糸杉の針で愛を縫う令息は、公爵令嬢に真実の愛を捧げたい
今年も、王立学院の創立祭の時期がやってきました。
王立学院の創立祭には、王家の宝物庫からいくつかの魔道具が運び込まれます。
学院に通う若き貴族たちへ、王国の歴史と魔法技術の偉大さを示すための、たいへん格式ばった行事です。
少なくとも、去年まではそうでした。
今年は、魔道具の展示は行われません。
当然です。
王宮宝物庫から外へ出た魔道具が、まだすべて戻っていないのですから。その代わりに、創立祭の前夜祭として夜会が催されることになりました。
今回、私は王太子殿下のエスコートを受けませんでした。
代わりに、メティア・アステリア様とともに出席することにしたのです。
「私とご一緒で、本当によろしいのですか」
馬車の中で、メティア様が尋ねました。
「ええ。今の私には、甘い言葉をくださる殿方より、危ない魔道具を見分けられる方のほうが必要です」
「……褒められているのでしょうか」
「たいへん褒めていますわ」
メティア様は、少しだけ困ったように瞬きしました。
「アルギス様は、やはり王宮ですか」
「はい。魔道具が戻らない限りは、学院の創立祭へ顔を出す余裕はないかと」
「それは残念です。お二人のご様子は、以前からたいへん参考にさせていただいておりましたのに」
「ネレイス様」
「冗談ですわ」
「今の間は、冗談ではございませんでした」
「半分ほどは」
「なお悪いです」
そう言いながらも、メティア様の声にはわずかに笑みが混じっていました。
私は扇で口元を隠します。少しだけ、気が楽になりました。
夜会の会場は、学院の大広間でした。中央に魔道具の展示台はありません。代わりに、花と燭台と楽団。
そして、魔道具と同等かそれ以上に扱いにくい若い貴族たちが並んでおります。
私が会場へ入ると、いくつもの視線がこちらへ向きました。
王太子殿下と一緒ではない。やはり婚約は揺らいでいるのでは。
ローヴェル公爵家と王家との間に溝ができたのではないか。
いや、王家がそう簡単に彼女を手放すはずがない。女神の鏡に映された令嬢を。
本当に王家はまだ、彼女を王太子妃にするつもりなのか。
声にはなりません。
けれど、聞こえる気がしました。視線というものは、時に言葉よりもよく喋ります。
「ネレイス様」
メティア様が低く言いました。
「今夜は、視線が多いです」
「夜会で視線が少なかったら、それはそれで問題では?」
「そういう意味ではなく」
メティア様は、会場の奥へ目を向けました。
「誰かを見ているというより、何かが起きるのを待っているようです」
私は会場を見渡しました。たしかに、笑い声は華やかです。けれど、その下でいくつもの視線が行き交っていました。
誰が誰と話すのか。誰が誰の手を取るのか。誰が誰から離れるのか。
エリオット様は、私たちとは少し離れた場所にいらっしゃいました。
王太子殿下として、学院長や教師方、来賓の方々に挨拶をされています。
こちらへ視線が向いた気がしました。
けれど、すぐに他の令息が彼へ話しかけます。
エリオット様は一瞬だけこちらを見て、それから礼儀正しく相手へ向き直りました。
その動きに、胸の奥が少しだけ痛みます。私が彼のエスコートを受けなかったのです。
痛む資格は、私にないのかもしれません。
けれど、胸は勝手に痛むものなのだと最近知りました。困ったことです。
その時、会場の奥から小さなざわめきが起きました。
人垣が、自然に割れます。
そこから現れたのは、一人の令息でした。
ディアス・ウィーヴァー侯爵令息。社交界では、美貌と恋の噂で知られた方です。
淡い金の髪。澄んだ緑の瞳。整いすぎた顔立ちに、少しだけ気だるげな微笑み。
確かに、美しい方です。それは認めます。
認めますが、美しいということは災いの種になりうるということを、私はすでに何度も学んでおります。
ディアス様は、多くの女性と親しくしてきた方です。ただ、ご本人はそれを不名誉とは思っていないそうです。まだ真実の愛に出会えていないだけ。そう本気で信じていらっしゃるのだとか。
