in001.『真実への断片』
幕間です。
探偵社きっての戦力が落憑――否、憑神ゲームの被害者たちの救援に向かってから数時間。
「ふぅ……」
時刻が夜中に差し迫るという中、ブラックコーヒーをお供にパソコンに向き合う
女性の姿があった。
「表の件はこれで良し。進展があるまで情報の開示は大丈夫、と……はぁ、流石に着替えようかしらね」
こんな時間でもまだスーツ姿で仕事をこなす彼女こそ、探偵社の看板と共にその名を轟かせる二階堂 綾香その人だ。
そんな大御所が何故こんな時間まで仕事をしているのかと問われれば、昨日は探偵社の皆に無等能の訃報を伝えるので手一杯で、表家業にかける時間を取れなかったからだ。正確にはその理由の説明だったが。
そして残念なことに、いつもよりかなり遅めの仕事を終えたここからが本番だった。
ネグリジェ姿に着替えた彼女は、椅子に座り直しデスクの引き出しのカギを開ける。
「よい、しょっと」
出てきたのは丁寧に扱ってなお、どさりと音を立てそうな一冊の古い本。
美雪の協力者――彼の黒狐が探偵社に来る少し前、少女はとある歴史書を綾香の下に持ってきた。
今目の前にあるこれが件の歴史書なのだが、なるほどそう呼ぶだけあって歴史を感じさせる古めかしさと重厚感がある。なんでも、この本に記載されている内容、その事実関係を調査してほしいとのことなのだが、
「読めないわね……」
背表紙が掠れ、人の目では判読することができない。
辛うじて分かるのは管理番号と思しき漢数字。
字体や筆跡、古書の材質と劣化具合。そのどれもが見た目相応に古い書物であるという事を示唆している。それはつまり、この古書は見た目だけではなく、長い時をかけて記録されてきたものだということ。しかし――、
「綴じ紐が新しい。一定の間隔で紙質も良くなっている……」
それは古い情報に年代の違う新しい情報を追加したという事。
(不自然だわ)
これだけ古いものとなると、内容に一貫性があればそれだけである程度の説得力になる。だというのに、これの本来の持ち主はその有意性をあえて捨てたのだ。
果たしてそれにどんな意図があるのか。
綾香は貴重な資料の中をぺらぺらと注意深く確認していく。
「――」
一ページ、また一ページと確認していく度に経験したことのない感覚が、綾香足の先から脳のてっぺんまでじわじわと広がっていく。
歴代の患者
いつどこで黒手病になったか
病状の推移
その周囲で発生した原因不明の突然死
不自然な社会状況や現象
古書には日本で初めて黒手病が観測された日のできごとと、それからの歴史などが詳細に記されていた。
幾つかの古いページは判読が難しく、所々辻褄の合わない記述が散見されるものの、内容と書き方からして暗号化されているだけだと分かる。この頃から憑神ゲームが存在していたのだとしたら至極当然の処置で、それ自体に怪しいところはない。どちらにしたって情報に特化した恩恵を持つ綾香から真意を隠すことはできないのだから。
そして、古新を合わせたのは恐らく長大な内容を可能な限り一冊に纏めるためだったのだろう。
「この情報を売るだけで、一生遊んで暮らせてしまうわね」
世界中の多くの者が知りたがっていた不治の病の情報。そうでなくても歴史学者にとっては垂涎するほどの価値がある情報。
ともすれば綾香は、人々の為にこの情報を有効活用すべきだろう。だがだ、
どうして誰も知り得ない情報を持っているのか
どこで手に入れたのか
これらの情報を手にできるほどの存在とは一体何者なのか
長年手がかりすら見えない暗闇だった綾香の"願い"。そこに偶然にも現れた一筋の光明。
願いに近づけるかもという期待。
深みを知る得体の知れない存在が直ぐ近くにいる恐怖。
