@2 — 追われる少女 —
— 追われる少女 —
セリスは、この村を故郷だと思っていた。 物心ついたときには、すでにここにいたからだ。
朝になれば、パンとチーズの香ばしい匂いが漂い、農家の人々が畑へ向かう姿があった。子どもたちは川辺ではしゃぎ、夕暮れ時には囲炉裏の火が赤々と燃えていた。そんな穏やかな日常が、彼女にとってすべてだった。
小さな農村。名もない谷間の集落。 彼女を拾い育ててくれたのは、老婆のマルタだった。
「お前は私の孫さね。……ちょいと変わった目をしてるがね」
セリスは幼い頃から、自分が村の他の子供たちとは違うことを感じていた。 白銀の髪。透き通るような青い瞳。 村人たちは優しかったが、どこかよそよそしくもあった。大人たちは彼女に微笑みかけるが、視線が髪や瞳に向けられると、一瞬の躊躇いが見えた。そして何かを言いかけては、そっと口をつぐむことがあった。
それでも、セリスにとってこの村は大切な居場所だった。
特に、マルタの存在は彼女にとって唯一無二だった。 夜になると、マルタはセリスの髪を梳いてくれた。その手の温もりが、彼女にとって何よりの安心だった。
「セリス、お前は特別なんだよ」 マルタはふと、そんな言葉を漏らすことがあった。
その夜も変わらず、村は穏やかだった。 遠くでフクロウが鳴き、囲炉裏の火が静かに揺れる。 セリスは、マルタが作ったスープの余韻を舌に感じながら、毛布を引き寄せた。
——突然全てが引き裂かれる。
村の夜を引き裂く悲鳴と、鋼がぶつかり合う甲高い音。 闇に包まれた集落を、紅蓮の炎が揺らめきながら照らし出していた。 家々が次々と爆ぜるように燃え、夜空に炎の舌が伸びる。 黒い影が剣を振り下ろし、血飛沫が夜の闇を赤く染めた。 黒い甲冑を纏った兵士たちが、怒号を上げながら村を蹂躙していく。
「エルセリア王家の血を引く娘を探せ!」 「どこにいる! 王の娘はどこだ!」
王の娘? セリスには何のことか分からなかった。 だが、本能が告げていた——見つかれば、殺される。
「逃げて、セリス!」
マルタが叫び、セリスを突き飛ばした。 その直後、鋭い閃光とともに槍が老婆の体を貫く。
「おばあちゃん……?」
時が止まったように思えた。 そして—— セリスの脳裏で何かが弾けるように走った。
頭が割れるように痛い。視界が歪む。 炎の中に、記憶が蘇る——
——燃え盛る王城。闇に浮かぶ剣の煌めき。 ——必死に剣を振るう王。血塗れの床。 ——『この子だけは…守らねばならぬ…!』 ——名を呼ぶ声。『セリス』。それが私の名——。
「っ……ぁ……っ!!」
息が詰まる。頭が割れるように痛む。 だが、今は考えている場合ではない。
——逃げなければ、死ぬ。
セリスは駆け出した。 足元の瓦礫を蹴り飛ばしながら、帝国兵の視線をかいくぐる。 炎の光が届かない闇の中へ、彼女は一目散に駆けていった。
◆
セリスは、森の中を駆けた。 背後では、帝国兵の叫び声がまだ響いている。
「見つけたぞ! こっちに逃げた!」 「捕らえろ、殺してはならん!」
黒々とした木々が、月光を遮る。 獣道は険しく、根が絡まり合った足場は逃亡者の行く手を阻んだ。
なぜ彼らは私を狙うのか? 王の娘とはどういう意味なのか?
思考は追いつかない。 けれど、彼らの言葉——「エルセリア王家の血」——その響きが、頭の奥で鈍く反響する。
——私の正体は……本当に、何なの?
夜風が頬を切り裂くように吹き付ける。 木の枝が肌を掠め、土と落ち葉の匂いが鼻をついた。
——考えている暇はない。
裸足の足裏が鋭い石を踏み、痛みが走る。だが止まるわけにはいかない。 喉が焼けるように乾き、息が詰まりそうになる。 背後では、兵士たちの荒々しい足音が迫っていた。
「こっちだ!」 「森の中に入ったぞ!」
帝国兵の松明の光が、遠くでちらついている。 その明かりが近づく前に、もっと奥へ——
セリスは足元の枝を踏みつけながら、暗闇の中を駆け抜けた。 月明かりの届かない森の奥深くへ、ひたすらに——。
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