真実の愛。便利な言葉です。
美しさと同じくらい空虚な香りがします。
そのディアス様が、私を見ました。正確には、私の顔を見ました。そして、目を輝かせたのです。
「ローヴェル公爵令嬢」
ディアス様は、私の前で優雅に礼をしました。
「今宵、お目にかかれたことを光栄に思います」
「こちらこそ、ご挨拶をいただき光栄ですわ。ウィーヴァー侯爵令息」
「どうか、ディアスと」
「では、ディアス様」
名前を呼んだ瞬間、周囲の空気が少し揺れました。まるで、私がそう呼ぶのを待っていた人々がいたかのように。
私は扇を握り直します。
ディアス様とは社交の場で何度か言葉を交わしたことはあります。美しいものを褒めるのが上手く、相手に自分が特別だと思わせるのも上手い方。ただし、その特別がどれほど長く続くのかは、また別の話です。
「以前よりも、さらに美しくなられましたね」
ディアス様は、うっとりとした声で言いました。
「以前の私をご存じでしたか」
「もちろんです。美しいものは、記憶に残ります」
「便利なご記憶ですこと」
「ええ。美しいものに限れば、私はたいへん記憶がよいのです」
周囲の令嬢方が、扇の陰で小さく笑いました。好意的な笑いでした。ディアス様は、こういう空気を作るのが上手い方です。
美しい令息が、美しい令嬢を見出す。王家の重さに苦しむ令嬢を、自由な恋が救う。
そのような話は、夜会の噂としてたいへん香りがよいのでしょう。
「近頃、ずいぶん心ない噂がございますね」
ディアス様は、声を少し落としました。
「王太子妃にするには危うい。けれど、王家の外へ出すには惜しい」
その言葉に、周囲の視線がわずかに集まります。
私は扇の陰で目を細めました。
「ずいぶん詳しくご存じなのですね」
「あなたのことですから」
「私のことであれば、私に確認していただきたいものです」
「確認したかったのです。今夜、こうして」
ディアス様は、優しく微笑みました。その微笑みに、周囲が少し息をのみます。彼は分かっているのでしょう。自分がこの場で、どう見えるかを。
「女神の鏡に世界一美しいと認められた令嬢。けれど、王太子殿下のもとで苦しんでいる方」
「私は今、苦しんでいる顔をしておりましたか」
「強い方ほど、苦しみを隠すものです」
「では、どのようなお顔をしていても苦しんでいることになりますね」
「あなたは聡い方だ」
「訂正しているのです」
「そうしてご自分を守ろうとなさるところも、美しい」
周囲から、ほう、と小さなため息が漏れました。
困ったことです。私が何を言っても、ディアス様の言葉の中では、哀れな令嬢の強がりに縫い直されていくようでした。
私はメティア様をちらりと見ました。
メティア様は何かを言おうとして、唇を閉じました。不自然でした。彼女なら、普段はもう少し早く、必要なことを言ってくださるはずです。けれど今は、まるで言葉をどこかに縫い留められたように黙っている。
ディアス様は、その沈黙に気づいていないようでした。
「私は、美しいものが好きです」
「そうですか」
「ええ。美しい花。美しい音楽。美しい宝石。そして、美しい女性」
「たいへん分かりやすいご趣味ですね」
「ですが、ただ美しいだけでは足りません」
ディアス様は一歩近づきました。
メティア様も、ほんの少し前へ出ます。けれど、やはり言葉は出ません。
「私は、ずっと探していたのです。私の心を満たしてくれる、真実の愛を」
「それは、たいへん大きなお探しものですね」
「ええ。けれど、今宵ようやく分かりました」
「何がでしょう」
「あなたです」
あまりにも迷いのない声でした。
「あなたこそ、私の心を満たしてくださる方だ」
「私には、そのようなお約束をした覚えがございません」
そう言ったはずでした。
けれど、その直後。
どこか遠くで、別の声が聞こえた気がしました。
『私も、ずっとお待ちしておりました』
女の声でした。けれど、私の声ではありません。
ディアス様は目を輝かせました。
「やはり」
