第二十二話
上機嫌な明夫だったが、十歩も歩けばすぐに景色が変わってしまうような世界観には不満があった。
後ろに存在していた明るい森は姿形を消し、代わりに目の前では暗い影を落とす不気味な森が広がっていた。
「初期型家庭用ゲーム機のドット絵のRPGのマップだって、まだ作り込んでるよ……。第一ダンジョンがわかりやすいってのはRPGの定石だけど、こんな隣り合わせで森マップが連結するだけだなんて容量の無駄だよ」
明夫が臆することなく不気味な森へ足を踏み入れると、古臭いSEとともに風景とは真逆な陽気なBGMが流れた。
まるで子供がお気に入りのおもちゃ箱をひっくり返したような曲だ。
その絶妙なアンバランスさに明夫はご満悦だった。
「これぞジャパニーズファンタジーの妙技だよね。ゲーム音楽の作曲家が、どれだけ世界観を広げてきたかだよ。RPG然り、アクション然り、SLG然りね。僕らに異世界という奥行きを与えてくれた。そしてそれがわかっているのは……やっぱり……君たちだと思ったよ。親友達よ」
明夫は両手を広げると、三人分の影が遠くに映る草木生い茂る細道をぐんぐんと進んでいった。
目指した場所はレンガの塀に囲まれた森の一部。家の中ではなく家の外だ。
しかし、そこに似つかわしくない、多機能デスクとゲーミングチェア。傍らにはカラフルに輝くゲーミングパソコンが無駄に稼働中であり、ブーンとファンが回る低い音が、イビキのようにかすかに響いていた。
「ようこそオタクの夜会へ。今の議題はASMRを聞く時にどのイヤホンを使うかだ」
そう机から動かず言ったのは赤沼だった。それも頭にはウサギの耳がついている。
「さすがだよ……片耳が折れてるうさぎ耳。世界は違えど、親友の中身は一緒だ。ロボットの映画の劇場版と一緒。異世界でも親友は親友のままだ」
明夫は何一つ不審がることなく、充電コンセントと不要になったパソコンマウスとキーボードで出来上がったゲートを通り抜け、見慣れたセッティングがされているパソコンの前へ腰を下ろした。
「細部の再現よし。これはアニメ化したら盛り上がるぞ! そのままの制限じゃなくアップデートもされてるんだもの。最近僕がハマってる【ツイてる日】っていうアニメのパケの飾り方まで同じだもの。昨日配置を変えたばかりだっていうのにだよ。それで今日のオタクの夜会の議題はASMRだっけ? 自律感覚絶頂反応について語れるなんて……幾千の詩を作るより有意義だよ。僕はやっぱり素人がASMRに手を出すのは反対だね。特に咀嚼系。自分の口内環境が反映されてるなんて考えてないんだから、僕らが聞きたいのは歯周病の音じゃないだろう?」
「アキオ……。僕らの議題はイヤホンはどれがいいかだ。オカズを食べ尽くしたオタクの重箱の隅をつつく意見を聞きたいと思うか?」
赤沼がやれやれと頭を振ると、サラサラのおかっぱヘアーとともにウサギ耳が揺れた。
「その問いにはこう返させてもらうよ。環境音ならばやっぱり奥行きが出来るヘッドホンだろう。耳元で喋るようなイチャイチャ系には……」
「アキオ……。その議題は終わった。既にイヤホンだけに焦点を絞り、耳の穴を密閉しないインナーイヤーか、耳の穴を密閉するカナル型かだ」
コスプレ帽子を被った青木は赤沼と同じように、やれやれと頭を振った。
「それってイヤーピースの話題にまで広がって、全然答えを出さないオタクの議論ってやつだろう。……答えを出さない不毛な議論って最高! じゃあ、こうしよう。骨伝導イヤホンはどうするかも加えよう。長時間装着してても負担が少ないというのは、最近の時間をエサに生きるオタク達には必須なアクセサリースキルだと思うんだけど」
「当然考えたさ」と赤沼はモニターアームを曲げてアキオに、骨伝導イヤホンのカタログ画面を見せた。「開放感の逆は閉鎖的。世界がアニメキャラクターの実在を認めるのなら別だけど、現代日本ではアニメ国として認められていない。残念ながら僕らは閉鎖的な世界じゃないと、オタク活動を続けられない」
「要はエッチなコンテンツの活用のたびに、高性能ノイズキャンセリングイヤホンと骨伝導イヤホンを取り替えるのは面倒ってこと」
正直に心の内を吐露する青木に、思わず赤沼が「青木!!」と名前を叫んだ。
