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利成君とのいさかい

フローライト第四十話

それから数日後、利成がバンドのメンバーを連れてきた。その中には一樹の姿もあった。


「こんばんは」と少し照れくさそうに一樹が明希に挨拶をした。明希も「こんばんは」と挨拶を返しながら、何であれ一樹がバンドのメンバーから外されなくて良かったと思った。


夜は結局前と同じく野村と一樹だけ残った。ただ今日は明希は先に入浴を済ませて寝室に入っていた。


スマホでGメールを開いた。


<あけましておめでとう>と翔太からメールが来ていた。


<あけましておめでとう。今年もよろしくね>と明希もメールを返した。


翔太とのことは利成が黙認している。こうやって連絡を取っていることを知っているけれど黙っているのだ。


何だか色んなことがモヤモヤとしていた。翔太のこと、一樹のこと、利成の女性関係・・・。でも明希にはどうすることがいいのかわからなかった。すべてが中途半端にくすぶり続けているのだ。


寝室から出てトイレに行こうとした時、リビングの方から野村の大声が聞こえてきた。野村は酔うとだんだん大声になるらしい。以前もお酒が進むにつれ大声になっていた。


「天城はモテるからな」


(あ・・・)と明希は何となくリビングの方に向かった。


「ツアーの時の何だっけ?美輪ちゃん?わざわざ天城のこと追いかけてきたんだろ?」


「追いかけてきたんじゃないよ。元々向こうの子だよ」


「そうか・・・でも、可愛い子だったよな」


「そう?」


(美輪って・・・利成が従妹って言ってた子?)


どういうことだろう・・・?と明希は首を傾げた。ツアーの時だから、やっぱりあの時利成が話していた美輪と同じ子だよね?


明希は咄嗟に時計を見た。夜の十時過ぎだった。


(利成のお母さん、起きてるかな・・・)


明希は寝室に入ってスマホで利成の実家を呼び出した。コール音が数回鳴って「もしもし?」と利成の母が出た。


「あの、夜分にすみません。明希です」と言ったら「あら?明希さん。どうしたの」利成の母に焦った声を出された。


「いえ、ちょっと聞きたいんですけど、利成の従妹って○○の方にいますか?美輪ちゃんていう・・・」


「○○には従妹いるけど、美輪て名前じゃないよ」


「そうですか・・・」


「どうかしたの?」と心配そうな声を利成の母が出す。


「いえ。何でもないです。すみません」と明希は電話を切った。


(正直に全部言ったんじゃなかったの?)


もしかしたらあの話で全部じゃなかったのかもしれない。そうだとしたらどうしたらいいのだろう。


(問い詰める?)


けれどそれを知ったところで、それが過去のものならばどうしようもできない。また一つ、自分を苦しめる材料が増えるだけだ。


そして(あ・・・)と思う。ツアーの時、一樹をつれて帰宅して、その夜一樹が言ったのだ。


──  天城さん・・・こんな可愛い奥さんいるのに・・・ 。


(あれはもしかしたら本当だったのかも?)


一樹は覚えてないと次の日言ってたけど・・・それもわざとだとしたら?


明希は一樹も何だか信用できなくなってきた。スマホをもう一度開き、一樹にラインした。


<話があるので、トイレに行くふりをして寝室に来て下さい>


ラインに気づくだろうか?と思ったが、間もなく寝室をノックする音が聞こえた。明希は静かにドアを開けた。


「どうかした?」と一樹が聞く。


「急にごめんなさい。ちょっと中に入ってもらっていい?」


そう言うと一樹が部屋の中に遠慮気味に入って来た。


「・・・その、だいぶ前のツアーの時のこと・・・聞きたくて」


「ツアーの時?」


「うん・・・初めて一樹君がここに来た日のことだけど・・・あの日の夜、どうしてこんなに可愛い奥さんがいるのに・・・って一樹君が言ったんだけど、結局覚えてないってことになったでしょう?」


