第十九話
「うーん……」という熱に浮かされた悩まし気なうめき声は、ソファーの上に寝転がるマリ子のものだ。
「マリ子……ちゃんとベッドで寝てないとダメじゃない」
京は床に落ちたタオルケットを拾うと、彼女に優しくかけ直した。
「もう優しいんだから。だから京が一番大好きよ」
「マリ子の彼氏君は、風邪を引いたあなたの代わりにバイトに行ったんじゃないの?」
「たかしは大好きじゃなくて愛してるの」
「そうね、それ以上熱を上げないように。それじゃあ、私もバイトに行くわ」
「えー! えー……たかしに代わってもらえば?」
「たかしくんが分裂できるようになったら考えるわ。早く部屋のベッドに戻りなさい。悪化するわよ」
「じゃあ抱っこして」
「病原菌も抱っこしてバイト先に行けっていうの?」
「わかったわ……お見舞いはアイスでいい」
マリ子がわざと弱々し声で吐息混じりに言うと、京はため息を一つ挟んで「わかったわ」とマリ子の頭を撫でて出ていった。
風邪の時にどこか心細くなるのはわかっているし、弟が風邪を引いたときと同じようなことを言っているので、この程度の甘やかしで元気になってくれるならと思ったのだ。
残されたマリ子は、熱によって浮かんだ涙ににじむ視界の先でうごめく影を見つけた。
「なにしてるのよ……」
マリ子が声をかけると、明夫がおずおず「大丈夫?」とソファーの影から顔を出した。
「大丈夫じゃないわよ。見たらわかるでしょう。絶不調よ、絶不調」
京に対しては甘えていたマリ子も、明夫が相手になると表情が変わる。
それは明夫が自分の心配をしているわけではないのがわかったからだ。
「大丈夫か聞いたのは。早くどいてくれるって意味。僕はアニメが見たい」
「私はアンタが苦しむところが見たいわ……」
「僕はリビングの一番大きなテレビでアニメが見たいんだ。そんなこともわからないわけ?」
「私も同じ気持ちよ。リビングの一番大きなテレビでアンタが苦しむさまを見たい」
それだけ言うと、マリ子は力尽きたようにクッションに顔を埋めた。
「しょうがない……絶対にうつさないでよ。せっかくの夏休みに風邪を引いて無駄な時間を過ごしたくない。僕は緻密に計算された時間を生きてるんだ」
明夫は五からカウントを始めると、一でテレビの電源をつけた。
ゼロのタイミングで朝のアニメが映ると、自慢げに口の端を吊り上げて笑みを浮かべた。
「本当……バッカみたい……」
マリ子は横目で明夫の行動を眺めていた。
「言わせて貰えば、夏風邪はバカしかひかない」
「言わせる権利を与えてないんだから喋んないで、アンタこそバイトを入れなさいよ。そしたら一人でゆっくり眠れたのに」
「それは無理。君は夏休みに特別放送されてる『横島さんと邪推するネコ』のオープニングを見てもそれが言える? 二十年前の名作アニメだ。見てよ、このセル画の質感。芸術だと思わない。デジタルでは表現できない暖かさ。こういうがオタクの心を温めるんだよね」
「十歳児向けアニメに何言ってるのよ……」
「侮ることなかれ、今年の夏は懐アニメがブーム。横島さんと邪推するネコもリメイクされて、あの日の少女がママになったんだ……。あんなに胸が成長するだなんてね……。僕の働くスーパーでも食玩祭り。大きいお友達が時代を買い直す風景が広がってる。棚に商品を補充する僕の気持ちがわかる? こんなに誇らしいことはない」
明夫がうっとりとした表情で語っているのを、マリ子は怪訝な表情で見ていた。
いつものように理解できないことを言っているからだけが理由ではなかった。
「ねぇ、なんで明夫はスーパーでバイトしてるわけ? オタクってもっと働きたい場所が違うんじゃないの? どこって言われたら浮かばないけど」
「どうしてさ。スーパーは最高のバイト先だよ」
「私の友達も高校の時スーパーでバイトしてたけど、クソガキとクソ主婦とクソジジイにキレて一週間で辞めたわよ。日本が銃社会じゃなくてよかったわねって捨て台詞を残して」
「わかってないね。スーパーっていうのは現実と異世界が、薄くだけど確かに繋がってる場所なんだ」
「意味わかんない……」
「なにかの拍子に向こうの世界から、なにかがやってくるかも知れないってこと」
「意味わかんない……。これって風邪をひいて頭がバカになってるせい?」
「マリ子……大丈夫。君は元々バカだ」
マリ子は「よかった……」とほっと胸をなでおろした。
「熱上がってない?」
「知らない。朝っきり測ってないもの。測ったら余計に具合悪くなりそうだし」
