後編:夫・アレクシス
アレクシス視点です。
「ひえぇ……。手元も見ないで書類を書いていますよ……」
「宰相閣下が働かせすぎるから、壊れてしまったんですよ」
「いや……確かにアレクシスを頼りすぎてはいたが……しかし……」
背後がやたらとうるさい気がするが、目の前の仕事を片付けるべく一心不乱で手を動かした。
仕事をしている方が、余計なことを考えずにすむ気がするからだ。
余計なこと……それを思い出すと、手が止まりそうになった。
というか、手が止まった。
その瞬間に、あの日のことが思い出される――。
***
それは数日前、会議を終えて帰宅した夜のこと。
「お休みなさいませ」
「ああ、お休み」
自室へと戻っていく彼女を見届けながら、私は玄関ホールでしばらく固まっていた。
手には自分のパンツがある。
玄関ホールでパンツを手にしているなど、この状況が分からない。
いや、どうしてこうなったのかは先ほど聞いた。
妻のリネットの洗濯物の中に、私のパンツが混ざっていたため、彼女はそれを返しに来てくれたのだ。
妻といっても、私とリネットは本当の夫婦ではない。
宰相補佐官の仕事は非常にやりがいがあるため仕事に専念したかったが、実家の侯爵家からは結婚を急かされていた。
私は三男なので、別に結婚しなくとも構わないはずなのに。
そんな中、勝手に用意された見合いの場にいたのが、城で侍女として働くリネットだった。
服装が侍女服からドレスに変わってはいたが、一度見た顔は忘れないので間違いない。
城の中で彼女とは直接言葉を交わしたことはなかったが、常に姿勢を正して仕事をする姿は印象が良かった。
二人で庭園を散歩しながら話をすると、彼女は侍女長を目指しているらしく、結婚に乗り気でないことを知った。
ならばと、偽装結婚を持ち掛けた。
この見合いを断ったところで、また次の見合いを用意されるのはお互いに分かっていた。
私も彼女も仕事に集中したい。
それならばいっそのこと、形だけの結婚をしてしまえばその煩わしさから解放されるだろう。
そう説明すれば、彼女は目を輝かせて了承してくれた。
これまで、宰相補佐官としての地位を目当てに女性から輝いた目を向けられたことはあったが、彼女のそれは他の誰とも違っていて非常に新鮮だった。
そんな風に始まった偽装結婚なので、彼女と夫婦らしいことは何一つなかった。
なのに、先ほど彼女は私のパンツを持ってきた。
本当の夫婦ではないとはいえ、同じ屋根の下に暮らしているのだから、ときには私物が混ざる事故もあるだろうし、家政婦のカミラもときにはこんなミスもするだろうから仕方がない。
彼女はそれに対して怒るわけでもなく、わざわざ持ち主のところに返しにきてくれた。
手渡すまでそれが何か気にさせることもなく、ごく自然に相手の手の中に移す手腕は、ときに王族のプライベートに関わりながらも自分の存在を主張しないという、侍女の鑑のような素晴らしさだ。
侍女長を目指しているといっていたが、彼女ならばきっとなれるはずだ。
人のパンツを丁寧に持ってきてくれた彼女に対して心からそう思った、が。
「――え、彼女が私のパンツを手にしたのか?」
思わず誰もいない玄関ホールで独り言がこぼれた。
誰もいないのでもちろん返事はない。
だが心の中で自分の声が返ってきた。
手にしていた。
丁寧に畳んだパンツを手に持って、持ち主に返してくれた。
階段の上からひらっと投げられたわけではなく。
頭の中で整理した瞬間、背中を大量の汗が流れ始めた。
宰相補佐官という職につき、冷静沈着だという評価を貰っているが、今だかつてないほど背中に汗をかいている。
背中なので見えないが、びしょ濡れ状態ではないだろうか。
その上、手もガタガタと震えて動揺している。
その手をそっと開いて出てきたのは、自分のパンツだ。
リネットが持ってきてくれた。
渡された瞬間、思わず目のやり場に困って握りしめたものだ。
本当の夫婦でもないのにパンツを手にさせるなど、これはあってはならないことではないだろうか。
もちろん洗濯後のものだが、そういう問題ではないはずだ。
赤の他人の男のパンツなど手にしたくないだろう。
これがもしも職場ならば、人事部に通報される案件だ。
職場でパンツが混ざることなどないはずだが。
動揺のせいか、何だか思考が良く分からなくなってきた。
ともかく、彼女がパンツを手渡してくれたことだけは、ゆるぎない事実だ。
背中にだらだらと汗をかきながら、私は日付が変わるまで玄関ホールで立ち尽くしていた。
***
「――やはりこれは大問題だ……!」
止まっていた手を動かし急いで仕事を終えた。
「アレクシス先輩が壊れた!」
「やっぱり宰相閣下がこき使ったせいですよ!」
「すまないアレクシス、今日はもう帰っていいぞ!」
後ろで騒いでいた同僚や宰相閣下になぜか追いやられて、急ぎ家路へとつく。
この数日、リネットの様子は特に変わらなかった。
いつもと同じように、朝食のときには柔らかな笑みで挨拶をしてくれて、城の中で偶然出会っても決してプライベートを混同することなく、けれども家に帰れば他愛のない話を交わしながらときに夕食を共にした。
だが、それは本心からだっただろうか。
本当は、形だけの夫のパンツを見て嫌気がさしていないだろうか。
互いの希望が一致しただけの偽装結婚なので、相手のプライバシーを侵害しないという約束だったのに、プライバシー中のプライバシーみたいなパンツを手にさせるなど。
もし、これが契約違反だということで、偽装結婚解消となれば――……。
「……っ耐えられない……!」
家に向かう馬車の中で思わず叫んだ。
幸いにも車輪の音がうるさいので、私の叫び声は御者には聞こえていないはずだ。
リネットとの結婚生活は非常に心地よかった。
それは、きっと偽装結婚という理由だけでないことには、薄々と気付いていた。
「リネット……!」
家に着き、玄関を開けて彼女の姿が見えた瞬間、ひどく安堵した。
私がいない間に置手紙をされて出ていかれていたらどうしようかと思っていた。
「アレクシス様? 今日は早いお戻りですね。あら、そんなに汗をかいてどうされたので――」
「すまなかった!!」
彼女の言葉を遮って謝罪をする。
リネットは大きな瞳を見開いていた。
「そ、その……パ、パンツの件だ……」
「え? ああ」
今の「ああ」は一体どういう意味だろうか。
気づくのが遅いということだろうか。
それとも不愉快だったということだろうか。
「今後は二度とあのようなことがないよう、万全の注意を払う」
「大丈夫だと思いますよ。カミラさんも「あらあらまぁまぁ、すみませんねぇ」と言っていましたし」
あらあらまぁまぁはカミラの口癖で、リネットは非常に再現度が高かった。
だが、この先どれだけ注意を払うとしても、過去のことはきちんと詫び、そして言わなければならない。
「あのような不埒な真似をしてしまい、本当に申し訳なかった……!」
「不埒?」
帰る途中に購入したものを彼女に差し出す。
「責任を取らせて欲しい。どうか私と結婚してください!」
「もう結婚していますが……」
彼女によく似合うオレンジ色の薔薇の花束を捧げると、その奥から帰るところだったらしいカミラが「あらあらまぁまぁ」と黄色い声を上げた。
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