「・・・うん・・・」


「あれ、本当は覚えてるんでしょう?」


明希がそう言うと、一樹は困ったような表情でうつむいた。


「本当のこと教えて欲しいの」と続けて明希が言うと一樹が顔を上げてから「・・・本当のこと言うと・・・覚えてるよ・・・」と小さな声で言った。


「ツアーの時の美輪ちゃんって誰?」


そう聞いたら驚いたように一樹が顔を上げた。


「明希さん、知ってたの?」


「・・・まあ・・・」


知らなかったけれどそう言った。


「なんでも昔天城さんがデビューした頃からのファンらしくて・・・」


「そう・・・ツアーの時追いかけてきたって・・・?」


「・・・追いかけてきたっていうより、元々○○ので家業の旅館を手伝っている人みたいで・・・」


「そう・・・。利成とはずっと繋がってたの?」


「さあ・・・そこまでは・・・」


「そう・・・」


「明希さん、天城さんは明希さんが一番だと思うよ」と慰めようとしてくれているのか一樹が言った。


「うん・・・」と明希は一樹の顔を見た。でもきっと自分はひどい顔をしているだろう。もう何もかもが信じられなくなった。すっかり闇の中で迷子になったのだ。そこには、翔太も一樹もいない・・・そして、父も兄も・・・誰もいない。


「明希さん・・・」


一樹が切なそうな表情で明希を見た。


「あ・・・ごめんなさい。呼んじゃって・・・。もう戻っていいよ」と明希は言った。


「明希さん、大丈夫?」


一樹の言葉で不意に明希はあの小学生の頃に、男子にいじめられて転んだ明希に利成が言ったのを思い出した。


── 大丈夫?


心があの頃に戻り、その時の記憶がフラッシュバックした。初めて付き合った男子から無理矢理されたこと・・・翔太が自分を捨てたこと・・・そして今・・・優しい利成はすべて明希のフィルターから見た幻だったのだ。


「明希さん?」と一樹の声が聞こえてハッと我に返った。


大丈夫と言いたかった。私は大丈夫・・・。幼い頃からそう言ってきた。それで今日まで大丈夫だったじゃないか?


でも明希の目から大粒の涙がこぼれた。もうここにいるだけで壊れそうだった。身体が震えてきた。思わず明希は叫んでいた。


「大丈夫なんかじゃないよ!」


そう言って床に突っ伏して泣いた。


「明希さん」と一樹の声が聞こえて背中に一樹の手の温もりを感じた。


明希は利成と言う心の拠り所を失って心がバラバラになった気がした。ガタガタと身体が震えて叫びたい思いを必死でこらえた。


二度の死産での赤ん坊を急に思い出した。そのこともずっと心の奥底に閉じ込めていたのだ。その時の赤ん坊が明希と一緒に泣いている・・・。明希は耳をふさいだ。


「・・・私じゃ・・・私じゃダメなんだね・・・」と明希は呟いた。


「私じゃ・・・子供の産めなかった私じゃ・・・」と言うと「明希さん」と一樹が抱きしめてきた。


「そんなことないから」と強く抱きしめられる。


「私じゃダメなのよ・・・弱い私じゃ・・・我慢できない私じゃ・・・みんな私を捨てていくもの・・・」


「明希さん、そんなことないよ。明希さんは素敵だから」と一樹が更に抱きしめてくる。


「素敵なんかじゃない・・・みんな・・・いなくなる・・・」


明希はまったく覚えていない亡くなった母のことを思った。


(お母さん・・・)


