10話③ 名前のない少女
月光竜様ことラーヴは彼自身がそう言った通り、私に対する用件だけ済ませたらすぐにその場を立ち去ってしまいました。グラスロードのような僅かな住民しかいない僻地では、彼のような来訪者は目立って仕方ありません。誰かに見とがめられる前に去ってしまいたいのも道理です。
そして私は、その夜ラーヴに会ったことをコウ君にもヒー君にも話しませんでした。誰かに相談するよりもひとりで気持ちの整理をしたかったからです。
ヒー君とナナは一足先に旅立ち、グラスロードを離れました。私とコウ君はせっかく訪れた場所なのだからと数日はのんびり滞在させていただき、ちょうどコウ君の日記帳の頁がなくなったのもあっていつも通りレインちゃんに交渉します。宿帳に紛らわせてこれを保管してもらえないかと。
「やっぱりね。名前を聞いた時からピンときてましたよ。アルディア村の本家に置いてあった手記の人かなって」
「それはまぁ、お互いそうだろうね」
彼女はコウ・ハセザワという名を聞いた時から。コウ君はレイン・リークイッドという名を聞いた時から。先祖の代にご縁のあった関係と気付いたでしょうね。カイン君はお子さんを遺さなかったから、ネイルさんの血筋の子孫なのでしょう。
「あたしも紆余曲折合ってここで宿を任されてるから、いつか遭遇することもあるかなーとは思ってたのよ。各地を巡ってるって話だったし。とはいえ別にどうでもいいけどね。先祖の知り合いに会えたからって何が面白いってんでもないし」
せっかくお会いできたというのに無味乾燥な言い分がちょっと残念ですね、と、宿を出てからコウ君にお話ししていたのですが。コウ君の感想は私とは違っていました。
「そういうべったりしすぎないところがなんとなくカインっぽさあって、懐かしい気がしたなぁ」
カインが亡くなってからも数百年経ってるからその感想が正しいかはわからないけどな、なんてコウ君は自嘲するのでした。
ナナから情報を得たことで、私達の次の目的地がクラシニアになるとわかりました。ソウジュ様は赤い髪のいるところへ現れます。今回は目標の方が二十歳になる五年も前にその情報を掴めましたから、私達がソウジュ様の先回りが出来ているはずです。
傀儡竜様の生まれ変わりと思われる赤い髪は、ナナの妹さんと、シーちゃんの妹さんで時を止めて眠り続けるウイシャ様。彼女達、残すところあとふたりになってしまいました。
神竜に纏わる全ての戦いが終わる、始まりの日から数えて千年後。それも、残すところ四十年ほどになりましたから。いよいよ私達の歴史にも終わりが見えてきたというところですね……。
こうなってはもはやあちらこちらへ移動する必要性は薄く、コウ君と私は五年間、クラシニアに滞在することになるでしょう。
「まさか、今になって私が、もう一度クラシニアで暮らすことになるとは思いませんでした」
コウ君にはまだお話ししていませんが、ここは私の、地上で過ごす最後の地になるかもしれません。
「あんまり良い場所じゃなかったんだっけ、イリサにとって」
「う~ん……どうでしょう。大切な人達が王家によって酷い扱いを受けたことは事実ですが、クラシニアという土地にも城下に暮らす人々にも何ら罪はありませんから」
市場に買い出しに出たり、街の人と話したり、そーちゃんをおんぶしてお散歩したり。そんなことをしている時はとても楽しかったです。そういう意味ではクラシニアという町は大好きです。周囲を砂漠に囲まれていて移動が不自由なのと、その立地ゆえ何かあった時に逃げ場がない閉塞感はちょっと辛いところではありますが。
……そうでした。またそーちゃんとクラシニアの町を歩いて。それもすっかり大人に、たくましくなったそーちゃんとそのように暮らせるなんて。こんな日がまた来るなんて思いもしませんでした。
「私は今のクラシニアのことは詳しく知りませんけれど、せっかくだから隅々まで堪能して楽しみたいです。ねっ、コウ君!」
「いいんじゃないか。イリサがそうしたいんなら」
クラシニアが封建的なのは現在もそう変わらないみたいですが、細々とした面では千年前より少しずつ良くなってきているのを、実際に見て感じました。そも、千年前でしたら王家に女の子が生まれても女王として即位は出来なかったはずですから。
残念ながら私の密かなお気に入りだったオアシスクラゲは遥か昔に絶滅してしまっていました。元々突然変異的に発生したものだったから自然な成り行きかもしれませんが。海辺の町では本物のクラゲ料理だっていくらでも食べられるようになりましたし。
また氷菓子を食べて私にもそれを味わわせてくれるとコウ君は約束してくれましたが、クラシニアのような気候ではそれも難しく、それは叶わないかもしれないと覚悟していました。ところが現在のクラシニアにはラクダの乳を加工した氷菓子が名産になっていました。
あと一度、どころか懐具合に余裕のある時は息抜きとして、コウ君は頻繁にそれをご馳走してくれるようになりました。甘い氷菓子を食べた後に真っ黒な珈琲をのんびり味わうのが何よりの楽しみでした。私は珈琲の味が好きなのか良くわかりません。美味しいのか、苦みがきつくて苦手なのか。自分でもどちらかよくわからなくて頭が混乱するのですが、その混乱がなぜだか楽しいのです。
「その楽しみ方はなんか、薬物依存で思考が弾けてる人みたいでやばくないか……?」
「えー? そうですかー?」