「何が、やはりなのですか」
「あなたも、私を待っていてくださった」
「待っておりません」
『あの日、私を認めてくださった、あなた様を』
また、遠くで声が重なります。
私は眉をひそめました。今の声は、いったいどこから。
けれどディアス様は、陶然と息を吐きました。
「私を、認めてくださるのですね」
「私は何も認めておりません」
「その慎み深さも美しい」
「慎みではなく否定です」
「拒む言葉さえ、愛の前では震えて聞こえるものです」
会話が、噛み合っていません。
ディアス様は、私ではない誰かの言葉を聞いているようでした。
その時、扇の陰から囁きが聞こえました。
「フェスティナ様もいらしているのね」
「ええ。あのお姿でよく夜会へいらっしゃれますこと」
「でも、成績はいつも首席でしょう?」
「成績だけは、ですわ」
「それに、あのご気性ですもの」
「成績でお顔もお心も整うなら、学院中がもっと平和でしたでしょうに」
ささやき声が示した先に、私は目を向けました。そこにいたのは、フェスティナ・サジタス公爵令嬢でした。
彼女は、エリオット様の近くに立っていました。話しかける機会を待っているのか。それとも、すでに何かを話していた後なのか。私には分かりません。
ただ、エリオット様の表情が、いつもより硬いように見えました。
フェスティナ様は名門サジタス公爵家の才女として知られる方です。礼法、歴史、魔法理論、古典語。どの分野でも優秀な成績を収めていらっしゃいます。
家格だけで言えば、彼女に無礼な言葉を向けてよい者など、この学院にほとんどおりません。
それでも、そうした声は消えませんでした。人は、相手が自分より上だと分かっていても、扇の陰ではずいぶん勇敢になれるものです。
フェスティナ様は、ささやき声の相手ではなくなぜか私を見ていました。はっきりした敵意ある眼差しでした。
視線が合った瞬間、彼女の扇がほんの少しだけ持ち上がります。礼儀として微笑んでいる。けれど、目は少しも笑っていません。
私が何かをしたからではないのでしょう。おそらく、私が私であることが気に入らない。
私は、彼女を気の毒に思いかけました。けれど、その視線に含まれているものは痛みだけではありません。私を引きずり下ろしたいという、はっきりした悪意がありました。
その時、ディアス様も私の視線の先にいるフェスティナ様を見ました。ほんの一瞬だけ。
次の瞬間には、興味を失ったように目を逸らします。
「知性で飾っても、醜さに名前がつくだけなのに」
小さな声でした。けれど、聞こえないほどではありません。
「ディアス様」
私は、思わず彼を見ました。
「何か」
「今のお言葉は、ずいぶん失礼ではございませんか」
「失礼でしょうか」
ディアス様は、不思議そうに瞬きしました。
「私はただ、美しくないものを美しいとは言えないだけです」
メティア様が、私の袖を軽く引きました。
何かを言おうとしています。唇だけが動きます。針。糸杉の針。言葉を縫い残す魔道具。
「真実の愛に、時間は関係ありません」
「時間は関係あると思います」
『時間を戻せるなら、いつか必ず正しい答えへ辿り着けるはずです』
また、あの声が聞こえました。今度は先ほどより、はっきりと。
時間を戻す。
正しい答え。
その言葉に、メティア様の顔色が変わります。
けれどディアス様は、満足そうに微笑みました。
「ほら。あなたも、時間など越えられるとお分かりなのでしょう」
「今の言葉は、私ではありません」
「ですが、私には届きました」
「届いてはいけないものではありませんか」
「愛とは、時に理屈を越えて届くものです」
「たいへん迷惑な届き方です」
私は一歩下がりました。
ディアス様は、それさえ舞踏の始まりのように受け取ったのか、優雅に手を差し出します。
「あなたは、王太子殿下のもとで苦しんでいる」
「またその話ですか」
「あなたほど美しい方を、政治と王家の都合に縛るべきではない。私は、あなたを自由にできる」
「自由、ですか」
「ええ」