生きていたらもっと違ったのだろうか?微かに記憶にある母の葬儀の場面が脳裏に浮かんだ。


一樹がもうただ黙って明希を抱きしめていた。明希はただひたすら今日までの出来事が走馬灯のように思い出されて寂しくて寒かった。


「明希さん」と一樹の声が聞こえた時、いきなり寝室のドアが開いた。「あ・・・」と一樹の声が聞こえた。


明希は顔を上げた。利成が驚いた顔でこっちを見ていた。明希は咄嗟に一樹の後ろに隠れた。利成がまったく違う人に見えて怖くてたまらなかった。


「怖い・・・」と思わず言っていた。


「一樹、今すぐ帰れ」と利成の声が聞こえた。明希は一樹にしがみついて言った。


「怖い・・・帰らないで」


「明希さん」と一樹の声が聞こえた。


「天城さん、明希さんのこともっと考えてあげて」と一樹が言った。


「・・・いいから帰れ」と利成が言った。


「天城さん、明希さんは・・・」と一樹が言いかけると利成が怒鳴った。


「いいから帰れ!」


その声を聞いて明希はビクッと身体が震えた。「一樹君、帰らないで」と一樹の背中にしがみついた。


「明希さん、帰るから・・・またね」と一樹の声が聞こえて、明希は恐怖でいっぱいになって一樹にしがみついて叫んだ。


「帰らないで!!」


「明希!!」と利成が怒鳴った。それから無理矢理一樹の背中から利成に引きはがされた。


「やだ!」と明希が抵抗すると「一樹、早く帰れ!」と利成がまた怒鳴った。


一樹が切なそうな表情のまま寝室から出て行った。


「やだ!一樹君、帰らないで!!」と明希は利成の腕から逃れようともがいた。


(怖い・・・)


「怖い・・・」と明希は必死でもがいた。


「明希!!」と利成の声が響いて抱きしめられた。それでも明希の恐怖心は止まらなかった。


「離して!!汚い!!」と明希が叫ぶと利成の腕が急に緩んだ。明希が利成の顔を見ると、物凄く驚いた顔の利成が明希を見ていた。


「汚い?」と利成が驚いた表情のまま言う。そんな表情の利成を初めてみた明希はようやく我に返った。


「・・・汚いよ・・・」と明希は呟いた。


「俺が?どういうこと?」


「汚いってそのままの意味だよ」


「答えになってないだろ?」


「汚いから汚いって言った」


利成が拳を握りしめたのが見えた。いつも冷静な利成のそんな姿を明希は初めて見た。


「説明しな。一樹がここにいたこと、明希を抱きしめていたこと、それと今の”汚い”の意味を!」


明希は顔を上げた。冷静じゃない利成を前に明希は急に不思議な気持ちになった。ここにいるのは誰だろう?また違う利成なのだ・・・。


「説明って・・・?」


「まず何で一樹がここにいた?」


「・・・私が呼んだから」


「呼んだの?明希が?何で?」


「聞きたいことがあったの」


「何を?」


「利成のことで・・・」


そう言ったら利成が黙った。明希が利成を見つめると利成が口を開いた。


「俺の何?」


「・・・利成が嘘を言ってたこと・・・聞きたかったの」


「・・・嘘?」


「嘘だよ。一樹君が初めてここに来た時・・・」


「一樹が初めて来た時って・・・」と利成が思い出すように考えている。


「一樹が言ったこと?結局何言ったか覚えてないって言ったこと?」


「そう」


「それが何?」


「・・・ほんとは覚えてたって・・・」


「・・・・・・」


「そのことを聞きたかったからここに呼んだの」


「それで?一樹は何だって?」


明希は利成を見ると、利成はひどく冷めたような表情をしていた。どうやらすっかり冷静さを取り戻したようだった。明希はそんな利成を前にまた口をつぐんだ。何を言っても何の解決にもならないどころか、利成との関係にもっとひびを入れるだけだと感じた。


黙っていればよかったのだ。何の詮索もせずにただ黙っていれば・・・。それが我慢だって構わない。そうすれば自分さえ我慢すれば、すべてはうまくいったのだ。今までも全部そうだったではないか・・・。なのに何故最近はこうして心が乱れるのだろう・・・。


「明希?」


黙っていると利成が言った。


「言いなよ。本当のこと」


「・・・・・・」


明希はうつむいたまま何も言えずにいた。もし言えば、すべてが崩壊する気がした。舞台裏が見えてしまう。それを見られた利成はどうするだろう?自分を捨てるだろうか?