純粋に珈琲の苦みが好きで楽しんでいるらしいコウ君にその話をすると、本気で心配そうな声色で、ともすれば私を気遣って珈琲を飲む趣味さえ放棄してしまいそうで説得しなければなりませんでした。
珈琲自体が好きというより、珈琲を飲んで寛いでいる時のコウ君はこの上なく気持ちよさそうで、そんな時間を共有出来ることに至上の幸せを感じるのです。だから辞められては困りますとめいっぱい主張しました。実体のない私の健康に気遣ってコウ君がしたいことを諦めるなんて本末転倒に過ぎるじゃないですか。
それにしても……お母さんのお乳を飲んでいる頃から見守ってきた彼が、今は私でもめまいがしてしまいそうな苦~い珈琲を楽しむ人になっているなんてしみじみしてしまいますね。
こんな感じで想像していた以上にクラシニアでの暮らしを私達は漫喫していました。ほんの数年先にはそれが終わるであろうことも忘れかけて。
ああ……本当に。こんな風にずうっと一緒にいられたらなぁ……。
すでに数百年とコウ君と一緒にいられて、それは普通の人の寿命より遥かに長くて。ある意味贅沢に時間を使わせていただけたのが私達なのに。
いざその終わりが目前に迫っているのを実感してしまうと、惜しくてたまりませんでした。コウ君がぐっすり眠っている夜更けにひとりでこっそり泣いてしまうこともありました。涙など流せない体なので、そういうつもりで耽っていただけなんですけどね……。
クラシニアでは長い滞在になることがわかっていましたから、コウ君は日雇いではなく直接雇用で勤めていました。夜明け前の早朝からの勤務でお昼過ぎには帰ってきます。家族のある人が養えるほどのお給金ではありませんが、客観的にはコウ君は単身世帯なのでおかげさまでゆとりある暮らしが出来ていました。
「コウ君。次の三月十四日、私に一日使わせていただけませんか」
こういう生活なので午後は私とのんびり過ごせる日ばかりでしたが、休暇の申請可能な半月より前を見計らって私はコウ君にそうお願いしました。
「いいけど……そんな頼みごと、初めてだな」
「はい。初めてですが、二度目はないです。私はその日を最後にグラスブルーへ帰らなければなりませんから」
ソウジュ様が自決されるその日まで私にそれを話して下さらなかったお気持ちが、今ならよくわかります。私だって最後の日までコウ君といつも通りに暮らしたかったですから。それでも、あの頃の私の、ほんの少し恨みがましい気持ちに報いてあげるのを優先することにしたのです。コウ君に同じ思いをさせたくありませんから。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、コウ君は約束した日まで表向きは今までと変わりなく接してくれました。
その日が最後だから、一日中ずっとコウ君の側にいたいです。そうお願いしたら、コウ君は十四日と翌日の十五日でお休みを申請してくれました。
十四日は朝起きてすぐ、クラシニアの町を隅々まで散策しました。歩いている時も、お気に入りの飲食店で寛ぎながらも、今までの思い出話をずっとしていました。私が好きなラクダのアイスを注文してくれましたが、いつもは頼む食後の珈琲をコウ君が頼まないのでそれを指摘しますと。
「今日で最後だっていうのに苦手なもの味わわせなくてもと思って」
「最後だからこそ、ですよ。コウ君と一緒に飲みたいです」
その感覚が本気でわからない、と呻きながらもコウ君は追加で珈琲を注文しました。
夕方頃いったん自宅に帰り、私がお願いした荷物をコウ君に持ってもらい、再び出かけます。
「街中で火を使ったりしたら目立ちますし、ご近所さんを心配させてしまいそうですからね」
私の希望で、街から一番近いオアシスまでやってきました。コウ君に持参してもらった点火薬で小さなたき火を起こしてもらい……。
そこへ、もうすっかりぼろぼろになってしまったそーちゃんのぬいぐるみをそっと投じます。自分の手では出来ないから、これもコウ君にお願いして。
「良かったのか? 本当に」
私がこのようにしたいと数日前に相談した時、コウ君は少し難色を示していました。私という存在がいなくなるのがわかっていて、私の私物まで先んじて処分するというのは、その後偲べる対象まで失うわけで単純に寂しい。そう言ってくれるのは私も嬉しいのですが。
「この子は私の宝物だから、一緒に連れて行きたかったんです。ごめんなさい。コウ君の気持ちより自分を優先してしまって」
「いいよ。これはイリサの物だから」
砂漠の地面の上にふたり並んで腰を下ろして、たき火の勢いがやがて衰えてついには消えていく。その火をただ見守っている間、どちらも何も話しませんでした。
コウ君は何を想っていたかわかりませんが、私は思い出していました。彼と私と、幼いそーちゃんを背負って逃げ出した、過酷な砂漠の旅。私達は死なない体ですけど、そーちゃんはこんな環境ではいつ死なせてしまうともわからなくて、ヒー君に助けてもらうまで怖かったです。
それからも大変なことはありましたが、三人一緒にいられて、毎日楽しかったなぁ……。
燻っていた火種までついに燃え尽きてしまうと、今までもそこにあった月と満点の星空が急に主張を強めます。この星空は千年前から変わりませんね。
王宮の最上階にとらわれていたツバサ様も、小さな窓から城下の景色とこの星空をよく眺めていました。窮屈な日々だけれどこの景色の美しさだけは認められる、と、おっしゃって……。