「本当のことだろう。昨今オタクコンテンツの風紀が乱れてきてる。乱れると、偏見という名の常識に正される。時代は一分一秒乱れてると言うのに……実に嘆かわしいと思わないか? まるで【グリストテレスの丘】に吹く【ゴードンの魔力風】のようだよ」
オタク三人は『渦巻く魔力に寄る崩壊は止められない……』と声を揃えた。
グリストテレスの丘というのはゲームであり、このセリフは主人公とその仲間達が決起するワンシーンだ。
オタク向けのゲームというわけではないが、このシーンを選ぶのは相当こじれた感性の持ち主ということ。
盛り上がる影は三つ。
最初に見えていた影も三つ。
明夫が加わる事により影は一つ増えて四つになるはずだ。
しかし、三つということは一人この盛り上がりに参加していないものがいるということだ。
明夫の親友ばかりが集まったこの空間。たかしは既にうさぎとして出ているので、残りは一つということになる。
机に突っ伏して寝ているのは金髪頭。芳樹だった。
「君も今日はどこかのキャラクターの誕生日の夜会に参加したなら、意見を述べたらどうだい?」
赤沼はゲーミングパソコンから発せられるカラフルなライトに照らされた芳樹の金髪頭を見て言った。
「寝たふりしてるのに気付けよ……」
「だからネタ振りしただろう。君の持つイヤホンはヒップホップやミーム的ポップミュージックを聞くだけのものじゃないはずだ?」
「あのなぁ……エロ動画なんてイヤホンで十分だろうが」
芳樹が不毛な議論はやめろと言うと、三人は聞こえるか聞こえないかの声量でボソボソ話し始めた。
明夫は「二人共聞いた?」と眉間にシワを寄せた。「眠たいこと言ってるよ……。どうせゲームのサウンド設定もまともに見直したこともないんだろうね。そうしてゲームがつまらないとか言い出すんだ。コンフィグ設定くらい見直せ!」
「許してやって……」とすかさず青木が庇った。「彼もまた行き急ぐ現代で、足を止めるしかなかったデジタル古代人なんだから」
「オレを混ぜるなって言ってるんだ」
「混ぜたんじゃない異世界にキャスティングしたんだ。子供向けの劇場版アニメによくある展開だ。異世界の主要な住人は、身近な人物で賄われる。当然だよね。新キャラばかりならそれは新アニメだ。初心者に優しくない。つまり僕は異世界初心者ってわけ。当然だよね。まだ来たばかり。この世界の仕様すら理解できてないんだもん。せっかく最強シナジーの防具を合わせたっていうのに、今はただの布の服って感じ。どうやら装備が見た目に反映されないタイプの異世界らしい」
「わかった……」と芳樹は諦めの表情を浮かべると、「話題を変えよう」と自分が得意な話題へ舵を切ろうとした。
「さすが親友……」と青木が感嘆の声を漏らした。「僕も話題を変更するべきだと思ってた。女性関係の暴露が盛んな昨今。僕たち童貞の価値が上がっているのではないかと――そう言いたいわけだな。なあ親友」
赤沼は「本当かい!」とテンションを上げた。「誠実な男がモテる時代がいつかやってくると思ってたんだ」と腰元で拳を握った。
「そういうことじゃなくてよ……」
うなだれる芳樹の肩を青木が叩いた。
「心配するな。金髪は調子の良い親友ポジションの他にも、いえーい! オタクくん見てるーポジションも獲得できる。いつの時代だって居場所のあるアイデンティティだよ」
「そういう心配をしてるんじゃなくてだな」
「ちょっと! これは僕の異世界転移だ。君たちとドタバタ日常コメディーを繰り広げるつもりはない!」
明夫が叫ぶと視界は一瞬にして赤色の光に染まり、思わず目を閉じてしまった。
それ以上の異変はなく、恐る恐る目を開けると、眼の前には巨大なお城がそびえ立っていた。
「私のラブコメだったのよ!」というマリ子の怒声と、場面が切り替わるのは同時だった。
「どういうことだ!」
「こっちのセリフ。たかしとのデートを邪魔した罪は重い。即刻首をはねなさい!」
玉座の間で、ハートの女王に扮したマリ子が片手を上げると、下品なジョークトランプの兵士が明夫を取り囲んだ。
「ちょっと待った! 僕がこんな異世界転移を望んでたと思うかい? 最初のボスがマリ子? 声優があーたんでもないのに?」
「違うわよ。これは私とたかしの愛の物語よ。現実世界へ帰らないとデートできないじゃない。さてはアンタね! 現実世界への鍵を持つたかしの邪魔をしてたのは!!」
