その後:夫・アレクシス二度目の危機
前回ほどパンツとは言っていませんが、やっぱりパンツが出てきます。
見合いのとき、リネットは落ち着いたオレンジ色のドレスを着ていた――。
窓際に置かれた花瓶に活けられた、オレンジ色の薔薇の花を眺めながら、初めて言葉を交わした日のことを思い出す。
そのときの印象からか、彼女に似合う花を求めたとき、このオレンジ色の薔薇が目に入った。
華やかでありながら、落ち着きを兼ね備えた、リネットによく似合う花。
贈ってから少したつが、まだ花は綺麗に咲いている。
下を向いていたせいか落ちてきた眼鏡を指先で直しながら、オレンジ色の薔薇をもう一度見つめる。
先日、私のパンツで彼女を翻弄させてしまったお詫びと、結婚を申し込むために捧げた花だ。
妻に結婚を申し込むなど、意味が分からないことだろう。
リネットも困惑した様子で「もう結婚していますが」と言っていた。
驚いただろうに冷静な判断ができる素晴らしい女性だ。
……つまりのところ、返事は貰っていない。
いや、だがリネットはこんな私に愛想を尽かさず、今も結婚生活を続けてくれているのだから、それで良いではないか。
そう言って自分を納得させる。
パンツに振り回されるなんてことも、さすがに二度はないだろうし。
今日はリネットも仕事が休みなので、共に紅茶でも飲みながらのんびりと過ごそう。
そう思い、茶葉の用意をしようと台所へ向かおうとしたとき、廊下の先から声が聞こえた。
「あらあらまぁまぁ」
この声は家政婦のカミラだ。
「カミラ、どうかしたのか?」
「旦那様。いえ、干していた洗濯物を取り込んだのですが、一度に持っていこうと思って籠に詰め過ぎて、重たくなってしまったのでございます」
そう言ったカミラの側には、言葉通り洗濯物が山積みになった籠が置かれていた。
庭からここまでは自分で運んだようだが、確かに重たそうだ。
「私が運ぼう」
「いえいえ、旦那様にそんなこと……」
「無理をして転んでは危ないだろう。どこへ運べば良いか?」
「申し訳ございません。それでは、家事室の方へお願いしてよろしいですか?」
「ああ。分かった」
カミラは他の仕事があるようで、こちらに頭を下げると忙しそうに廊下の向こうへ去っていった。
「さて」
洗濯物の入った籠を持ち上げる。
その拍子に、一番上にあったものがひらりと舞い落ちた。
「しまった……――」
慌てて手を伸ばし、床に落ちる前に無事につかみとる。
手伝いを申し出ておきながら危うく洗濯物を増やしてしまうところだった。
しかし、慌ててつかんだため強く握りしめてしまったが、皺になっていないか心配だ。
羽のように軽く、レースもついているようだから、これはハンカチ……――ではない。
「……」
自分の手の中にあるものが何かを理解した瞬間、背中に汗が流れる。
前にもこんなことがあったが、あのときとは比にならないくらい滝のような汗だ。
まずい。
非常にまずい。
これは……あれではないか、きっとあれだ。
二度は振り回されないだろうと思っていたのに、こんなにも短期間に遭遇するなど、私は呪われているのだろうか。
私のものが紛れるくらいは問題ないが、いや大分問題はあるが、それでもまだ問題ない問題の範囲だとしても、彼女のパ……いやこれ以上言ってはいけない、セクハラになってしまう。
とにかく、彼女の物に私が触れることはまずい。
いつまでも握りしめていてはいけないので、ひとまず元の場所に戻そう。
直視しないよう必死に視線をそらしながら、洗濯籠の中へとそっと戻し……。
「アレクシス様? 廊下でしゃがみ込まれて、ご気分がすぐれないのですか?」
「リリリリネット!」
今、一番聞きたくなかった声に、驚きのあまり反射的に背が伸びる。
運が悪いことに、ちょうどあれを洗濯物の上に置いたところだった。
そのせいで、むしろ私が洗濯物の中からリネットのあれを盗み取ろうと手を伸ばしているようにしか見えない状況となってしまった。
先ほどから止まらない汗が流れ続けている。
「それは……私のパンツですね」
