声の色
一章 カラオケのある家
窓の外から差し込む午後の光が、リビングの片隅に置かれた機械を照らしていた。それは当時としては珍しい、家庭用のカラオケセットだった。
「ねえ、また歌おうよ!」
小学三年生の私──藤崎美咲は、放課後に遊びに来た友達の麻衣ちゃんに誘われて、嬉しそうに頷いた。
マイクを握る。スピーカーから流れ出すメロディー。私たちはまだ幼い声で、テレビで聴いた歌を見よう見まねで歌った。音程が外れていても、歌詞を間違えても、そんなことは誰も気にしなかった。ただ楽しかった。歌うことは、純粋に楽しいことだった。
「美咲ちゃん、上手だね!」
麻衣ちゃんの言葉に、私は照れくさそうに笑った。上手かどうかなんて、本当はどうでもよかった。友達と一緒に歌って、笑って、それだけで幸せだった。
あの頃の私は、まだ知らなかった。声というものが、いつか自分を縛る鎖になることを。
二章 変わっていく世界
それは五年生になった春のことだった。
教室の後ろで、何人かの男子が集まって騒いでいた。私は自分の席で本を読んでいたが、ふと聞こえてきた声に耳を疑った。
「藤崎ってさ、声が変だよな」
私の名前。
「ああ、わかる。なんか、テレビに出てるあの人に似てない? ほら、あの変な声のタレントの」
笑い声。
本のページを繰る手が止まった。心臓の鼓動が早くなる。彼らは私が聞こえる距離にいることを知っていて、わざと言っているのだろうか。それとも本当に気づいていないのだろうか。
「確かに。なんか、アニメ声っぽいよな」
「アニメ声!それだ!」
また笑い声。
私は本を閉じ、じっと机を見つめた。涙が出そうになったが、ここで泣いたら余計に笑われる。そう思って必死に堪えた。
その日から、何かが変わった。
音楽の時間が憂鬱になった。国語の時間に教科書を音読するのが怖くなった。友達と話すときも、自分の声が周りにどう聞こえているのか、常に気になるようになった。
そして、あれほど楽しかったカラオケにも、もう誘われなくなった。自分から遠ざかったのかもしれない。それとも、友達が気を遣って誘わなくなったのかもしれない。どちらだったのか、今となってはわからない。
三章 沈黙という選択
六年生の秋、合唱コンクールがあった。
クラス全員で一つの歌を歌う。本来なら、それは絆を深める素敵な行事のはずだった。でも私にとっては、ただ苦痛でしかなかった。
練習の時から、私は小さな声でしか歌わなかった。それでも、自分の声が周りに聞こえているような気がして、怖かった。
そして本番の日。
体育館のステージに立つ。客席には保護者や他のクラスの生徒たちが座っている。ピアノの前奏が始まる。指揮者の手が上がる。
私は、口を動かすだけだった。
声を出さず、ただ口の形だけを歌に合わせて動かす。口パク。それが私の選んだ解決策だった。
歌い終わって袖に下がると、達成感よりも、自己嫌悪だけが残った。私は何から逃げたのだろう。何を守りたかったのだろう。
歌うこと。声を出すこと。
それはいつの間にか、私にとって「恥ずかしいこと」になっていた。幼い頃のあの純粋な楽しさは、もう遠い記憶の中にしかなかった。
四章 客観という鏡
大学を卒業して社会人になった頃、世の中はすっかり変わっていた。
誰もがスマートフォンを持ち、いつでもどこでも写真を撮り、動画を撮り、音声を録音できる時代。私のポケットの中にも、小さな録音スタジオが入っているようなものだった。
ある休日の午後、一人暮らしの部屋でぼんやりとスマホをいじっていた私は、ふと思い立った。
自分の声を、録音してみよう。
なぜそう思ったのかは、今でもよくわからない。ただ、このコンプレックスをいつまでも引きずっていたくない、という気持ちがあったのかもしれない。
録音ボタンを押す。
「えっと……こんにちは。私の名前は藤崎美咲です」
簡単な自己紹介を録音して、再生してみる。スピーカーから流れてきた声は、確かに私の声だった。でも、いつも自分の耳に聞こえている声とは少し違う。骨伝導で聞く声と、外から聞く声は違うのだと、以前何かで読んだことを思い出した。
もう一度、再生する。
今度は、これが他人の声だと思って聞いてみた。客観的に。先入観を持たずに。
別に……おかしくないのではないか。
普通、ではないか。
そう思えた。
確かに少し高めの声かもしれない。でも、それは「変」なのだろうか。「おかしい」のだろうか。そもそも、声に正常も異常もないのではないか。
何度も何度も、自分の声を録音して聞いた。様々な文章を読んでみた。時には笑ってみたり、感情を込めて話してみたり。
そうして気づいた。私は自分の声を嫌っていたのではない。自分の声を嫌う「べきだ」と思い込まされていただけなのだと。
五章 半分だけの克服
