ep043.『ネクストステージ』
薺が淹れてくれたカフェインレスのコーヒーを一口含み、鼻腔を抜ける香りを楽しみながら一息つく。その余韻に浸り、先輩という心地いい言葉を反芻しながらしばしの静寂を満喫していると、両手の中にあるカップを見つめていた後輩がおずおずと口を開いた。
「私は……先輩が羨ましいです」
彼女の言葉の意味がいまいち掴めない。
一体美雪のどこに羨むような要素があるというのだろうか。
この雰囲気で身長だとか気の抜けるような理由であるはずがない。考えられるのは多分、宗のことか憑神ゲームのことだろうか。
「どうして?」
聞き返しながらも、美雪は美雪の方で先の言葉の意味を考えてみる。
宗は自身の妹を代行者に並ぶ陰陽師と称していた。
しかし、彼女は代行者と違い恩恵を行使することはできない。逆に、恩恵が無いにもかかわらず『探偵』の目をも掻い潜ってこれだけのバックアップを行っているということになる。
それだけでも働きとしては十分で、総合的に判断するなら憑神ゲームへの影響力は美雪と同等以上だろう。宗についての事柄に至っては部外者の美雪なんかと比べるまでもない。
やはり、どう考えてみても美雪が薺以上に持ち得ているものなどない。そんな風に思えるのだが。
「私は、憑神になることができませんでした。だから、兄と共に戦える先輩が羨ましいんです」
彼女は憑神でも解魂衆でもない。初めて薺と出会ったときに宗からそう聞いた。
では何故こんなにも憑神ゲームについて詳しいのか。それは多分、彼女が陰陽師だからだ。
恐らく陰陽師は徒人でありながらゲームに介入する術があるのだろう。
それでも代行者たちが憑代を手にしているのは、そうしなければならない理由があるから。
美雪が考えつくのは恐らく願いや魂に関する事というくらいで、もしそれが壁となっているなら歯痒い思いをするのもわかる気がする。
「私も戦えてるかわからないけどね」
宗はああいっていたが、今の美雪では彼の力になれているとは口が裂けてもいえない。もちろん、このままただ彼に願いを叶えてもらうだけの寄生虫になるつもりは毛頭ないのだが、歯がゆいことに、そこまでの道のりはとても遠い。
「兄は本来とても強く優しい人でした」
「今でも強いし、根は優しい人だと思うけど……?」
少なくとも強さは疑いようがない。力は当然として、考え方、行動、実行、判断、どれをとっても周りとは一線を画している。
人となりについては、正直、普段の彼は口も悪いしデリカシーもない。しかし、関係的にも憑神ゲームの特色的にも本来彼にそんなことを求めるのはお門違いなのだ。にもかかわらず、足りない美雪を必要以上にフォローしてくれるのは、それこそ彼の優しさだろう。
それを肌身で感じているからこそ薺の言っていることがわからない。
「昔はもっと優しかったんです……人を傷つけることなんて絶対にしない人で、弱きを助け、強きを救う、そんな人でした」
確かにそれは何というか、想像がつかない。
美雪の見る宗は冷静さと人情を上手に使いこなす、いわゆる大人のように見えた。
人を傷付けないだとか、弱きを助けるなんて絵空事を言う人とは一番遠いところにいるような気がする。
「これは我儘なので、聞き流してもらって構いません」
「ううん。聞かせて?」
そう伝えると、少女は美雪へと向き直り真っ直ぐのその目を見つめた。
「どうか、どうか兄をよろしくお願いいたします。可能な限りで大丈夫です。代わりに私は生涯をかけて貴女の為に力を尽くすとお約束いたします」
頭を下げた少女の声は震えてもいなければ、涙に濡れているわけでもない。
それでも、その訴えに兄への想いが溢れんばかり籠っているのが伝わってくる。しかし、その静かな懇願に今の美雪は応えることができない。
だから、美雪は少女の肩にそっと手を添え顔を上げさせた。
