第1章:ここはどこ?
この作品は『魔法少女の魔女裁判』にオマージュを捧げています。
私は浅羽エム(あさは エム)。
かつて、チゴに徹底的にいじめられた。
机の中には使い古されたティッシュが詰め込まれ、ロッカーには赤インクがぶちまけられ、「呼吸すら迷惑」と言われた日々。
それでも、新学期の時間割を握りしめて、「もう一度、頑張ろう」と心に誓ったその矢先――
「……え?」
目の前に広がっていたのは、湿気と腐敗臭に満ちた部屋だった。
壁にはカビが皮膚の爛れのように這い、空気には鉄錆と朽ちた木の匂いが混ざり合い、吐き気がするほど生々しかった。
扉――というより、錆びた鉄格子。まるで獣を閉じ込める檻のようだ。
ここは……刑務所?
違う。これ以上に、恐ろしい場所だ。
静寂なのに、人の恐怖を噛み砕くような、生きた沈黙が満ちていた。
服も見知らぬものに着替えられていたが、妙に可愛くて、自分でも戸惑うほどだった。
震える指先でベッドの縁を掴んでいると、上段から物音がした。
「……エム? なんで、ここにいるの?」
見上げると、二階堂チゴが冷たい目で見下ろしていた。
黒髪が垂れ、その瞳は凍てついた刃のように鋭く、無機質だった。
「あなたこそ……どうしてここに?」
声が震えた。
「……ふん。」
彼女はそれだけ言うと、無言でベッドから降り始めた。
――ジジジッ!
壁際のスピーカーが突然、耳を刺すようなノイズを放った。
「聞こえていますか? 自己紹介をお願いします。私は『善の天使』。諸君を管理する者です。
世界各国の軍・警察と連携し、社会に潜む『キリストの使徒』を特定・隔離することが目的です。
君たち全員が『魔法細胞』を宿しているため、特別にここへ招待しました。
なお、『悪の天使』がこの場で発生する凶悪事件を裁き、『守堅者』が暴力や脱走を防ぎます。
今は自由行動時間です。会議室へ行き、互いに顔合わせをしてください。
午前九時までに寮に戻らなければ……その代償は、想像以上に痛烈ですよ。」
音が途切れた瞬間、ドアが自動で開いた。
チゴは、何事もなかったかのように歩き出した。
廊下には、他の部屋からも次々と人影が現れた。
五人の見知らぬ少年少女。皆、警戒心を隠せない目をしている。
すると、廊下の角から、一つの“影”がゆっくりと近づいてきた。
身長は二メートル近く。肌は焦げた炭のようにひび割れ、顔はない。
ただ、頭部を横断する一本の縫合線が、微かに開閉している――まるで、呼吸しているかのように。
「きゃっ!」
誰かが悲鳴を上げた。
「……守堅者?」
一人の少女が震える声で尋ねる。
その“存在”は足を止め、縫合線をゆっくりと引き伸ばした。
笑っているように見えた。
数秒後、再び歩き出す。
その足音は、まるで喪鐘を打つように重く、暗く、絶望的だった。
私たちは黙って後をついていく。
まるで、見えない糸に操られる人形のようだ。
そっと、チゴの袖に指先を寄せた。
「チゴちゃん……私、あなたと友達になりたい……」
言葉が終わる前に、彼女は私の手を振り払った。
力強すぎて、私はよろめいた。
「友達?」
彼女の声は氷のように冷たく、底知れない闇を孕んでいた。
「お前と? 消えろ。」
背を向けたその姿は、断ち切られた刃のように決然としていた。
五分後、私たちは会議室の前に立っていた。
鉄製の扉がゆっくりと開き、白く冷たい光が中から溢れ出る。
円卓の周りには、七脚の椅子が並んでいた――ちょうど、私たちの人数分。
「はじめまして! 私は泉リアです!」
明るすぎる声が、不自然なほど弾んだ。
その後、一人ずつ自己紹介が始まった。声は次第に沈んでいく。
「千葉シズク。」(平坦な口調。だが、視線は全員を鋭く観察している)