「私は、誰かに自由にしていただくために立っているのではありません」
「分かっています」
「分かっていらっしゃらないと思います」
「強い方だ」
「否定しています」
「強い方ほど、助けを求めるのが下手なのです」
「求めておりません」
「では、私が先に差し出しましょう」
ここまで来ると、会話ではありません。
ディアス様は、私の言葉を聞いているのではありませんでした。
私の口から出た音を、自分の望む物語へ縫い直しているだけです。
そして、どこか別の場所から届く女性の声を、私の本心として受け取っている。
「どうか、私の言葉を受け取ってください」
ディアス様は、声を甘くしました。
「受け取れません」
『あなた様のお言葉を、私はずっと大切にしてまいりました』
その瞬間、ディアス様の表情がほどけました。まるで、望んでいた返事を聞いた人のように。
「受け取ってくださった」
「受け取っておりません」
「私の言葉を、大切にしてくださると」
「言っておりません」
「愛しの君」
「その呼び方をおやめください」
「これほどまでに心が通じるとは思いませんでした」
「通じておりません」
私の声は、思ったより低くなっていました。
けれど、ディアス様には届きません。彼は、私を見ています。私だけを見ている。それなのに、私の言葉を一つも聞いていない。
ひどく奇妙でした。
「ディアス様」
私は、ゆっくりと言いました。
「私は、あなたを好きではありません」
ディアス様が、初めて言葉を失いました。
ようやく届いたのかと思いました。けれど、違いました。
彼は、傷ついた顔をしたのではありません。
信じられない、という顔をしたのです。私が拒んだことではなく。私が本心を隠したことが信じられない、という顔でした。
「……あなたは、そこまで王家に縛られているのですね」
「違います」
「私を拒むことで、ご自分を守ろうとしている」
「違います」
「分かります。今はまだ、それでいい」
「よくありません」
「あなたの本当の言葉を、いつか私が聞きます」
「今の言葉が本当です」
「美しい嘘だ」
私は、息を吸いました。ここまで言葉が届かないということがあるのだと、初めて知りました。
「真実の愛というものがあるのなら、まず相手が自分を好きかどうかを聞くべきではありませんか」
「私は、あなたを愛しています」
ディアス様は、そう言いました。それは、たいへん甘く、整った声でした。
私は返事をしませんでした。返事をする理由がありません。
けれど、その時。
『私も、あなた様に選ばれる日を、ずっと待っておりました』
遠くで、女の声が重なりました。
ディアス様の表情が、ゆっくりとほどけます。
美しい顔でした。望んだものを、ようやく手に入れた人の顔でした。
「……ああ」
彼は小さく息を吐きました。
「やはり、あなたも」
「違います」
「待っていてくださったのですね。私の愛が、あなたを自由にする時を」
「違います」
私の否定は、もう彼には届いていませんでした。ディアス様は、私を見つめたまま、恍惚と微笑みました。
「ようやく見つけた」
その声には、疑いがありませんでした。
「私の真実の愛を」
その瞬間、会場奥の記録布が、大きく波打ちました。銀の糸が走ります。
最初に縫い留められた名は、ディアス・ウィーヴァー。
次に縫い留められた名は、フェスティナ・サジタス。
その後に続いた言葉を、私はすべて読み取ることができませんでした。
ただ、いくつかの言葉だけが目に入ります。
真実の愛。時間。言葉を受け取る。あなた様。
記録布は、まだ止まりませんでした。
最後に、ひときわ濃い銀の糸が走ります。
『ディアス・ウィーヴァー:
私は、あなたを愛しています』
会場の空気が、さらに冷えました。
それは、ディアス様が私へ向けて言ったはずの言葉でした。けれど、記録布は私の名を縫いません。
続いて、フェスティナ様の名が浮かび上がります。
『フェスティナ・サジタス:
私も、あなた様に選ばれる日を、ずっと待っておりました』
