花がまた咲いている」
「あ」
「つまり、毎日生まれ変わるということ。主殿にも一日一日生まれ変わるような気持ちで生きていただきたいのだ。そうすれば、多少長生きでも苦にならぬだろう?」
この白い髪も、主殿にとても似合っているしな、と行昌が言うのを、女は聞かずにぎゅっとその首に抱きついた。
ぬぉっ、という驚きの声を無視して行昌の顔を見上げると、今までの笑顔とは比べ物にならないほど幸せそうに微笑んだ。
「その御名、いただきまする」
ありがとうございます、行昌さま、と涙を浮かべて女――――沙羅は言った。
わたくしなどの幸せを願ってくださって、ありがとうございます、と。
* * *
「行昌殿、昨日はご苦労だったね」
「はぁ、お役に立てて何よりです」
沙羅の屋敷から一度家に帰って着替えてから、内裏に出仕した行昌は成隆に会ってそう言われた。
「遅れたの、上には誤魔化しておいたから」
「……どうも」
貸し一つだ、と成隆の目は言っていた。
(あぁ、やっぱり)
こういう人だとわかってはいる、のだが。
はぁ、と溜息をつかないではいられない。
(……まぁ、いいか)
おかげで沙羅に出会えた。
『機会があればまた会えましょう。そのときまで、こちらを訪ねたりはなさらないでくださいまし』
それが最後にした約束だった。
何故訪ねてはいけないのかは訊かなかった。
またいつか会える、そんな気がしたから。
小さな庵の姫君の ひとり愛でるは 沙羅の花 想いの在り処 誰知らず―――――……
―終―
最初から最後まで平安時代のものを書いたのは初めてでしたが、やっぱり難しいですね。もし変なところなどありましたら是非御報告くださいませ。
私は「沙羅」という言葉が大好きです。
中学の修学旅行で大覚寺のお坊さんに夏椿のお話(文中の行昌くんの言葉参照)をしていただいたとき、いつか絶対物語にしようと思って、それがこのお話となりました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。