「夏目チヤ。」(指先が無意識に衣の端をまさぐっている。現実に確信が持てない様子)
「こんにちは、趙ユジャよ。」(尾音は上向きだが、その目は計算高く、疑念に満ちている)
「ヨエイ。」(短く、鋭い。韓国訛りが残っている)
そして、私の番――
「私は……」
「――二階堂チゴ。」
私の言葉を遮って、彼女が前に出た。
背筋は真っ直ぐで、まるで剣のように鋭い。声は凍てつくほど冷たい。
「この浅羽エムという人間が大嫌いです。
私たちの紹介は、以上。」
その瞬間、会議室のドアが再び開いた。
純白の修道服を纏った女性が、静かに入ってきた。
金髪は後ろでまとめられ、顔立ちは聖画に描かれた聖母のごとく優雅で清らか。
だが、その瞳だけは――あまりにも澄みすぎていて、魂の奥底まで透かされているような錯覚に陥る。
「こんにちは。私は『善の天使』です。
これから、皆さんの日常生活を管理させていただきます。」
「なぜ、ここに連れてこられたんですか?」
チゴが即座に問い質す。声は張りつめていた。
「なぜなら――」
天使は微笑みながら、穏やかに答えた。
「あなたたちは、いずれ悪人になるからです。
世に潜む『キリストの使徒』予備軍。邪悪なる魔術師たち。」
「違う! 私はそんな人間じゃない!」
チゴが叫んだ。指の関節が白くなるほど拳を握りしめている。
「いいえ、子ども……あなたはそうなのですよ。」
天使は哀しげに首を振った。
「――違うわ!」
チゴが猛然と振り向くと、私のほうを指差した。
「こいつこそが、本当の悪人よ!」
「……は?」
私は固まった。心臓が一瞬、止まったように感じた。
「よく見て!」
彼女は床の隅に転がっていた、錆びた鉄の棒――おそらく暖炉の柵の残骸――を拾い上げた。
先端には灰がこびりつき、不吉な黒光りを放っている。
「この不浄な存在を、私が始末する!」
鉄棒を高く掲げ、風を裂く音を立てて振り下ろす――
だが、その先は私ではなかった。
善の天使に向かっていた。
「この世に“天使”なんて存在しない!
だから、お前は偽物だ! 幻だ! 罠なんだ!」
彼女の目には狂気はなかった。
あるのは、冷徹な覚悟と、歪んだ正義感だけ。
ガシャン――!
しかし、次の瞬間、黒い影が横合いから飛び出してきた。
守堅者が、天使の前に立ち塞がり、片手で鉄棒を鷲掴みにする。
もう一方の手は、腰の剣を静かに抜いた。
その刃は光を吸い込むように、周囲の明かりをすべて飲み込んでいた。
そして――
プシュッ。
首を切り裂く音は、濡れた紙を破るよりも軽かった。
チゴの首が、私の足元にコロリと転がった。
目はまだ開いたまま。驚きと不信のまま、固まっていた。
「きゃあああああ――!!!」
悲鳴が炸裂する。
誰かが膝をつき、誰かが嘔吐を堪えている。
だが、善の天使はまつげさえ動かさなかった。
彼女は静かにチゴの頭を拾い上げると、まるで眠りについた子を抱くように優しく抱きしめた。
「守堅者、処理をお願いします。」
そして、呆然とする私たちに微笑みかけた。
「あ、そうそう。ポケットを確認してみてください。
スマホが入っていますよね? 中に『魔法Wiki』というアプリがあります。
あとで、各自で調べてくださいね。」
彼女は、存在しない腕時計に目を落とした。
「さて、もう九時です。
禁錮時間になりました。早く寮に戻りましょう。」
皆、足を引きずるように会議室を後にした。
誰も、振り返らなかった。
私だけが、その場に取り残されていた。
ポケットの中のスマホは、冷たく、新品同様だった。
画面が自動で点灯し、ホーム画面に表示されたアイコン――
《魔法Wiki》
廊下の奥では、チゴの首のない遺体が、暗闇へと引きずり込まれていた。
床に残された血痕は、細く、赤く、まるで地獄へと続く赤い糸のようだった。