それから、声を出すことへの抵抗は少しずつ薄れていった。
会社でのプレゼンテーションも、以前ほど緊張しなくなった。友人との会話も、自然に楽しめるようになった。電話での応対も、苦ではなくなった。
でも、カラオケだけは別だった。
二十代半ば、大学時代の友人たちとカラオケに行く機会があった。個室に入り、友人たちが次々と歌い始める。楽しそうな笑顔。マイクを回そうとする手。
「美咲も歌おうよ!」
差し出されるマイク。
「私は……いいや。聞いてる方が好きだから」
笑顔で断る。でも心の中では、子どもの頃の言葉が蘇っていた。
『変な声』
『アニメ声』
『似てる、あのタレントに』
声を出すことは怖くなくなった。でも、歌うことは違った。歌は、ただ話すよりも長く声を出し続けなければならない。音程を保たなければならない。リズムに乗らなければならない。
そして何より、歌は「聞かせるもの」だという意識があった。
自分の歌声を他人に聞かせる。評価される。もしかしたら、また笑われるかもしれない。
その恐怖は、まだ乗り越えられていなかった。
結局その日、私は一曲も歌わなかった。友人たちは何も言わなかったが、きっと気を遣わせてしまっただろう。申し訳ない気持ちと、情けない気持ちが混ざり合って、帰り道はずっと下を向いていた。
六章 時は流れて
三十代後半。
気づけば、あの合唱コンクールから二十年以上が経っていた。
私は相変わらず独身で、仕事に追われる日々を送っていた。特に不満があるわけでもない。でも、どこか満たされない何かがあった。
それは「できない」と決めつけていることが、いくつもあるからかもしれない。
人前で歌うこと。
スポーツ。
恋愛。
新しいことへの挑戦。
「どうせ私には無理」と、挑戦する前から諦めているものばかり。
ある日、大学時代からの親友である結衣から連絡があった。
「美咲、今度カラオケ行かない? 私の好きなアニメとコラボしてるんだけど、一人じゃ行きづらくて」
結衣は私が歌わないことを知っている。それでも誘ってくれるのは、本当に付き合って欲しいからだろう。
「いいよ、付き合う」
私は即答した。結衣の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
七章 決意の一歩
週末、繁華街のカラオケ店。
何年ぶりだろう。こうして個室に入るのは。部屋の中央に置かれたテーブル、壁際のソファ、そして二本のマイク。全てが懐かしく、そして少し怖かった。
「わあ、本当にコラボしてる!見て見て、この特典映像!」
結衣は嬉しそうにリモコンを操作している。私はソファに座って、その様子を微笑ましく見ていた。
結衣が何曲か歌った。アニメの主題歌を、本当に楽しそうに歌っている。時々音程を外しても、歌詞を間違えても、気にせず笑っている。
あの頃の私みたいだ、と思った。カラオケセットで麻衣ちゃんと歌っていた、あの頃の。
「せっかくだし、美咲も何か歌おうよ」
結衣が言った。無理強いする口調ではない。でも、その優しい誘いが、私の心を揺さぶった。
私は、改めて思い出した。
カラオケを、人前で歌うことを、克服したかったのだと。
そして、もう三十代後半なのだと。いつまで「いつか」を先延ばしにするのだと。
「……歌う」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「え?」
結衣が目を丸くする。
「歌う。私、歌う」
もう一度言って、私はリモコンを手に取った。手が震える。心臓が早鐘を打つ。
曲を選ぶ。昔よく聴いていた、懐かしい歌。歌詞は今でも覚えている。
イントロが流れ始める。
マイクを握る手が、ブルブルと震えている。
大丈夫。聴いているのは結衣一人だけ。結衣は私を笑わない。
音痴でもいい。下手でもいい。
ただ、歌うことができれば。
それだけでいい。
八章 震える声
歌い始めた。
選んだのは、かつて大好きだったけれど、自分には似合わないと封印していたアップテンポな曲だ。中学時代に何度もヘッドホンで聴いていたあの曲だった。
声が震えている。音程も怪しい。でも、声が出ている。私は歌っている。
『ありのままでいい』なんて、当時は綺麗事にしか聞こえなかった歌詞。でも今、自分の震える声でその言葉をなぞると、まるで過去の自分を迎えに行っているような不思議な感覚になった。
モニターに流れる歌詞を追いながら、必死にメロディーをなぞる。途中で声が裏返りそうになる。でも止まらない。歌い続ける。
結衣の顔は見られない。怖くて見られない。でも、笑い声は聞こえてこない。
一番が終わる。間奏。息を整える。
そして二番。
少しだけ、声の震えが収まってきた気がする。少しだけ、自分の声を受け入れられている気がする。