「約束なんて必要ないよ」
頭を下げてもらう理由も、少女の願いを受け止めるだけの器もない美雪に約束は必要ない。もとより、美雪にできる事はただ速く走り、理想の未来に向けて高く飛び上がることだけだ。
「誰に頼まれなくてもそのつもりだから。でも私ひとりじゃ宗の重荷は背負えないと思うの。だからさ? 二人で頑張ろう」
「……ありがとうございます、先輩」
僅かな希望を見たような、そんな切ない安堵を見せる少女。
ある憑神の妹の儚い願い叶うように
ある徒人の姉の願いが潰えぬように
そして、その先の未来で無力な姉弟と不器用な兄妹が笑って過ごせる、なんてことのない優しい未来が訪れるように、誰に頼るでもなく自分たちの力でそれを成せるように、そんな思いを込めて美雪はカップを寄せる。
「じゃあ、私と薺ちゃんの秘密の同盟を祝してカンパイ! ――コクン」
「乾杯です――っ!」
ティーカップだとか、コーヒーだとか細かいところは気にしない。今は何より気持ちが大事なのだ。
清々しい気持ちで誓いの一口を飲み終えた美雪だったが、薺の方はというと、カップを戻す手がプルプルと震えており、その動きもどこか緩慢としていた。
「だ、大丈夫?」
どうやら、その身長の如く小さい一口のせいか、薺のカップにはまだそこそこの量が残っていたらしい。
美雪に合わせて残りを一飲みにした薺だったが、無理を誤魔化しきれず、眉を八の字にピクピクと痙攣させ、目には涙を浮かべている。
「ダイヒョウブデス……」
「無理しなくてもいいのに」
「ここで飲めなければ女が廃りますから」
と、不慣れなサムズアップをして見せる少女。
「もう、なにそれ」
「なんでしょうね」
そんな光景が可笑しくて、
「ぷ」
「ふふ」
二人して堪え切れずに声を出して笑った。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
ひとしきり笑った後、そろそろ休もうかと薺に手伝ってもらいながら寝る準備をしているとき――、
「ところで、先輩が着てるパーカーって兄のですよね」
一番っ触れてほしくない話題が飛び出してきた。
「すぅー……」
気不味いなんてものじゃない。
あまりの恥ずかしさに気は遠のき、体は石膏のように固まり、頭の中はいっそそのまま眠ってしまえばという現実逃避を始める。
だってそうだろう、彼パーカーみたいな状態でその妹の前にいるなのど、どこかの国の公開処刑といわれてもおかしくはない。
「兄がパーカーを貸すなんて、相当気を許しているんですね……」
小さな少女の口から一体どんな追い打ちの言葉が投げられるのか。
死を待つような気持ちだった美雪に語られたのは家族だけが知る温かな日常の一幕で、しかし内容とは裏腹に少女の瞳は寂し気に揺れていた。
「そ、そうなの?」
「ええ、そうなんですよ」
その前の表情が嘘かのように小さな少女はパッと明るく微笑む。
「何だか動揺させてしまったみたいですね。お詫びと言っては何ですが、眠れない美雪さんにひとつ良いお知らせです」
「ん?」
動揺したのはその通りだが、正直そこまで気を使ってもらうほどのことでもない。
霊力を分け与えてもらったおかげで、吐き気や血の気の引くような虚脱感はもうなくなっている。目さえつむれさえするのならば、固くて冷たいアスファルトの上でだって眠れるだろう。
疲労困憊。正しく言葉通りな今の美雪ならば、何を聞いたところで寝物語だ。
折角なら"良いお知らせ"とやらを聞いて晴れやかな気持ちで眠りにつくとしよう。と、美雪は軽い気持ちで続く言葉を催促した。
「良いお知らせってなに?」
しかし、それを聞いた瞬間血が体中を巡り、沸き立つような熱を持つ。
「呪いの王の呪詛は結界で防いでおりますので、弟さんの病状の悪化は心配しなくても大丈夫ですよ」
