第二十三話
時計の針はてっぺんを周り。空では太陽の代わりに月が浮かんでいた。
部屋の明かりは落とされているが、テレビからは青白い光が発せられ、賑やかな音がスピーカーを震わせていた。
「なるほど……。【ツイてる日】ね……」マリ子はエンドロールが流れる画面を見ながらため息をつくと、三角に尖らせた目を明夫に向けた。「誰がエロアニメを見せろって言ったのよ。恋人同士が見るのにふさわしい純愛映画を見せろって言ったの」
「だから見せただろう。こんなに愛について深く触れてる作品が他にあるかい? 新しい愛の形だよ」
「私が言ってるのは、なんで女の方にツイてるのかって。そしてなんで、入れるほうが入れられてるかよ」
「新しい愛の形だって言っただろう。知ってるかい? このアニメ。二十年前の作品なんだよ。いかにオタクが最先端を生きてるかわかったかい?」
「私がした相談覚えてる?」
「相談をされた覚えがない。脅された覚えはあるけど」
「マンネリ化したデートをどうにかするために、参考になるものを見せろって言ったのよ。忘れたの?」
「忘れてない。保存版の円盤の包装をやぶこうとしたことも忘れてない」
「ちょっと手に持っただけでしょ」
「ちょと手に持っただって!? 知らないおじさんにちょっとおっぱいを持たれたら烈火の如く怒り狂うくせに」
「まず私は知らないおじさんじゃない。次にこのおっぱいはアニメじゃない」
「当然。現実世界のおっぱいが、アニメのおっぱいに勝てると思うな」
一度も視線を逸らさずに言ってのける明夫を見て、マリ子のほうが先に折れてしまった。
「もういいわ……この会話も飽きた。問題はアンタが選んだアニメは何も参考にならないってこと」
「言わせてもらえば、登場人物は強気な女性と流されやすい男。君たちにぴったりだ」
「エロアニメを選ぶなって言ってるのよ」
「でも、エッチなことをするんだろう? SNSと一緒だよ。やることはみんな同じ。個性がない」
「嫌な言い方するんじゃないわよ……。それはデートゴールの内のひとつなだけ。そこにいくまでの過程がデートなの。やっぱりオタクと言っても男ね。肝心なところ何一つ理解してないんだから……」
この場では呆れて話題を打ち切ったものの、マリ子はふと深夜たかしのベッドの上で話題にしていた。
「ね? 呆れたでしょう」
「人の恋人にエッチなアニメを紹介した明夫に? それとも……オレの親友とエッチなアニメを見た報告をしてくる恋人に?」
「拗ねないの。明夫が私に性的興奮を覚えたらそれはそれで快挙よ。表彰状もの。サルが地球を支配する日も近いわ」
「拗ねてないよ」
「うそ」
マリ子に胸元をくすぐられたたかしは、答えを間違えまいと口元に笑みを浮かべた。
「少しは拗ねてる。でも、気をつけたほうがいい」
たかしに突きつけられた人差し指に、マリ子は同じく人差し指を差し出し、指先をくっつけた。
「まさか明夫に取られるんじゃないかって心配してるわけ?」
「それはない。オレが言ってるのは、マリ子さんはテストされてるってこと」
「その単語作った奴殺したいくらいムカつくわ……。で、なんで明夫にテストされてるわけ? そもそもなんのテストを受けさせられてるのよ」
「そりゃオタクのお仲間テストだよ。心配ない。明夫は同類には良き理解者だ」
「なぁーんで私がオタクのお仲間テストを受けなきゃいけないのよ」
「身に覚えない?」
「ない」
「着信音は? 待ち受け画面は? 以前までと同じだって言える?」
マリ子は枕元から充電中のスマホを取り出すと、スリープモードを解除して待ち受けを確認した。
映し出されているのはバトルロイヤルゲームに出てくるキャラクターの画像だった。
「同じだって言い張ることはできる」
「別にオレは気にしないよ。恋人がFPSゲーム中毒だってね。問題は明夫のテストは長いってこと」
「高校の期末テストだって二日で終わるのよ。なにをテストされてるのよ」
「色々だよ。オレの時は変なアニメを見せられたよ」
「私もよ」
「タイトルはツイてる日だろう」
「たかしも見たの?」
「たぶんオレが見たのはリメイク前の。最近明夫が熱を上げてるのはリメイクされたからだよ。マリ子さんが見たのもリメイク版じゃない?」
「驚いた……」
「恋人の名推理に?」
「女に男のモノがツイてるアニメを見てることを誇らしげに語られたことによ」