「ならすぐ測って」
「具合悪くさせてどうするつもり」
「静かにしてもらうつもり」
明夫はアニメのオープニングを見逃したと睨みつけたのだが、熱で朦朧としているマリ子は気付かず「ねえねえ」と続けた。
「なんでスーパーなの?」
「さっきもその話題だった」
「だってまだ答え貰ってないもん。ねえねえ、なんでスーパーなの?」
マリ子は恋人に甘えるでもなく、親友に甘えるでもなく、兄弟に甘えるように明夫に聞いた。
「それには答えた。異世界と薄く繋がってるって言っただろう」
「それって自動ドアが開いたら、エルフが酔って叫び散らかしてるバーだったりするわけ?」
「そんなわけないだろう……自動ドアが開いたら、そこはただの店内。それにエルフは叫ぶんじゃない。……歌うんだ。――じゃなくて、君だって認めただろう? モンスターの存在を」
「わかった認める。たまにアンタを本気でぶん殴りたくなる。心にモンスターを飼ってるわ」
「君が心に飼ってるのはクリエイターが勝手に追加した要素の一つだ。世界観にはなにも関係ないのに、オタクが通ぶりたいから語れるだけの要素。僕が言ってるのはゾンビの話さ」
「聞いたわよ。ゾンビから逃げるゲームで生き残るには、ショッピングモールを探せでしょ」
「僕は現実にやってきた異世界ゾンビの話をしてるんだ。シャッフルゾンビにスピットゾンビ。まるでローグライクのダンジョンさ」
「今じゃ自動翻訳機で世界中の人と話せるっていうのに。同じ日本の、それも同じ屋根の下に住んでる男の言葉がわからないなんて……世も末ね」
マリ子は汗で額にはりついた前髪を手で剥がしながら、熱っぽいため息をついた。
「シャッフルゾンビは商品を元の陳列棚に戻さないお客のこと。スピットゾンビは大声で喚き散らして唾を飛ばすお客。存外に厄介なのは徘徊型ゾンビだ。よく見かけるだろう?」
「ムカつく客にあだ名を付けるゲームをしてるわけね。ただ歩く客にも文句言うつもり?」
「徘徊型ゾンビのこと言ってる? これはただ買い物をするお客のことを言ってるんじゃない。土日祝日と年末によく現れるゾンビさ。後ろ手に手を組んで、混んでる店内をただ歩く。買い物に慣れてない父親や祖父がよく感染する。期間限定イベントとも言えるね」
「で、アンタはそれを撃ち倒すってわけ?」
「剣と魔法の世界の次は、銃の世界だとでも思った? 君は何世紀前のオタクを語るつもりだい?」
「……オタクを語ったつもりはない。じゃあなに宇宙からレーザーでも撃つわけ?」
「確かに一時期困ったら宇宙を出しとけっていう風潮はあった。でも、たかだかスーパーに超大型レーザー。通称エルフの涙を使って、プラズマ衝撃波で破壊すると思うかい?」
「私が言ってるのはただのレーザー。次勝手に名前をつけたら、命名権争いするわよ」
「まったく……。すぐ人間は争いたがる……」
明夫の嫌味ったらしいため息は、マリ子の鼓膜にこびりつくように耳に届いた。
「ちょっと……エルフ気取りのおたくさん。ゾンビやらなんやら言い出したのはアンタよ」
「異世界と繋がってるって言っただろう。今は戦闘だけが戦いじゃないんだ。知恵とスキルでスマートに生き抜くのが、現代異世界転生学だよ。絶えずなだれ込んでくるゾンビ達。僕は品出しをしながら、どう切り抜けるか考えるんだ。大抵のゾンビの攻略法はわかってきたけど、子連れゾンビだけは難しいね。彼らは途中で様々なゾンビに進化する。毒ガスゾンビだったり、絶叫ゾンビになったりね。酷い時は仲間割れまでしてるよ。最近は自動レジが増えたせいで……って聞いてる?」
明夫の突飛もない話題に飽きたのか、薬が効いてきたのか、話の途中からマリ子はウトウトと船を漕いでいた。
明夫が話の途中だと体を揺するが、逆にそれが揺りかごのように心地よくなり、深海に沈むように意識が途切れていった。
朝アニメのことを思い出しテレビに目を向ける明夫だったが、ちょうどエンディングが終わりCMに切り替わるところだった。
やるせないとため息をつくと、明夫のスマホにたかしからメッセージが入った。
『マリ子さんの様子はどう? 汗がひどかったら着替えるように言って。くれぐれも眠ってる時は邪魔をしないように』
「僕の心配はゼロ。病原体と一緒に閉じ込められたって言うのにだ。親友が聞いて呆れるよ。汗が酷いって……汗なのかシャワーを浴びた後なのかわからないよ。僕のお気に入りのソファーに汗じみが……」
マリ子より、アニメを見るためのくつろぎソファーが優先の明夫は、どうにかしてこの状況を打破しなければと考えた。