最初は低く、地面を這うような音程しか出せなかった。けれど曲が盛り上がるにつれ、私の声も少しずつ上を向き始める。
かつて『変な声』と笑われた高い音域。そこへ踏み込むのは怖かったけれど、勇気を出して息を吐き出すと、思いのほか澄んだ音が空気に混ざった。それは、暗闇に一筋の光が差し込むような、そんな響きだった。
これが私の声。
これが私の歌。
下手でも、震えていても、これが私。
最後のサビ。
『私の声が届いていますか』というサビのフレーズに差し掛かった時、喉の奥が熱くなった。
ずっと、誰にも届かないように、誰の耳にも止まらないようにと押し殺してきた私の声。それが今、スピーカーを通して狭い部屋に響いている。上手い下手じゃない。私はここにいると、叫んでいるみたいだった。
不思議なことに、涙が出そうになった。悲しいからではない。嬉しいからでもない。ただ、何か大きな塊が胸の中から溶け出していくような、そんな感覚。
曲が終わった。
しばらく、沈黙。
そして、拍手。
「美咲……」
顔を上げると、結衣が笑顔で拍手していた。
「歌えたね」
「うん……歌えた」
マイクを置く。手はまだ震えている。でも、確かに歌った。何年ぶりだろう。人前で声を出して歌ったのは。
「もう一曲、歌う?」
結衣が優しく聞いてくれる。
「……うん。もう一曲、歌いたい」
そして私は、もう一曲歌った。最初よりは少しマシだったかもしれない。それとも変わらなかったかもしれない。でも、それでよかった。
上手く歌えなくてもいい。音程が外れてもいい。
ただ、人前で声を出すこと。
それが今の私の目標だから。
九章 壊れた壁
その日の夜、一人暮らしの部屋に帰った私は、ベッドに倒れ込んだ。
そして、涙が溢れてきた。
嗚咽が漏れる。止められない。枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
悲しくて泣いているのではない。嬉しくて泣いているのでもない。ただ、何かが解放された。長い間、自分を縛っていた鎖が、一つ外れた。
私は「できない」と決めつけていたことを、一つ「できる」に変えた。
完璧にできるようになったわけではない。まだ人前で歌うときは手が震える。声も震える。音程だって不安定だ。
でも、できた。
歌うことができた。
それは小さな一歩かもしれない。他の人から見たら、取るに足らないことかもしれない。でも私にとっては、大きな大きな壁を壊した瞬間だった。
涙が止まった後、私はスマホを手に取った。結衣にメッセージを送る。
「今日はありがとう。また行きたい」
すぐに返信が来た。
「こちらこそ!次はいつにする?」
私は微笑んで、カレンダーを確認した。
終章 今日も歌う
それから、月に一度は結衣とカラオケに行くようになった。
時には他の友人も誘って、三人、四人で行くこともある。私はいつも最初の一曲を歌うまでは緊張する。マイクを持つ手は今でもブルブルと震える。
それでも、マイクを握る。
声を出す。
声も震える。
それでも声を出す。
歌が上手くなったかと言えば、多分そうでもない。でも、それでいい。上手く歌うことが目的ではないから。
大切なのは、「できない」を「できる」に変えていくこと。
カラオケで人前で歌えるようになって、私は他のことにも挑戦し始めた。ずっと避けていたスポーツジムに通い始めた。苦手だった料理教室にも参加してみた。
全てが上手くいくわけではない。今でも失敗することの方が多い。でも、挑戦しないで「どうせ無理」と決めつけるよりは、ずっといい。
私の人生は劇的に変わったわけではない。相変わらず独身で、仕事に追われる日々。でも、心の中に小さな自信が芽生えている。
「私はできる」
その小さな自信が、少しずつ私を変えていく。
週末、また結衣からカラオケの誘いが来た。今回は新しいコラボ企画があるらしい。私は即座に予定を空けた。
個室に入る。マイクを見る。少しだけ、緊張する。
でも大丈夫。
私は歌える。
完璧じゃなくていい。震えてもいい。音痴でもいい。
ただ、歌うことができればいい。
マイクを握る。手が震える。それでも握り締める。
イントロが流れる。
私は歌う。
震える声で、不安定な音程で、それでも確かに歌う。
これが私の声。
これが私の歌。
これが、今の私。
そして私は、これからも壁を突破していく。
そんな決意を固めて、今日も歌う。
窓の外から差し込む夕暮れの光が、カラオケルームを優しく照らしていた。マイクを握る私の手は、もう震えていなかった。いや、正確には震えているのだけれど、それを受け入れられるようになっていた。
震えながらでも、私は歌う。
それでいい。
それがいい。
歌うこと。
それは本来、楽しいことのはずだった。
そして今、ようやく──。
それは再び、楽しいことになりつつあった。