「たかしが!? 鍵を持っているだって! あの時計か……。様々な次元の扉を開く鍵……。異世界ものでも時代遅れだよ……必死に現代へ帰ろうとするだなんて……。今は異世界を思う存分楽しむんだ。たかしにはオタクの再教育をしないと……」
「アンタも現実世界へ帰る鍵を探してるのね」
「違うよ。僕は異世界で生きるための糧を探してる。ついでに言えば母性たっぷりぽっちゃりエルフと、ワーウルフの娘でバーサク曲のある戦士タイプの獣人だろう。他にも――」
「違わない……。首をはねる。そのほうが世界の平和は保たれる。直々に私が首をはねてあげるわ」
マリ子は威厳たっぷりに立ち上がると、片手に刃渡りの長い鎌を持った。
「そんな……【デスデザイン】を装備できるだなんて……。死の造形者に認められた女なのか!」
明夫は驚愕した。
マリ子が持っている装飾たっぷりの大鎌は、ゲームに出てくるレア武器そっくりの見た目なのだ。
これがゲーム通りなら勝ち目はない。だが、マリ子は最強武器を驚くほどたやすく手放した。
「違う……」
「違わない! レッドアイデビルの片目の宝石装飾が証拠だ」
明夫が指を指すと、留め具に使われた赤い目の宝石がギョロッと動いた。
「これじゃない……」マリ子はデスデザインを捨てると、装飾の全くされていない真っ白い別の鎌を持った。「これでいいわ」
「まさか……うそだろう。裁きの天使グランデが雷鎚を落とす時に振るう――静寂を切り取る【真空の鎌】まで装備できるのか?」
「違うって言ってるでしょう! もっと普通の鎌がないわけ?」
「言わせてもらうけど大鎌っていうのは、刃の厚や長さから、柄の装飾に至るまで、ファンタジー要素満載の武器だよ。必ずしも登場するとは言えないけど、武器に鎌があるってだけでキャラクターの造形美を深く想像するオタクは少なくない。なぜならスピードタイプに鎖鎌を持たせることもあれば、戦士タイプにバカでかい斧のようにゴツい鎌をもたせることもある。それに魔法タイプの武器にもピッタリ。まさに多様性の武器といえる。そんな武器に普通があると思ってる? 僕の頭の中にある大図書館には、当然武器コレクションもある。君にも大図鑑を見せてあげたいくらいだよ。王道ファンタジーから現代ファンタジーにSF。果ては戦隊モノに至るまで、様々な武器が説明付きで記されている。リメイク前後の帳尻合わせだってバッチリだ。これを現世では攻略本と呼ぶ。異世界における中でまさにチート級の知識。そう僕の脳みそこそチート能力なんだ」
「もういや……こんな世界でまでアンタと不毛な議論を繰り広げるのは」
マリ子はその場に力なく鎌を落とすと、明夫に背中を向けた。
「逃げるつもりか!」
「逃がすのよ……。鍵がひとつ分なら、アンタがいない世界こそ。私が望む世界」
「待った! 逃がすって僕をか? 現実世界へ?」
「そう言ったでしょう!」
「君は血も涙もないのか! ここが僕のスタート地点なんだぞ! 様々な異世界への扉になるかも知れない。それを追い出すのか!」
いつの間にか海外のカトゥーンアニメに出てくるようなわかりやすい爆弾ロケットに体をくくりつけられた明夫は、今まで出合ったことのない個性豊かなキャラクター達に『アキオ! アキオ!』と合唱されていた。
「みんなも賛成だって」
「覚えてろよ! 僕は絶対ここへ戻ってくるからな! 異世界への扉の鍵の手に入れ方はもう知った!」
明夫が叫ぶのと同時に体に浮遊感を感じた。一瞬の立ち眩み。再び目を開けると、見慣れた天井に貼られたアニメのポスターが目に映った。
「明夫? よかった……うなされてたから心配したんだ。いくら声をかけても起きなくてさ。もう夜中だ。そろそろ水分補給をしたほうがいいと思って」
心配するたかしに向かって明夫は「バカだ……」とつぶやいた。
「なにか言ったか?」
「バカだよ! バカ! たかしみたいなバカ正直とマリ子みたいな単純なバカがかかる風邪! そのウイルスこそが異世界へ侵入するための鍵なんだ! これは本当だよ! だってこの目で見たんだ!」
「私が異世界の住人だったら、アンタを追い出すけどね」
水の入ったコップを持ったマリ子は、寝起き早々うるさい明夫に呆れた。
「まさしく! 君はそう言ってた! 問題は君が大鎌を――」
「誰がオカマだって!」
マリ子が怒鳴り散らすと、短い夢の話はすっかり明夫の記憶から消えてしまった。