「それがテスト。受かってたら君と付き合ってない。だから一生留年中」
たかしがただ触れ合っていた指先から、絡み合うようにして手を握りしめると、マリ子がぎゅっと力を入れて握り返した。
しかし、混ざりあった手のひらの熱はすぐにエアコンの空気に冷やされてしまった。
「一瞬いいセリフかと思ったけど……そんなことなかったわ」
「まさかこっちのほうも留年するとは思わなかった……」
「待った! いいこと思いついた!」
「カンニングさせてくれるの? バレたら留年どころか退学だけど」
「バカ言ってないで耳を貸して。いい?」
マリ子はたかしから昔の話を聞き出すと、これはいけるとガッツポーズをしてままの格好で眠った。
翌日。マリ子の様子は早速朝から違っていた。
「京! おはよー! んー……ちゅっ!」
京の姿を見つけるなり、マリ子は片腕に抱きついて頬にキスをした。
「あら、朝からラッキー。でも、次に聞く言葉でアンラッキーになりそう。なに?」
京は何を企んでるのかと目を細めた。
「なにって愛よ。女同士だもん。頬にキスするなんて普通でしょう?」
「いつからこの家は治外法権になったの?」
「紫外線の話なら日が落ちるまで出来るけど、治外法権の話なら日が落ちるまでに理解できないわよ」
「いつから常識が変わったのって」
「しっ! 聞こえちゃうでしょう」
マリ子は慌てて京の口を手で塞いだ。
「聞こえちゃうって……誰に?」
「そりゃあ――」マリ子は当てつけ相手の明夫の姿を探したが、確かにいたはずの明夫の姿はどこにもなかった。「ちっ……オタクめ。消えやがったわね」
「いい加減教えてもらえないかしら?」
「私が京のことをどれだけ愛してるかって?」マリ子はあざとらしく首を傾げたが、京の表情が変わらないとため息をついた。「わかった……白状する。オタクからお金を巻き上げようとした」
「マリ子なら色仕掛けよりも、拳を振り上げたほうが早いんじゃない?」
「このおっぱいよ」
マリ子は自慢げに大きく胸を揺らした。
「相手は明夫君でしょう?」
「そうだった……」
「もう一度聞くわよ。一体どういうことか教えてもらえるかしら。明夫くんからお金を巻き上げるのと、私の頬にキスして胸の自慢をするのにどういう関係があるのか」
「胸は京なら揉んでもいいアピール。もう一つの話題にはこう答えるわ」
「最初からもう一つの方の話題しかしてないんだけど」
「話の腰を折る男と中折れする男は最悪」
「私は女」
「そうだった……。とにかく私の狙いは明夫貯金よ」
「なにそれ」
京は呆れた評定を隠さずに言った。
「昔聞いたことあるのよ。ほら、オタク達とカラオケに行ったことあるでしょう。あの時漏らしてたのよ。オタクのオタクによるオタクのための貯金があるって。そのためにはテストに受かる必要があるのよ」
「なに言ってるかさっぱりよ……」
「つまりこうよ。私と京でイチャついて、オタク心を揺さぶる。ガタついたガキ穴は蹴飛ばせば開く。そしてその貯金でプロジェクターとスクリーンを買って、恋愛映画を大画面で楽しむ」
「八つ当たりなのは理解したわ」
「八つ当たりじゃないから理解してない。ぶっちゃけ気になるでしょう? オタクの隠し財宝よ」
「海賊にでもなるつもり?」
「気になるのよ。男の秘密基地とか、男の隠れ家とか、男の料理とか。男ってさぁ、ところどころ男って暖簾にこだわりを隠すじゃない。暴いてみたくない?」
「一理あるわ」
「一理じゃなくてそれが真理。わかったなら協力して」
マリ子は目を閉じると唇を突き出した。
「それはどういうつもりなの?」
「みゃーこなら舌入れてもいいよ」
「そうじゃなくて、明夫君には逆効果じゃない? ってこと」
「こんな美人二人のキスだよ。オタクの財宝に入れておくべきシーンでしょう。アイツの言葉を借りれば一枚絵のイベントシーン。……やっぱ借りなければよかった」
「そうじゃなくてこうよ」
京がマリ子の腰元を持ってソファに寝転がると、マリ子は「いやーん」と嬌声を上げた。
すると、姿を消していた明夫の影がキッチンの物陰から現れた。
「ほらね」
京はマリ子が顔を上げないように、頭を撫でながら言った。
「どういうこと?」
マリ子の疑問はもっともだ。
現実の女性に興味のない明夫。それもつい先程証明するように姿を消したばかりだ。それが何故今になって姿を表したのか。
「キッチンからは見えないのよ。ソファーの背もたれが影になってて、私達二人の姿が見えないの。声だけが聞こえてる」