しかし、目の前に吊るされた可能性を前にして、綾香の興味はすでに一匹の黒い狐へと向けられていた。
「ダメよダメ! 二階堂 綾香! あなたはあの探偵なのよ! 先ずは雪ちゃんに頼まれた調査が先でしょ!?」
シーンと室内に綾香の自制が木霊する。
「――……」
ここに自分以外の誰もいなくてよかった。
でなければ、こんな風に自分の名前を声に出して己を律するなんてマネ恥ずかし過ぎてできたものでは無い。
――パチン。
両手で頬を叩き、利己的であろうとする人間の本能に喝を入れる。
「しんちょぉうに……」
古いページが崩れてしまわないように綴じ紐ほどき、一枚一枚丁寧にスキャナーで憑代へと転送――古書の解析を始める。
――ヴン……。
ネオンが灯るような音と共に、パソコンに測定の結果が映し出される。
恩恵で得られた情報は、古書が記されたのは400年以上前のことであり、紛れもない史実であるということ。
それがわかったのなら次は因果関係だ。古書の内容、測定結果、そして現代の情報と綾香の知り得る情報を穴を埋めるように照らし合わせる――たったそれだけのことで答え合わせ、もとい400年の不治の病の謎があっさりと証明できてしまった。それは同時に、突発的な原因不明の病が憑神の仕業であるというのを裏付ける情報でもあった。
「はぁぁぁ……」
綾香口から盛大な溜息が吐き出される。
これが根も葉もない出鱈目な情報であれば、ここまで頭を悩ませる必要もなかったのに、と。
「精度、確度ともに問題なし。妥当性、信頼性も十分……確証足り得るわね」
一先ず美雪からの頼み事は解決した。
区切りの意識付けがてら、オフィスチェアを倒して天井を見つめる。が、残念ながら仕事からの解放感は訪れず、モヤモヤした引っかかりが綾香の頭の中で渦巻くのだった。
「黒手病……」
綾香も黒手病について知らべたことがある。しかし、
『"黒手病 治療方法"』
『治療方法:原因の排除』
『原因:黒手病』
と、調査がループしてしまい、恩恵での解決はできなかった。
綾香の恩恵は本来、憑神ゲームに関する情報にアクセスできない。
僅かでも情報が出てくるのは、あくまでも黒手病が世間に認識されているからだ。
そのせいで黒手病が憑神ゲーム由来なのかどうか断定できなかった。
――カタカタカタ、
しばしの間続いた沈黙を破ったのは、キーボードを叩く音。
『"黒狐 正体"』
パソコンに入力された文字列に関する情報が、恩恵によって検索、調査、収集、解析される。結果は――、
『該当なし』
分かり切っていたことだ。
前述の通り、黒狐の正体を調べようとしたところで情報は出てこない。それは既に知っている事だとしても同じことだ。故に、あくまで調査対象を画面上に文字として明記したに過ぎない。
止まっていた歴史を動かした中心人物。その調査に成る糸口になるのは、
「出遭ってはいけない憑神」
憑神ゲームに根深い都市伝説。知る人ぞ知る世迷言。
『鬼と異形と黒狐。出遭ったならば運の尽き』
それぞれ、象徴する"キョウ"の字で恐れられている三体の憑神。
"強"の鬼。
"狂"の異形。
"凶"の黒狐。
黒狐が実在し――本人は頑なに認めようとしないが――彼が異形を証明した以上、ただの世迷言と捨て置くことはできない。それに鬼と思しき存在にも心当たりがある。
ツキガミゲームに損害を与えうる事象は、不可思議な事象の下、表舞台には存在しなかったことにされる。
ある憑神はゲームの存在を世に公表しようとして。
ある徒人は魂奪戦の痕跡を追い消息を絶った。
ある女は御霊狩りの現場を見てしまい、不穏分子として殺された。
そしてある憑神は、そんな女を蘇らせた代償に命を落とした。
(ねえ? 黒狐なら何か知っているの?)