同時に、今までのあった疲れが嘘のように消え、眠気は吹き飛び、視界化がクリアになる。
「ほんとに!?」
目の前の少女が嘘を付くはずがないとわかっていてもこればかりは確認せずにはいられない。事の真偽を聞き逃すまいと美雪は身を乗り出し、鬼気迫る勢いで少女を見やる。
「は、はい! 本当です!」
答えは変わらない。
嘘でもなければ聞き間違いでもない。
「やった……やったあ!! ありがとう薺ちゃん!!」
なぜもっと早く教えてくれなかったのだろうだとか、いつからそんなことをしていたんだとかそんな細かい話は投げ捨て、少女を抱きしめ降って沸いた奇跡の喜びを分かち合う。
「先輩!?」
何せこれは願ってもないことだ。
どうしようもないからこそ願った不治の治癒だったが、その道程はいつも時間という名の死神に追われていた。
どれだけ走ったとしても間に合わなければ意味のない願い。それが、走り切れさえすれば届くものになったと言われたようななのだから、これ以上の朗報などないと断言できよう。
「おおお落ち着いてください先輩!」
興奮しすぎたのもそうだが、病人一歩手前の美雪を案じてか背を叩く薺の訴えが控えめだったともあり、何度も叩かれてようやく我に返った。
「あ、ごめん。嬉しすぎて舞い上がっちゃった」
「コホン――だ、大丈夫です。その、少々驚いただけですから」
冷静を装っているようだが、わざとらしい咳払いを挟んでなおも言葉がつかえているのを聞けば、美雪が受けた動揺以上に動揺させてしまったのが伺える。おまけに真っ赤に染まる顔まで堪能させてもらったであれば謝罪の一つも必要だろう。しかしだ――、
「でもこれじゃ余計興奮して眠れなくなっちゃうかも」
「あ、うぅ、安心させようと思ったのですが……ごめんなさい」
「ううん。むしろありがとう」
こんな盛大なサプライズを寝物語にするとは、どうやら話題転換はもとより誤魔化すのは苦手らしい。誤魔化す気のない宗とは違うものの、二人とも誤魔化せないと思うとやっぱり兄妹なんだと奇妙な納得感があった。
「それじゃあ良い話も聞けたし、そろそろ休んでおこうかな」
「そうですね。私もつい話過ぎてしまいました。兄が来たら起こしますので、それまでお休みください」
兄の話をしていた時は少し心配になったが、努めて明るく振舞う彼女の思いを蔑ろにはできない。だから美雪はそれ以上を聞かずに寝室の扉を開ける。
困ったり、笑ったり、恥か死にそうになったり。色々バタバタした休息になったけどそれでもいい。
歯車が噛み合い始めたようなふつふつとした熱を感じることができたのだから。
ならば、その歯車が止まってしまわないように、今は休んで、万全な状態で宗の帰りを待とう。
そうして少女は、短く深い眠りにつくのだった。
※※※ ※※※ ※※※
渡りを開く定位置。そのすぐ目の前でジットリと睨みを利かせる妹がいた。
「おかえりなさいませ、お兄様」
口調、何より声色でわかる。これは相当機嫌が悪い。
「どう、した……ナズ?」
「どうしたではありません。裸の女性を連れ込むのは止めてくださいと言ったはずですが?」
パーカーを着せていただろうとか野暮なことをいえる雰囲気ではない。
こんなに機嫌が悪いのは幼い頃以来かもしれない。
「すまないナズ。戦闘の過程でアレの服が無くなったんだ。とりあえずパーカーを羽織らせたもののそのままパーカーを持っていかれるのも困ってだな、アレの家を俺は知らないし、やむを得ず同じ状況に……」
宗の説明は最もだ。しかし状況がどうであろうとパーカーを貸したことに変わりはない。そして、理由が何であろうと貸してしまったこと自体に不満がある薺には『持っていかれるのも困る』という宗の言葉は響かないのだった。
「また私の服を渡せという事でしょうか? いい加減私の服が無くなってしまいます。それとも、妹が裸になる分には問題ないとお考えですか?」