(捨てられた私は何処に行くのだろう・・・)


何だか自分の価値など何もないような気がした。明希の脳裏に急に翔太の顔が浮かんだ。


(翔太・・・)


でも翔太も違う。私の身体が欲しいだけ・・・あの時の思いを晴らしたいだけ・・・それは私も同じなのだ。


「明希、大丈夫だから言ってごらん」と利成の声が優しくなった。


明希は顔を上げて利成を見た。優しい目は子供の頃の利成と重なった。


── 明希ちゃん。


不意に子供の頃の利成の声が明希の頭の中に響いた。


(ああ、どうやったらあの頃に戻れるのだろう・・・子供になれるのだろう・・・汚いのは私だ・・・)と思った。


自分を愛しているという証拠ばかり欲しがって利成の隠していた心の闇を暴くのだ。私に見せないように心の奥深くに沈めていた闇をわざわざ出せと迫った挙句の果て、こうして「汚い」などと相手を罵るのだ。


(何て汚い私だろう・・・)


もう生きている価値すらないような気がした。


(死のう・・・)


子供のところに行こう・・・。それがきっと私にとって一番の道だ。私の子供も泣いている。お母さんがこんなんできっと悲しくて泣いている。


(行かなきゃ・・・赤ちゃんのところに・・・)


明希は立ち上がった。ふらふらと寝室のドアに向かった。


「明希?」と後ろから利成の声が聞こえた。


明希はその声を無視して寝室から出てまっすぐキッチンに向かった。一樹も野村も帰ったようだった。少し散らかったキッチンに立って迷わずナイフを取り出した。


「明希?!!」と利成の声が聞こえると同時に明希は自分の腕を切りつけた。腕から血が流れ出てくる。


「明希!!バカ!!」とナイフを取り上げられた。利成が慌てて咄嗟に目の前に会ったキッチンペーパーを取って傷口に当てた。けれど血はどんどんと吹き出してくる。


「ごめん・・・」と明希は言った。自分がすべて悪いと思った。生まれて来たことさえ・・・。


利成は更にキッチンペーパーを取って傷口に当ててから「ちょっと押さえてて!」と言ってキッチンの棚に積んであったタオルを持ってきて明希の腕を縛り上げた。


「明希・・・俺のせいなんだから謝らないで」と利成が言った。


「私のせい・・・赤ちゃんも全部・・・」


腕からどんどん血が流れ出てくる。


「違うから!」と利成が怒鳴った。


「もういいの。ごめんね」


どくどくと流れ出てくる血を見ているうちに気が遠のいてきた。利成が「だいぶ深くいったかもしれない」と言った。


そうなのだろうか?だとしても、引きずり出された赤ん坊の方がもっとずっと痛いよ・・・。


「救急車呼ぶよ」と利成が言って明希は急に我に返った。


「だ、ダメ!」と叫んだ。「利成がまた言われちゃう・・・私のせいで・・・」


「俺のことはどうでもいいから!」と利成が立ち上がってリビングに行った。


「じゃ、どこか病院に連れて行って。救急車はやめて」


明希は叫んだ。この期に及んでまだこんな気持ちがあるなんてと思いながら。


利成が明希を見てから「わかった。救急病院行こう」と言った。


利成が救急病院を調べて電話をしているようだった。それから身支度を済ませてすぐに車の鍵を持った利成がもう一度明希のそばまで来る。明希の腕からはまだ血が流れていたが意識はしっかりと保っていた。


「立てる?」と聞かれた。傷口にはさっきタオルをグルグルと何重かに利成が巻いてくれていた。けれどそのタオルにももう血が滲んできていた。


立ち上がろうとしてら目眩が起きた。利成に支えられながら車まで何とか歩いた。


 


それから病院について治療を受けた。「応急処置だから後で必ず病院に行くように」と言われた。マンションに戻って部屋に入るとすっかり明希は我に返っていて、キッチンに残された自分の血の跡を見つめた。


(何てバカしちゃったんだろう・・・)