全員が状況を理解したわけではないでしょう。けれど社交界では、全員が理解する必要などありません。
数人が理解すれば、翌朝には百人が知っていることになります。
そして最後に、記録布は結論を縫い留めました。
『以上の言葉により、ディアス・ウィーヴァーは、フェスティナ・サジタスへ真実の愛を捧げたものと記録する』
『フェスティナ・サジタスは、その言葉を受け取ったものと記録する』
沈黙。
たいへん潔い沈黙でした。
あまりのことに、誰もすぐには反応できなかったのです。
記録布には、ただ、姓名と発した言葉だけが縫い留められています。
ディアス・ウィーヴァー。
フェスティナ・サジタス。
ディアス様は、記録布を見上げたまま固まっていました。
彼はおそらく、途中まで信じていたのです。自分の愛は届いている。相手は拒みながらも、どこかで受け取っている。
そう思っていた。
けれど記録布に縫い留められた返答の名は、ネレイス・ローヴェルではありませんでした。
フェスティナ・サジタス。
その名を見た瞬間、ディアス様の顔から甘い陶酔が消えました。
「消せ」
ディアス様が、低く言いました。
「今すぐ消せ。これは間違いだ。私はこの女に、愛など誓っていない」
「こちらの台詞ですわ!」
遠くからフェスティナ様の声が、鋭く響きました。
「誰が、あなたのような方の言葉を受け取りますの。私が待っていたのは、あなたではありません!」
言ってから、フェスティナ様は息をのみました。
会場の視線が、彼女へ集まりました。
フェスティナ様の顔が、屈辱で歪みます。
「なぜ私が、あなたのような美貌だけの軽薄な方に求愛されなければなりませんの」
「美貌だけ?」
ディアス様の目が見開かれました。
「その美貌すら持たない方に言われるとは思いませんでした」
会場が凍りました。
「まあ。中身が空なら、せめて器くらいは美しくなければ困りますものね」
「空?」
「ええ。あなたから美貌を除いたら、何が残りますの。使い古された愛の言葉と、泣かせた令嬢方の数くらいではなくて?」
ディアス様の笑みが消えました。美しい顔から、作りものの甘さが抜け落ちます。
「私を、そのように言うのですか」
「ええ。あなたのような方は、女性に見つめられている時だけ、ご自分に価値があると思っていらっしゃるのでしょう」
フェスティナ様の声には、もう礼儀の薄布すら残っていませんでした。
「愛だの真実だのと、たいそう美しい言葉を並べていらっしゃいますけれど、結局は相手の心など見ていない。自分が選ぶ側だと思いたいだけ。自分が求められる男だと確認したいだけ」
「黙れ」
「黙りませんわ。あなたのような、女性にもてることにしか価値を見出せない殿方は、人類の敵ですもの」
フェスティナ様は止まりません。
「どうぞ地獄へお落ちになって。できれば、その軽薄な口も甘ったるい声も、二度と誰の耳にも届かない深さまで」
ディアス様の瞳が、冷たく細まりました。
「……口を開くほどに、醜さが増す方だ」
その声は、先ほどまでの甘い響きとはまるで違っていました。
ディアス様は、フェスティナ様を見ました。
見る、というより、汚れたものを確認するような目でした。
「あなたの顔を見ていると、吐き気がする」
会場が凍りました。あまりに露骨で、あまりに残酷な言葉でした。
「姿だけでも耐えがたいのに、その気性まで最悪だ。知性で飾っているつもりかもしれませんが、滲み出るものまでは隠せない」
「……言ってくださいましたわね」
ディアス様は、口元だけで笑いました。
「私は美しいものが好きです。けれどあなたは、美しさから最も遠いところにいる。姿も、言葉も、心根も。あなたと同じ空気を吸っていると思うだけで、不快だ」
誰も笑いませんでした。先ほどまで、扇の陰で囁いていた令嬢たちも、今は黙っていました。
それは、冗談や嫌味ではありませんでした。本気の嫌悪です。
フェスティナ様は、ゆっくり扇を下ろしました。
「ご安心くださいませ」
その声は低く、震えていました。
