第二十話
「おはよう……」
たかしのガラガラの声が聞こえると「ちょっと……大丈夫?」とマリ子が心配した。
「大丈夫じゃないかも……。喉にガラスが刺さったみたいだ。鼻水も止まらなくて苦しい」
マリ子は「よしよし」と頭を撫でると「かわいそうに」抱きしめた。
「原因は汗を拭かないまま寝たことね。暑さで弱った自律神経にクーラーの使いすぎで乾燥した喉。風邪を引くには十分ね」
京はたかしのおでこに体温計を当てると、熱がないことを確認した。
「魔女が風邪をうつしたんだ」
明夫は非難の瞳でマリ子を睨んだが、その視線が誰かと交わることはなかった。
「救急車を呼ばなくて大丈夫かしら」
心配しておろろするマリ子と違い、京は冷静だった。
「ただの風邪でしょうね。長引くようなら病院に行ったほうがいいけど、安静にしてるのが一番よ。夏休みで良かったわね」
「ただの風邪? こんなに喉が痛いのに?」
たかしは信じられないと声を大きくするが、声は喉をヤスリかけたのようにしゃがれていた。
「そうよ! こんなに苦しんでるのよ!」
マリ子はたかしを強く抱きしめて非難するが、京はそのクールな表情を崩すことをしなかった。
「喉の炎症は刺激物のとりすぎだと思うわ。最近芳樹君と飲むことが多いでしょう? アルコールは喉に悪いし、そのおつまみも喉に負担がくるものが多いのよ」
「……身に覚えがある」
たかしはここ最近のことを思い出していた。
ユリとのマリ子のデートの取り合いは続いており、負けては居酒屋で芳樹に愚痴っていたのだ。当然毎日のように飲んでいたわけではないが、急に始めた運動の疲れや夏の暑さと相まって免疫力が低下していたので、遅かれ早かれ体調を崩していたのは予想できた。
免疫力が落ちたところへ、マリ子の看病。
風邪をひくには十分すぎるほどの条件が揃っていた。
恨みがましいたかしの視線に気付いたマリ子は「わかったわよ……治るまで面倒見てあげるわ。今日の夜の食事は私が作るわね」
マリ子が肩を貸して寝室へ運ぼうとすると、明夫が急に声を荒らげた。
「うそ! 風邪引いただけで当番代わってもらえるの!? 僕なんか新作アニメの上映と被るから代わってって言ってもダメだったのに!! こんなの不公平だ!!」
「ならアンタが風邪を引いた時も看病してあげるわよ……」
「誰がとどめを刺してくれって頼んだ」
「わかったわよ……。まずたかしを部屋に運んで寝かせる。その後アンタを永眠させる」
マリ子は明夫をひと睨みすると、たかしを安静にさせるために彼の寝室へと向かった。
「こんなのって酷いよ……」
「たかし君も大変なのよ。わかってあげて」
いつもの偏屈を貫き通そうとしてるのだと思って京は明夫を窘めたのだが、明夫は眉間にしわを作って首を横に振った。
「たかしが大変だって? 大変なのは僕らだ。僕らは今日――マリ子が作ったご飯を食べることになるんだぞ。今日はバイトの残り物もないし、下ごしらえも済んでない。僕らが病人になっちゃうよ」
「大丈夫よ――私達が手伝えばいいんだから……」
マリ子の料理の腕を知っている京ははっきりとは否定せず、別の選択肢で答えた。
「恋愛モードに入ったマリ子が人の手を借りると思う? 今は恋人の面倒を見る自分に酔ってる最中だ。全部自分でやりたがる」
「そうね……たかし君を一人で部屋まで連れて行ったのが裏付けになってるわ」
たかしは中肉中背の男で。マリ子は少し力持ち程度の女の子だ。力なく項垂れる病人を楽々運べるわけがない。
普段のマリ子なら、明夫に任せるか京に手伝いを頼む。
母性本能をくすぐられたのか、庇護欲を掻き立てられたのかはわからないが、明夫の言う通り自分が面倒を見ることに価値を見出しているのは明らかだった。
そうなると頑固になるのは京も経験済みだ。
「困ったわね……。私達だけ外に食べに出ると……帰ってきた時は救急車が止まってるかも」
「ずるいよ! 見知らぬ天井だ――を現実世界で言える機会があるだなんて!」
「そのまま一生口を開かない可能性もあるのよ」
「それって異世界に転生するってこと? なおのことずるいよ!」
「私は真面目に言ってるのよ」