もしこのことがわかってまた週刊誌に書かれたら・・・と深い後悔の思いが湧いた。何より利成に悪いと思った。


「明希、薬貰ったの飲んで」とキッチンに立っていると利成に言われた。抗生剤と痛み止めが出されていた。


「ごめんなさい・・・」と明希は言った。謝るしか思いつかなかった。


「・・・いいから薬飲んで」と利成がキッチンまで来た。


明希はコップに水を注いでもらった薬を飲んだ。それからリビングに戻ると、ソファに座っている利成が「おいで」と言った。


明希は素直に利成の隣に座った。


「痛む?」と聞かれる。「少し」と明希は答えた。利成が明希の肩に手を置いてから明希を引き寄せた。


「ごめんね」と利成が言った。


「利成のせいじゃないから」と明希は答えた。全部何もかも自分のせいなのだ。


「俺のせいだよ」


「違うよ」


「・・・一樹から聞いたんだろ?」


「違う」と明希は答えた。本当に腕を切った理由はそれとは違うのだ。


「寝てないからね。その子とは」と利成がいきなり言った。そして「だから言わなかったんだよ」と続けた。


「そう・・・でも、違うの」


「どう違うの?」


「私が汚いのよ」


「・・・・・・」


「利成じゃないの。私が汚いって気づいたの。だから・・・」


「明希は汚くないよ」


「ううん、汚いのよ。いつのまにか汚れてた。それが許せなかった・・・」


「・・・・・・」


「信じるって言葉にすがってたの。裏側の文字は無理矢理見ないようにして・・・。そうすることで自分は綺麗なんだと思ってた。例え翔太と会っていても、身体の関係じゃない・・・だから潔癖だと思ってた。でも、ドロドロとした思いがどんどん溢れてきて、利成を責めたくて仕方がなくなったの・・・」


「・・・・・・」


「どんなに”信じる”って思っても、どんなに”許そう”と思っても、どんどん湧いてくるの・・・それで一樹君に「大丈夫?」って聞かれた時に「大丈夫じゃない」て叫んでて・・・そこから何だかわからなくなって・・・」


「・・・・・・」


「だから・・・利成も許せない私を許さないで・・・」


「明希、よーく考えてみて。明希をそこまで追い込んだのは俺なんだよ?」


「・・・・・・」


「なのに明希はその思いを俺にぶつけるんじゃなく自分に向けているんだよ?だから今日のように自分を傷つけるほどになったんだよ?わかる?悪いのは明希じゃないって」


「・・・わからない・・・私がダメだから利成が他の人のところにいくんだし・・・子供もできない私なんだもの・・・仕方がないって思うし・・・」


「明希・・・」と利成が明希を抱きしめた。


「だからもういいの。別れて」


明希は本気でそう思った。この先は一人で生きていこうと本気で思った。


「・・・・・・」


利成が明希を抱きしめながら黙っていた。しばらくそうしていた利成が明希を抱きしめていた腕を緩めて明希の顔を見つめた。


明希はもう覚悟はできていた。腕まで切りつけて更に迷惑をかけた。翔太とも一樹とももう会わない。一人でひっそり生きていこう。そうすれば誰も傷つけずにすむ・・・そして誰も愛さずにすむのだ。


「約束するよ」といきなり利成が言った。


(約束?)と明希は不思議な気持ちで利成を見つめた。利成が「約束」などという言葉を使ったのは初めてだった。それにそれはまったく意味をなさないと明希も知っていたし、もちろん利成もわかっている。