リネットの言葉にとうとう汗が爆発した。
「ち、違うんだ……! 洗濯籠から落ちそうになったため、とっさにつかんだだけで、決してあなたのパ……っを盗もうとしていたわけではないんだ……!」
思わず言葉にしてしまいそうになり、慌てて飲み込む。
「つかんだだけだから見てはいない……いや、見ていなければ良いと思っているわけではないし、あなたのパ……っを見たくないということではない! すまない、今の発言は忘れて欲しい!」
普段はあまり喋らない方と周囲から言われ、自分自身でもそう思っていたが、口から無限に言葉が出てくる。
だが、喋れば喋るほど何を言っているか分からないし、言い訳のようにしか聞こえない言葉ばかりだ。
それを分かっていても自分の口は止まらない。
「そもそも私が触れたものなど嫌だろうから、新しいものを買って……違うんだ、決してあなたにプレゼントしたいという意味ではなく……っ」
書類上の夫からあれをプレゼントされるなど、それは赤の他人からプレゼントされることと同類ではないだろうか。
変態だ、非常にまずい問題発言だった。
誰かこの問題発言をする口を止めて欲しい。
「アレクシス様、あまり喋らない方がよろしいかと……」
「……はい」
リネットはこんなときでも落ち着いており、本当に素晴らしい。
私は動揺のあまり余計なことまでべらべらと喋っていると言うのに、彼女が私のパンツを返しに来てくれたときは、無駄がなく自然な所作で遂行していた。
やはり将来は素晴らしい侍女長になるはずだ。
「……この間、私の洗濯物にアレクシス様のものが混ざっていたとき、つい弟たちのものと同じように考えてしまい、そのまま返してしまって申し訳ございませんでした。配慮が足りていませんでした」
「いや、おそらくあなたの弟たちが履いている物と、私が履いている物の形は同じだろうから、間違ってはいない」
弟たち。
そうか、リネットにとっては私のパンツと弟たちのパンツは同じだったのか。
パンツはパンツなのだから、同じで間違っていない。
弟は家族なのだから、つまり書類上の夫でしかない私も家族ということで、間違っていない。
家族か、素晴らしい響きだ。
「……いいえ、アレクシス様は弟ではないですもの」
内心ちょっと切なくなっていたが、リネットが何か言った気がする。
思わず彼女を見ると、いつもは背筋をまっすぐに伸ばしてこちらを見ている彼女が、珍しく少し視線をそらして俯き加減になっていた。
「……私も、責任を取ってもよろしいですか?」
リネットの白い頬がほんのりと赤らんでいる。
「花束は、用意していませんが……」
細い手がこちらへと差し出された。
その瞬間、私は何を考える間もなく、気づけばその手を取って引き寄せていた。
「きゃっ……!」
腕の中でリネットが可愛らしい悲鳴を上げる。
「あなたを抱きしめたくなった。……嫌だっただろうか?」
「……嫌ではございません。私も、アレクシス様を抱きしめたいです」
その言葉と共に、背中に細い手が回される。
そう言えば背中の汗は大丈夫だろうかと不安が頭をよぎったが、リネットは何も言わなかったので、多分大丈夫だと思う、そう思いたい。
彼女を抱きしめる腕に、少し力を込める。
「リネット。私にとってあなたは形だけの妻とは思えないほど、とても大切な存在になってしまった。もちろん侍女長になりたいという目標も尊重するので、どうか本当の夫婦になって欲しい」
「はい、喜んで。アレクシス様とでしたら、楽しく過ごせそうですわ」
自分は楽しいと言われる性格ではないと思うが、リネットがそう言うのならばそうなのだろう。
パンツに狼狽えている姿が楽しいということではないと思いたい。
けれど、リネットが楽しければそれでも良い気がする。
楽しそうに笑う彼女の唇に軽く触れて、二人で笑い合った。
廊下の向こうで、カミラが「あらあらまぁまぁ」と微笑んでいるのが見えた。
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