「私も、あなたのような男に近づかれるくらいなら、一生誰にも選ばれない方がましです」
「それはお似合いだ」
「ええ。少なくとも、あなたに選ばれるよりは名誉ですわ」
フェスティナ様は、記録布を睨みつけました。
「訂正なさい。私はこの男の言葉など受け取っていません。このような女たらしの薄汚れた言葉を、私の人生に縫い留めないで」
二人は互いを見ました。
そこには、もう怒りだけではありません。心からの嫌悪がありました。
真実の愛を捧げた者。その言葉を受け取った者。
記録布に並ぶその文字が、二人にとってどれほどの屈辱なのか。会場にいた誰もが、十分すぎるほど理解したのです。
けれど記録布には、求愛の文字が残っている。それはただの噂ではありません。夜会の失言でもありません。取り返しのつかない記録です。
ディアス様は、今まで多くの美しいと言われる女性に甘い言葉を向けてきた方です。その彼が、フェスティナ様へ真実の愛を捧げたと記録された。
フェスティナ様は、誰かに選ばれる日を待っていたと知られてしまった。しかも、その言葉を受け取った相手はディアス様だと記録された。
教師方が動き、学院付きの魔導士が呼ばれました。メティア様は、駆けつけた魔導士に自分が見たことを説明しています。
封じ箱を運び込ませたのは、学院付きの魔導士です。糸杉の針と記録布が隔離されます。他にも何かが見つかったのか、魔導士たちの顔色は険しいものでした。
糸杉の針。
大公家の侍女が、思いを寄せていた男性へ小さな包みを渡したという証言がありました。
その男性が、ディアス・ウィーヴァーだったのでしょう。
侍女は、彼を愛していたのでしょうか。それとも、彼の言葉がいつか正しい形で縫い残されることを望んだのでしょうか。
それが彼女の願いだったのかは、私には分かりません。
ただ、糸杉の針は、彼の愛を縫い残しました。彼自身が、もっとも望まなかった相手へ向けて。
夜会は、いつのまにか終わっていました。
私は、気づけば会場の外にいました。夜風が、熱を帯びた頬に触れます。
「ネレイス」
声に振り向くと、エリオット様が立っていました。会場の灯りを背に、少し息を切らしていらっしゃいます。
まるで、何度もこちらへ来ようとして、ようやく辿り着いた人のようでした。
「送る」
「殿下」
「今夜くらいは、送らせてほしい」
今夜、私は王太子殿下のエスコートを受けずに会場へ入りました。それなのに帰りにエリオット様の手を取れば、周囲はこう見るでしょう。
ローヴェル公爵令嬢は、王太子殿下を完全に拒んだわけではない。婚約は、まだ終わっていない。
それが良いことなのか、悪いことなのか。今の私には、まだ分かりません。
それでも、差し出された手を無視したいとは思いませんでした。
私は、その手を取りました。
馬車の中は、思っていたより静かでした。向かい合うには近く、並ぶにはまだ遠い距離。そんな距離で、私たちはしばらく何も言いませんでした。
「ネレイス」
エリオット様が、私の名を呼びました。
「はい」
「今夜、君のもとへ行くのが遅くなった」
「はい」
「だが、私は行きたかった」
その言葉だけで、胸の奥が熱くなりました。
困ったことです。
ディアス様の美しい言葉は、少しも嬉しくありませんでした。けれど、エリオット様の不器用な一言は、こんなにも私を揺らすのです。
まだ、王家を手放しで信じられるわけではありません。
王太子妃となる自分を、まっすぐ受け入れられるわけでもありません。
それでも。
私は、エリオット様が好きなのだと思いました。
そのことに気づいた瞬間、馬車の車輪の音が、やけに大きく聞こえました。
困ったことです。
こんな時に。こんなにも厄介な夜会の後に。それでも、私はそう思ってしまったのです。
「ネレイス」
エリオット様が、もう一度私の名を呼びます。
彼の表情は、これまで見たどの時よりも真剣でした。
何かを決めた人の顔でした。
その唇が、ゆっくりと開きます。
けれど、その言葉を聞く前に。
私は、自分の鼓動の音ばかりを聞いていました。