綾香の”願い”への足がかりを。
人の願いを食物にした狂気のゲーム。誰がいつどこで何のために始めたのか。
その先にあるはずなのだ――真実が。
――コクン。
一口コーヒーを飲み、心を落ち着ける。
安易な考えに流されては、本当の答えを見失ってしまうものだ。
そもそもの話、綾香は黒狐を――アラヤと名乗ったあの少年のことを信用していない。
確かに彼は美雪の願いの先に手を乗せてはいる。しかし、だ。彼の齎した情報が正しい事と、彼が言っている事が正しい事とは別なのだ。
美雪の願いなど、端から叶える気がないとしたら?
協力関係が全て、彼の願いの踏み台だとしたら?
異形討伐の過程にその願いがあるとしたら?
そこから導かれる最悪の想定とは――、
「異形を蘇らせることが彼の願いだとしたら」
決まった訳じゃない。あくまで可能性だ。だが彼に真意を語る気がない以上、無視はできないし、何かしらの対策が必要だろう。
「神童|《先生》なら或いは……」
椅子を滑らせ物思いにふける。
彼女に相談できればどれほど楽だろうか。
しかし、とある憑神義侠団の様子を探りに行っている彼女が戻ってくるのはいつになるかわからない。
されどその先にあるのは思考の迷路で、答えの出ない底なし沼のような問いだった
「暫くは眠れなさそうね、なんでこんなに難題ばかりくるのかしら」
室長室から出られなくなってから早数年。遂にお肌の曲がり角を過ぎてしまった。
表で仕事をしている時は要人と会うことも珍しくない。むしろ殆どが国内外問わずどこかしらのお偉いさんだ。日頃から人に会うからこそ、身だしなみや健康には気を使わなければいけない。だというのに昨日は朝方、今日も日付の壁を超えた。そのうえこの先に待っているのは、少なく見積もって数日は寝る間を惜しむ必要がある調査の山。
でも仕方ない。異形への対処が不可能になってから答えが分かりましたでは遅いのだから。
「う~! 世界が私に優しくないぃぃぃ!!」
あまりの難易度の高さにたまらず叫びをあげる。どうせここには綾香しかいないし、職業柄もあって防音防振は完璧だ。
なればこそ、手足をブンブンと振り乱し、この世の理不尽に全身全霊を以って抗議する。
――ガチャリ、
と、突然室長室の扉が開かれる。
「綾香さん! 保護対象の――」
同時に、綾香の思考は完全にフリーズした。
「ふぇ?」
顔を覗かせたのはメガネをかけた青年。
彼は片桐 颯真。綾香の傍で懸命に力を尽くしてくれる助手であり、今ここにいるはずのない人物でもあった。
自分一人だと高を括り、体裁など投げ捨てた今の綾香の姿は、とても人に見せられるものではない。
倒したオフィスチェアに寝そべるような姿勢で手脚をバタつかせていた綾香は、脚をあげたそのままの姿勢で固まっている。
ネグリジェ姿で暴れたのも相まって、それはもう大変なことになっていた。
そしてそんな姿を見てしまった颯真もまた思考を停止せざるを得ない。
「――えーっと……」
一応、ガウンを羽織っているものの、肘までずり落ちたそれが意味を成しているはずもなく。挙句にいい年こいた女の幼児退行までセットとなれば、いくら見知った中でも衝撃的に過ぎるわけで、
――ガチャン。
扉がそっと閉じられた。
「え? あ、颯くん?! 違うの! 話を聞いて!!」
何も違わない。
痴態は事実で、痛い女なのも事実。
そこまでの無様を晒しておいて、一体何が違うというのだろうか。
今更何を弁明しても、彼の中で下されたであろう残念な女認定を覆すことはできない。
(諦めちゃだめよ私!)