「いや、そんな事は思ってない。以後気を付ける……」
「それは花さんの時にも聞いた気がしますが、追求しないであげます。それより恩恵をお使いになられたと……お身体は大丈夫なんですか?」
溜息をつきながらも追及しないでくれるらしい。ただ、そこからはいつも通りに心配されてしまった。
しかし、今回ばかりはその心配を払拭できる。
「幸運に恵まれてな」
本来ならば恩恵の行使に伴う対価ともいうべきものが必要になるのだが、今回は狐の気まぐれによって事なきを得ることができた。
それはそれで間接的な要因である憑姫《あの女》に、とことん嫌な貸しを作ったことになってしまうのだが。
――踏み倒すか。
別にこちらがどこで何をしているのかは分からないのだから、出来るだけ避けてツケをうやむやにすればいいと、宗はその問題を強硬手段で解決することにした。
「それは僥倖でした。ではもう出発に?」
「いや、美雪に『異形』解放の影響を説明してからだ。それとナズに相談したいことがある」
「私が美雪さんの弟君を診ていることについては説明済みです。ですので相談の方をお伺いしても?」
「アレの呪いのことだが、どうにかならないか?」
視線を向けた先にあるのは美雪が寝ている寝室。
その先まで見えている宗は、当然のようにすやすやと寝ている無防備な少女の様子を確認する。
体内外の傷、脈や呼吸、霊力、共に十全に回復している。霊力に関しては有り余っているほどだ。近くの机にはナズから貰ったであろう白いワンピースが置いてある。
「多少なら鎮められるかもしれませんが、どこまでできるかは試してみないと何とも……」
「時間があれば、か。わかった。あれを起こしてきてくれないか?」
「はい」
薺が起こしに行っている間、宗はバスルームに干してあるパーカーを手に取り、狐火で速乾させて慣れたスタイルへと戻る。
居間に戻ってみれば、起きがけに周りをキョロキョロしていた美雪と目が合った。
「おい、人の妹の部屋を物色するな」
「物色なんかしてないわよ! なんか落ち着かなかったからちょっと気になって見てただけじゃない」
――それが物色だろうに。
と、言ってやりたくなったが黙っておく。というか、当の本人も自覚があるようで言葉も勢いも尻すぼみになっている。自覚があるなら言い訳するなとも思ったが、言ってしまえば先の言葉を飲み込んだ意味がなくなるので、宗はため息一つで呆れを吐出した。
「そのパーカー……」
今度は何かと思えば、人のパーカーに文句があるらしい。
大方、私が着てたのをそのまま着ただとか自意識過剰な見当違いをしているのだろうが、普通に考えてそんな気色の悪いことをするはずがないと何故思い至らないのか。
まったく、確かに宗側の休息は必要なくなったが、だからといって疲れていないわけじゃないのだ。
――主に精神面でな。
色々と面倒くさくなった宗は、妹の方を見て"後は任せた"とコミュニケーションの放棄を言外に伝える。
「私が洗濯しておきましたので大丈夫ですよ。それと兄上は狐火を乾燥機代わりに使ってはいけません」
「俺は陰陽師じゃないからな。使えるものは使う。陰陽道の仕来りなど構うものか」
ムスッとする薺
ホッとしている美雪
ぶっきらぼうな宗
三者三様、厳しい戦いの後にしては些か緩み過ぎな気もするが、本来はこれくらい肩の力が抜けているのが普通なのかもしれない。
少年は当に消えてしまった懐かしい感情を思い出し、不要なそれを切り捨て次を見据える。
「調子は悪くなさそうだな。なら行くぞ」
「そうね。『渡り』――お願いできる?」
「この状況で俺だけ渡るわけないだろ」
宗が手を差しだし美雪がその手を取る。
「お二人とも、お気をつけて」
「うん、薺ちゃんもね」
「ああ、行ってくる」
狐と兎――それぞれの手に利害と信頼を重ね、二人は次のゲームに踏み出していく。