「そんな……単純過ぎない? だって私達現実世界に生きてる人間だよ。アイツが気になるはずがない」
「声優だって人間よ」
「なるほど……一理ある」
「それが真理よ。そうね……古今東西鍵をなくした男の扉を開くのには色仕掛けって決まってるけど……」
京が眉間にしわを寄せると、マリ子も同じように眉間にしわを寄せた。
「けどなによ」
「諸刃の剣」
「なんで」
「彼は厄介オタクよ。釣り糸を垂らしたら餌に食いつくんじゃなくて、演技指導してくるのが目に見えてるわ」
「確かに。一理ある。ところで一理ってなに? それも一つのリアルで、いちリアルってこと? でイチリ?」
「ちが……わなくもないけど……。今はその説明よりも、もっと大事なことがあるんじゃない?」
「オタクの演技指導に受かるには?」
「オタクの演技指導を避けるには」
「色仕掛けの上に演技指導……。それってパスワードの解除に二段認証を使ってるってこと? ものすごい金額が貯金されてそうじゃない?」
「そうね……」
京はリビングを見回した。所狭しと飾られているオタクグッズの数々は、素人目に見ても安いものではないのがわかる。
自由に使えるお金が多い大学生ということもあるが、決まった収入がある社会人ではない。
日々限定品を買っているお金はどこから出ているのか。
京が様々な興味を頭に巡らせていたが「何をどう成功しても、私達がどうこう出来るお金じゃないわ」と先に一人現実へと帰った。
「でも、知っておかないと」
「どうして?」
「だって、収入って結婚をする上で大事でしょう?」
「結婚? なんの話をしてるの?」
「マッチングアプリの話よ。青木が明夫の名前を語ってやり取りしてた女。今私がやりとりしてるの。めっちゃくちゃ好感度上がってるわよ」
「色々聞きたいことがありすぎて文字が溢れてるわ……。だから一言で聞く。なんで?」
「やりとりしてる理由は、オタクだと相手の女を傷つけるから。好感度上がってるのは……まあ図らずともオタク達のおかげね。恋愛シミュレーションゲームの好感度メーター。あれ頭に浮かぶようになると便利よー」
「私が聞きたいのは、なんでマリ子がプロポーズしてるわけ? ってことなんだけど」
「プロポーズはしてない。でも、明夫の相手だよ。今後現れると思う? これを逃したら生身の人間と触れ合う最後のチャンスを逃すことになる。こんなのもうプロポーズしたのと同じ。言わずとも最初で最後の恋愛よ」
「そうかも知れないけど……。貯金の額で態度変わる女の人は、お金を湯水のごとく使うオタクとタイプは合わないんじゃないの?」
「ところがどっこいよ。相手も相当金食い虫よ。やたらブランドにこだわるし……。限定品も好きだし。もしかしたら私のライバルになるかも。やばい……明夫に惚れるわけない。路線変更しなきゃ……」
マリ子がスマホとにらめっこを始めたので、京は集中力が途切れて文句を言い出す前に、おやつの準備を始めた。
その頃。明夫の部屋では、たかしが食って掛かっていた。
「なんで、もっと粘らなかった! あの二人がニャンついてる需要がわからないのか!」
「あれは口腔内に付着している病原菌を頬に移植しただけ。ニャンつくだなんておこがましいよ。ニャンつくならせめて効果音くらいつけて。それにどこにも需要はない」
「ある」
たかしは手を上げて主張した。
「ここいるのは二人。どっちかが主張してもイーブンにしかならない」
「オレの息子も主張してる。もっと妄想を膨らませていいはずだ」
「ちょっと……ここで股間を膨らませないでよ。僕の部屋だぞ。現実の女へのリビドーは控えてもらいたいね」
「そういう例え。それくらい素晴らしい光景だったんだ。せめて調子に乗ったマリ子さんが、京さんの首筋にキスするまで待てないのか」
「あーもう……うるさい。現実の女で萌えシーンを語らないで」
「でも、女性同士がじゃれ合って際どいところにキスして、リップのあとがツイてたりしたらいいだろう?」
「アニメの話に変えてくれないと、何一つ頭を振れないよ」
「だからさ女性同士の交友関係っていうのは、ある意味女子校の日常の一部を切り取ったかのように――」
熱心に語るたかしだったが、現実の女性の話をされているので明夫はほとんど話を聞いていなかった。
「朝から変なテンションのたかしにからまれてツイてないよ……」