流れてしまった水は掬えない。
人には変えられないことがある。だからこそ願いに手を伸ばすのだ。
「じ、実は酔っちゃってて!!」
この際酔ったふりでもして正常じゃないと思わせる。酒乱のレッテルが増えたところで構うものか。
酔ったら幼児退行するのか? なんて言うやつは、口座を空にして、隠してるデータというデータをそいつを知る人物全員に暴露してやる。そうすれば今綾香が味わってる苦しみを少しは理解できるだろう。
今はただ"普段は頼れるお姉さん"というせめてもの張りぼてを守るのだ。
「あ!?」
扉が閉まっていては、防音力のせいで苦し紛れの言い訳すら届かない。
今ならまだ間に合うと扉に向おうとするも、散々暴れたせいでずり下がったガウンを踏みつけ、ガクンと腕を引かれる。
「やば?! うそぉ!!?」
必死にバランスを取ろうと試みるも、誰がどう見ても挽回できる状況じゃない。
そして椅子から盛大に転げ落ちたそのタイミングで、無情にも再び扉が開かれる。せめてもの救いは、絨毯が柔らかかったことくらいだろう。
「綾香さ――……」
「ぐべぇ」
そして颯真が見たのは、ある意味では最初よりも凄惨な光景。
――ガチャン。ガチャリ、
「綾香さん!」
「もう許して颯くん! なかったコトにしようとしてくれるその心遣いが苦しいよ!」
こうして何かを守ろうとした女と男の戦いは、互いの何かが崩れ去ることで幕を引くこととなった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「すいません。自分の力不足でした……」
「颯くん、まだ帰ってなかったんだ」
本気でも申し訳なさそうにしている姿にグサグサと追い打ちをかけられるも、あの醜態がなかったかのように努めて平然に受け答えする綾香。
なにを何事もなかったかのように開き直っているんだ? そう思われるかもしれない。でも違う。そうじゃないのだ。取り繕うべきは既にそこにない。というかもはや何もない。更地だ。虚無だ。何も考えずただこの時間を消化することに徹して、自分自身の心を守るのだ。
「各方面の被害者から受けた保護及び救援要請ですよ。内容の確認と精査が終わらないので今日は泊まりますって伝えましたよね?」
「そう、だったわね。抜けていたわ……ごめんなさい」
「おかしいですね『頑張るっていうのは身を削ることじゃない。目標に向って進み続ける事だ』そう教えてくれたのは綾香さんだったはずでは?」
「てへっ」
頭にコツンを乗せたテヘペロをかます。
もはやどうにでもなれ。今更失う体裁など欠片たりとも残っていないのだから。
「今時そんなことしてる子いませんよ。そもそも社会人はやらないです」
三十手前の綾香に年齢の話はタブー。故に颯真には、それと無くやめた方がいいですよと伝えることしかできない。
「そんな悲しい現実を突きつけてないで、一緒に調べ物をしましょ? 今なら雪ちゃんが持ってきてくれたおいしいコーヒーがセットでついてきます」
古書と一緒に、少女が申しわけなさそうに差し入れてくれた名店の高品質コーヒー。香りも味も最高で、飲めばリラックスできると共に集中力が上がる優れものだ。
「私はこの後寝るので折角ですがどちらもご遠慮します。それより大事な話があります」
餌をチラつかせて資料調査に誘ってみるも、もっともな理由で断られてしまった。実際は、そもそも颯真はコーヒーがそんなに好きじゃないというだけだったのが。
「焦っていたみたいだけど、何があったの?」
「それです! 救護対象の斎場カレンさんを保護したと彼女から連絡がありました」
「美雪ちゃんも無事だったのね。よかったわ」
他に名前が挙がらないのは不安だが、少なくとも一人助かったのは喜ばしいことだ。
連絡があったということは、美雪も無事だったのだろう。
「いえ、月野じゃないです」
「じゃあ、彼女って誰のこと?」
「ヨミさんです」
「え?」
それは今の綾香にとって、最も頼れる報告だった。
「探偵社最強の憑神――神童が帰ってきました」
これにて第二章終了と相成りました。
引き続き、憑神遊戯をよろしくお願いいたしますm(_ _)m