「意味ないからと言わないで、意味を持たすのも持たさないのも自分次第だからね」


利成が微笑んで明希の目を見つめてきた。


「俺は明希とは別れない、だから約束する」


「どういうこと?」と明希は利成を見つめた。ここまできてもう自分には別れる選択肢しかなかった。


「明希が自分に気づくまで、約束するよ。明希だけだって」


「自分に気づくまでって?」


「明希は自分ですべて背負ってここから去ろうとしてるんだよ。「痛み」こそがこの世界の本質だと信じて」


「・・・・・・」


「すべての扉を閉じたら誰も傷つけないし自分も傷つかない・・・それはね、言うならば「目を閉じて耳を塞ぐ」ってことなんだよ?」


「・・・よくわからない・・・本当にもう一人でいいの」


「明希の世界にはね、最初から明希一人しかいないんだよ。だから憎しみさえも自分に向かっていく・・・」


「・・・・・・」


「ずっとこの世界の被害者だと思って生きてきた・・・そんなストーリーの中から出たくない?」


「言ってる意味がわからない」


「そうか」と利成が微笑んでから言った。


「”約束”するよ。明希がそこから出てくるまで俺は絶対に明希以外としない」


(え?)驚いて利成の顔を見た。「絶対」とか「約束」とか利成がぞれこそ絶対に今まで使わなかった言葉だ。


「絶対?」


「そう絶対」


「そんなの・・・無理・・・」


「ハハ・・・何で?」


「だって・・・」


「明希は信じなくていい。俺が決めたことだから・・・」


「・・・・・・」


「俺が俺に約束したんだよ。もう一回言うよ。明希は信じなくていい。今からは絶対明希以外とはしない」


「・・・・・・」


「明希がそこから出てくるまでは「約束」する」


「そこから出てくるって?」


「明希が自分に気づけばね、俺が何かしたらきっとすぐにバレて捨てられるのは俺なんだよ」


「まったく意味不明だよ」と明希は利成を見つめた。


「そうか・・・」と利成が微笑んでから明希を再び抱きしめた。


「明希・・・」と背中をポンポンと叩いてくる利成。まったく意味がわからない。ほんとにいいのに自由にやってと明希は思った。


「ごめんね・・・追い詰めちゃったね」と明希の背中を優しく叩きながら利成がそう言った。


 


その日の仕事を少しずらして利成が病院に連れて行ってくれた。精密検査をしたが結果は問題なしだった。あんなに血が流れてやっぱり少しあせってしまったのだ。


帰りの車の中で明希は運転する利成の横顔をチラッとみた。


──  ”約束”するよ。明希がそこから出てくるまで俺は絶対に明希以外としない ・・・。


あれは一体・・・どういう意味なのだろうとまた考える。”そこ”とはどこ?


「明希、何かあったら連絡してよ」と利成が言った。


「うん、でももう大丈夫だよ」


「ならいいけど」


「でも・・・利成は・・・いいの?」


「何が?」


「私、本当にいいんだよ。利成はまだこれから未来があるじゃない?」と明希が言ったら利成が「アハハ」と声を立てて笑った。それから「そうだね、明希とここにいる”未来”がね」と言った。


「・・・観念的なことじゃなくて・・・子供のことも・・・」


「子供はね、いたらいたでいないならいないでいいんだよ」


「・・・でも・・・」


「明希?”でも”はなし。少しずつ減らそう」


「ん・・・」と不思議な気持ちで利成を見た。


 


マンションの前に着いたので明希はシートベルトを外した。


「じゃあ、今日はあんまり無理しないようにね」


「うん」


「今度の休みこそ家を見に行こう」


「え?」と思う。もう引っ越しの話は何んとなく立ち消えたのかと思っていたのだ。


「やっぱりね、早く地上に降りないとね」と利成が笑顔を作った。


「ん・・・」と車から降りて利成に手を振った。


 


(まったくわけがわからん・・・)と明希はエレベーターに乗った。利成は本当に不思議だ。


次の週、一体どこからわかったのか<天城利成の妻、自殺未遂>の記事が週刊誌に載った。


(あー・・・サイアク)とまた利成のことや自分が思いっきり悪く書かれている記事を見つめた。おかげで一樹や翔太から心配のメールが来た。


だけど今回は自分のせいなのだ。そのせいで利成にも迷惑をかけてしまった。その日帰宅した利成にその記事のことをいうと、利成はいつものごとく平然としていた。


「名前が売れるっていうのはね、こういうことだからね。これは天城利成のことで俺のことではないんだよ」とまたもや意味不明なことを利成が言った。


「でも、ごめんね。私のせいで」


「明希、いいこと教えてあげようか?」とまたいつもの”いいこと”が増える。


「みんなそれぞれ思い思いのストーリーというフィルターからこの記事を見ていて、腹を空かせた動物みたいにスキャンダラスな獲物を探してるんだよ。食いついてバラバラにした後はそこから勝手に去っていく。でも、実はそこには何もないんだ」


「何もない?」


「そうだよ、何もない。勝手なイメージの中で思い思いに描いたストーリーが、あたかもあるかのように見えてるだけでね」


「んー・・・」


(またもや難しい・・・)


「つまり”気にするな”ってことだよ」とまたいつもの表情に戻る利成。あー、利成ってやっぱりすごいのかも?と明希は思う。


何度もつまずきながらもここまで来て今も利成といる理由は何だろう?


わからないけどもう(好きだから)でいいんじゃないかな・・・。理由なき世界に理由をつける・・・。それがこの世界・・・。

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