「僕だって真面目。マリ子の創作料理を食べなくて済むうえに、おっとりエルフにポンコツアンドロイド娘。それにマンモス校の学園長の娘。皆にチヤホヤされるんだ。君だってそっちの世界が良いだろう? 待った……君みたいなカッコいい女が一緒に転生されたら困るよ。百合向けタイトルに変わっちゃう。君は現実世界で強く生きてくれ。それこそが君の生きる道だ」
「ありがとう……感動しちゃうスピーチだったわ」京はため息を一つ挟むと「それで、どうしましょうか。どうにかしてマリ子を手伝わないと……」と意見を求めた。
しかし、明夫は「知らないよ」と全く協力的な姿勢を見せなかった。
このままではいたずらに時間過ぎてしまうので、京は使いたくなかった奥の手を使い、明夫に協力を仰ぐことにした。
「明夫君――いえ、ミスター明夫。あなたに任務を与えるわ」
いつも異常にキリッとした口調で京が言うと、明夫はものさしでも入れられているかのようにピンっと背筋を正した。
「その声は……悪の女幹部ミヤコ様!? ……セクシーフォルムじゃないバージョンの」
声だけは合格点だとでも言うように、明夫は不服の視線を浴びせた。
「今は極秘ミッション中で一般人に偽装してるのよ」
「さすがボスだ!」
「ボスね……成り上がったのか……身を落としたのか……。とにかく、あなたに送るミッションはマリ子の計画を邪魔することよ」
「わーお……それってチープだよ! そんなチープな司令は昭和のアニメ並だ! 僕感動しちゃった……。今なら爆発に巻き込まれても、チリチリヘアーと肌が少し焦げるくらいで済みそうだ!!」
明夫は純粋に褒めたつもりだが、それを京は考えが浅いと言われた捉え、珍しく精神的にダメージを食らっていた。
「いえ……いいわ」と気持ちを切り替えると、改めて「マリ子の計画を本人に気付かれないよう邪魔するように」と司令を出した。
すっかり乗せられた明夫は、どこで覚えたのか妙に姿勢の良い敬礼をした。
そして「了解であります!」と軽快な足取りで一旦自分の部屋へと戻ったのだった。
同じく一旦部屋へと戻った京だったが、その足取りは鉛をつけたかのように重いものだった。
「さあ! やってやるわよ! マジマジのマジでね」
マリ子はエプロンを着けると、颯爽とポーズを取った。
「ちょっと待った……それなに?」
レシピ本を片手に持って戻ってきた京は、マリ子が自分と同じようにして持っているものを見て驚愕した。
「なにって小麦粉よ」
「小麦粉をどうするつもり?」
「練るに決まってるでしょう。なぁに? 尋問するつもり? それなら京の警察のコスプレが見たい」
気合が空回りしているマリ子。どうやら小麦粉から病人食を作るつもりでいるらしいと判断した京は、そんな危ないものを食べさせる訳にはいかないとマリ子の前に立ちはだかった。
「マリ子……。よーく思い出してみて。子供の頃風邪を引いたら何を食べさせてもらった」
「みゃーこ……。何を食べたかじゃない。どう成長したかよ」
マリ子は胸を張ると、育った胸を見せつけるようにして京の前で揺らした。
「今それをたかし君に食べさせちゃダメよ。悪化するから」
「禁断の果実っておっぱいのことだったの? そりゃ揉め事の原因になるわけね。二つあるからって二つに分ければいいってもんじゃないしね。……もしかして! 禁断の果実ってポルノ小説だった!?」
「いいえ、違うわ。禁断の果実はこれよ」京はおかゆのレトルトパウチを取り出した。「文明の進化とも言うわね」
京がマリ子の説得をしているあいだ。
明夫は自室からたかしの部屋へと移動していた。
「まったく……君はバイトの代わりを引き受けただけじゃなく、風邪まで引き受けたのか? ……それって異世界から逆輸入した特殊能力だったりする?」
「しない」
「なーんだ」
「もしかして殺しに来た?」
熱で潤む視界で、たかしは明夫の顔を睨みつけた。
「残念ながら暗殺指令は出てない。僕に出された司令は――」
「正体を隠して人間社会に溶け込むことだろう。溶け込めてないぞ」
「僕に出された司令は情報を混乱させること。どういうことかわかる?」
「SNSをやる?」
「たかし……君は普通におりこうで、普通におバカだから困る……」
「困ってるのはオレ。風邪で弱ってる親友に安らぎを与えようとか思わないのか?」
ベッドから体を起こして文句を言おうとするので、明夫は制して再び寝かせた。