マリ子を部屋に運ぶのが一番だが、自分にそんな力がないことはわかっている。赤沼はまだマリ子に気があるので呼べばめんどくさいことになる。青木一人呼んだところで、非力という文字から変わることはない。
頼れるのは芳樹なのだが、赤沼より入り組んだ話にはなるのはわかり切っていた。
やるべきことは一つだ。
「僕が脱がすしかないか……。神様……どうか僕に力を」
明夫は鉄の玉のような重いつばを飲み込むと、自分の頬を数回叩いて気合い入れた。
「大丈夫だ。もっと酷い有様を僕は見たことがある。思い出せ銭湯に連れて行かれたあの日を……。老婆の垂れた乳で首を絞められる夢を見たあの日を……。ああ……思い出さなければよかった……」
明夫は深呼吸をすると、マリ子のシャツに手をかけた。
「こんなにくっついてるだなんて……。これは剥がすのに苦労するぞ」
シャツがめくれヘソが見えた瞬間。マリ子が咳をした。
「こんな時に発作か……。落ち着け、咳をしたからって内臓からひっくり返るわけじゃない」
明夫はアスリートが気合を入れるように、勢いよく息を吐き出すと、思い切ってシャツをまくり上げた。
汗でベタベタのシャツは一度肩で止まったが、そこまでシャツがめくれれば脱がすのはあっという間だった。
眼の前にはブラと大きく膨らんだ二つの山。
マリ子が苦しげな呼吸をするたびに、上下に震えるように揺れた。
並の男だったら理性が揺れるかも知れないが、誰でもない明夫だ。
嫌悪に目を細めるのはすぐだった。
「何十年後のこれに首を絞められたのか……。悪夢が蘇るってこのことだよ……。それにしても……ここまで酷いとは……。開くには道具が必要だ」
ブラジャーのホックの外し方など知っているはずもなく、スマホで検索すると、汗だらけのマリ子の肌に触れたくないので孫の手と定規を用意した。
「こんな道具しかないだなんて……。悲観的になるな……僕なら出来る……絶対にできる。手術は成功する。ブラを摘出できるはずだ。もう腸の手術より簡単だ」
明夫は背中に孫の手と定規を差し込むとゴソゴソ動かしたのだが、背中の接地面はソファーにくっついている。
どんな奇跡が起きても不可能だ。
だが、奇跡の形が変われば別だ。
寝ぼけたマリ子が、自らブラを外して放り投げたのだ。
突如としてあらわとなった乳房に、明夫は膝をついて絶望した。
「嘘だろ……こんなことってある? おっぱいに骨がなくなっちゃった……。現実世界では二次元に起こらないことが起こるんだ……。僕にはこの先を見る勇気はない」
明夫は明らかに嫌な顔をしながらマリ子の上半身を服と着替えさせた。
下はズボンを取り替えるだけ。それ以上はとても出来そうになかった。
夕方になり、マリ子が「明夫!!」と怒鳴ったのは、裸を見られたわけではなく、アニメに出てくる警察のコスプレ衣装に着替えさせられていたからだ。
「怒んないでよ! 僕だどれだけ苦労したかと思ってるんだ」
「アンタねぇ! いや――そうよね……」
マリ子は一旦言葉を飲み込んだ。明夫の性格を知っているので、生身の人間を着替えさせるのは相当苦労したのはわかっている。
「そうだよ。お風呂掃除で黒カビを落とすと同じくらい大変だった」
「やっぱ許さない」
一汗かいてスッキリしたマリ子は明夫の頬をつねりあげると、汗をシャワーで流しに行った。
残されたのは、帰宅してマリ子を起こしたたかしと明夫の二人だった。
「明夫……」
「なに? 僕だって好きでマリ子の胸を見たんじゃない。ブラジャーから放たれた瞬間のおっぱいを見たことある? あんなのおっぱいの発破解体だよ。ブラジャーって本当に防具だったんだ……。重力からの攻撃に耐えるための防具」
「明夫……」
「わかったよ。不可抗力とは言え、たかしの恋人の胸を見て悪かった」
「違う。あのコスプレ衣装の下は?」
「ミニスカガーターのこと?」
「そんな素敵な名前がついてるのか? さすが親友!!」
たかしは明夫をハグすると上機嫌で夕食の支度を始めた。
一度誰かが着たコスプレ衣装など明夫が取っておくわけもなく、マリ子のものになる。
それはたかしにとっても幸せなことだった。
「本当……現実ってわけわかんない。やっぱり僕は……おっぱいが重力に勝つ世界が一番だ」
明夫はやれやれと肩をすくめると、朝に見逃した『横島さんと邪推するネコ』のリメイク版をテレビに映した。
画面では前作のヒロインが成長して母親になった姿が映っており、ゴム毬のように胸が弾んでいた。