「思ってるよ。だから僕がここにいる。わかってる? 僕は二重スパイなの。君を守る本物のヒーローさ」
明夫がニヤリと下手くそな笑いを浮かべると、遠くからボウルを落とす盛大な音が響いた。
続いてマリ子の悲鳴。
そして、一番小さいはずの京のため息がなによりも響いたような気がした。
「……爆弾でも作ってるのか?」
「爆弾は君たち二人だろう。火薬とライターがセットになってるようなもんだ」
「嫉妬からの苦情は受け付けないぞ……」
「それ本気で言ってる? 僕らは君たち二人に振り回されてるんだぞ」
「僕らじゃなくて、明夫一人だろう。ゲームの相手が一人減ったから」
「本当にそう思ってるなら、たかしとマリ子。二人きりで最後にデートした日はいつさ」
「この間もしたばかりだ」
「この間って一緒に夕飯の買い物をしに行っただけだろう」
「それもデートなの」
相変わらずわかっていないという表情をしたたかしだったが、明夫もまったく同じ表情をしていた。
「デートって映画を見たり、水族館に行ったり、一緒に旅行の計画を立てたりするもんじゃないの?」
「それは恋愛シミュレーションだろう」
「じゃあ現実では映画を見たり、水族館に行ったりしないの?」
「それは……」とたかしは口ごもった。
最近のデートというデートらしいことをした覚えがなかったからだ。
ユリとマリ子の取り合いをしているので、なんとなく盛り上がってるように感じていたのだが、結局は買い物の延長線上ばかりだった。
その時の会話もボスと朱美店長の話ばかりで、自分たちの近況を話すことはなかった。
ルームシェアの弊害といってもいい。新鮮味がなくなってしまっていたのだ。
「言っとくけどね。会えない時間が愛を育むっていうのは僕だってわかる。初回限定の予約特典が今日届くか明日届くか、この期待感と焦燥感はデジタルだけでは味わえない。現実の出会いだよ。そう思うだろう?」
「やめてくれ……熱が出てる状態で混乱するだろう……」
それだけ言うと、たかしの言葉は寝息へと変わってしまった。
その頃。京も同じ質問をマリ子へ投げかけていた。
「ところで……。どうしちゃったの? マリ子らしくない恋愛をしてるけど」
たかしと違ったのは、マリ子には自覚があったことだった。
「わかる? 正直混乱中」
「なにを混乱してるのよ。ユリが原因なら、私が引き受けるわよ。事情を話せばわかってくれるはずだもの」
「ダメ! それは絶対ダメ! 今はユリだけが心の拠り所なのよ」
「あら、それは心外ね」
もちろん京は本気で言ったわけではない。
マリ子もわかっているのだが、言葉には焦りが出ていた。
「本当に違うの……全部私のせい」
「全部? 嘘でしょう……」
マリ子が自ら非を認める謙虚な姿勢を見せたことなどなかったからだ。
それが全面自分のせいだと宣言するのだから、京は一大事だと感じ取っていた。
「どういう意味よ……」
「そのまんまの意味よ。付き合ったばかりのラブラブのときならともかく、一度別れた相手よ。マリ子の口から自分のせいだなんて言葉が出るだなんて……。ハム子にも聞いてみる?」
「そこが問題なの。一度別れたのよ。二度も私のことを好きになってくれた人なんていないんだもん。正直どうしていいのかわからない……」
マリ子がしゅんとうなだれると、ようやく京は合点がいった。
「それで他のカップルに寄生して、感覚を取り戻そうとしているのね」
マリ子が熱を上げているのは直近のダブルデートの予定だけではない。
青木が勝手に明夫の名前で登録したマッチングアプリの返信も考えているのだ。
他人のことばかりで、すっかり自分の恋愛はおざなりになってしまっていた。
「普通そういうのは夫婦が陥るマンネリよ」
「大きい子供もいるのよ。夫婦みたいなものよ」
「デートらしい話題はしてる?」
「……ユリの話ばっかりしてる。しょうがないじゃん。共通の仲なんだから、共有できる話題は同じなるの。あーうそ……やだやだ。こんなの二十代の会話じゃない……。ヤバい! デートしないと!」
マリ子は「デートするわよ!」とたかしの部屋へと乗り込んだ。
起こされた呆然とするたかしに、明夫は「なっ? 僕は暗殺者じゃなかっただろう」と付け足すと、マリ子の代わりにレトルトパウチを温めに行った。




