第十八話
「なにもしてないのにパソコンが壊れた!」
マリ子が騒ぎ出したのは、夏休み中に書き終えなければならないレポートがあるからだ。
「タブレット使ったら?」
たかしはローテーブルの上においてあるタブレットを渡したのだが、マリ子は手を伸ばすことなく受け取りを拒否した。
「パソコンを覚えたのよ。今更タブレットなんか使えない」
「ゲーム用のパソコン使ったら、明夫は烈火の如く怒るってのは教えておく」
「それって、愛の炎を燃えさせて共犯関係結ぶってこと?」
「違う。でも……肉体関係を結ぶのには賛成」
「共犯関係よ、おバカ。もうどうしたらいいのよ!」
休みの日まで大学に生きたくないマリ子に、大学のパソコンを使う選択肢は浮かんでこなかった。
「そもそも、なにをして壊したのさ」
たかしは自分で直せるものなら直してあげようと思って聞いたのだが、その優しさとは裏腹にマリ子の表情はどんどん険しくなっていた。
なにか地雷を踏んだとすぐに気づいたのだが、それより早くマリ子の口が開いた。
「聞いてなかったの? なにもしてないのに壊れたのよ」
「マリ子さん……。何もしてないではパソコンは壊れない」
「頼りにならないわね……。じゃあ明夫に聞く」
「無駄だって。その明夫に何度も言われてきたんだから」
たかしの制止も聞かずに、マリ子は明夫の部屋へと押しかけに言ったので、無駄だと思いつつ話が大きくならないように後をついていった。
「頼もう!」と勇ましくドアを開けるマリ子。
突然の来訪に眉間にしわを寄せる明夫。
たかしは次に起こることを用意に想像できた。
勝手に壊れた。君が壊した。二人共一点張りで、口喧嘩に発展。結果、自分が場を収めるのだと。
そして、マリ子が開戦の狼煙を上げたとたかしには思えた。
「ちょっと! 明夫! アンタから貰ったお下がりのパソコン。何もしてないのに壊れたんだけど」
たかしは早速かと思いつつ、二人の間に割って入ろうとした。
しかし、明夫からの返答は今までたかしの人生で聞いたことがないもので、思わず目が点になり口をつぐんでしまった。
「僕も壊れた。文句は受け付けない」
「なによ……そっちも壊れたんじゃない」
拍子抜けしたマリ子は呆然としているたかしに目をやった。
目があったたかしは「パソコンが勝手に壊れることはないって言ったのは明夫だろう!! 何度も何度もオレをバカにしてきたじゃないか!!」と食って掛かるように大声を出した。
その熱量とは逆に明夫は低く冷めた声で「昔と今は違う。令和の世に平成の常識を持ち込むなよ。だから、たかしは情弱だって言われるの。今はアップデートがパソコンを壊しにくるんだ」と言った。
「つい先月だってオレにそう言っただろう!!」
「それは君が変なアダルト動画サイトへ行ったから悪い。見ろ、僕のパソコンもサウンド関係が壊れた。再インストールは本当に手間だよ……」
明夫はパソコンのサウンドデバイスが故障してると当たりをつけると、早速対応を始めた。
「先生……うちの子供も診ないと、画面に映ってるメーターに向かってグーパンチするけど」
「わかったよ。何が壊れたのさ」
「壊れたのはこわれたの。ほら診て」
マリ子はノートパソコンを押し付けたが、明夫は慣れた風にパソコンをセーフモードで起動しアップデート後の不具合を確認し始めた。
「意外……。文句を言われると思ってた」
「パソコンが使えなくなる気持ちはわかるからね。食事ができないのと一緒だよ。心の栄養がとれない」
「初めて……明夫をいい男だと思ったわ」
「ちょっと……やめてよ」
「照れることないじゃない」
「本当にやめて。現実社会というヤスリに心を削られた女に言われても迷惑。栄養をとるって言ってるのに、下剤をのませてるのと一緒。君の心のうんちは自分の心の中で流してくれ」
「やっぱムカつくわ……」
「まあまあ、明夫に任せておけば大丈夫だから」
たかしはこれで終わりだと思った。文句を言いながらも明夫はパソコンを直す。マリ子もレポートに取り掛かることができ、何も問題はないと。
だが、問題は次の呼吸するまもなくやってきた。
「ちょっと……なに? 今のその態度」
突然期限を悪くするマリ子に、たかしは「え?」と驚いた。
「明夫に聞いても無駄って言ったのはあなたよ。それがどう? オタクは直してくれてる。たかしは口だけ。今あなたはなにもしてないのに、一段上からものを言ってるわけ?」
「そんな大げさだよ」
「大げさ? いい? あたなもパソコンのことをわかってなかった一人なのよ。それなのに、なんで急に私一人だけわかってないみたいな態度を取るわけ? おかしくない?」
「おかしくないよ。だって、そこの部分は話題にもなってなかっただろう?」
「つまり、話題にもなっていないのに私のことを見下したってわけ?」
「話を飛躍し過ぎだよ。この前も――」
「それで、何もしてないのに関係が壊れたっていうのか?」
芳樹はアホかとでも言いたげな顔でたかしの目を見た。
今たかしがいるのは大学の学食だった。
用事があるわけではない。あの後マリ子と喧嘩して、家を追い出されたのだ。
サークルで大学に来ていた芳樹と合流し、都合のいいところだけかいつまんで説明したのを、よし気に見透かされたところだった。
「確かに余計な一言を言った……かもしれない。でもだからって追い出すことある?」
「それも聞きたい。追い出されたのか? 逃げ出したのか?」
「追い出されたんだ。頭を冷やして帰ってこいって」
「こんな夏に外出てどう頭を冷やすんだよ」
芳樹はバカにして大笑いすると、大きく笑ったままの口をさらに大きく開け、カツカレーを頬張った。
「冷水を浴びせて楽しいか?」
「なんなら罵声を浴びせてもいいけどよ。友達だからな。よし! 一緒にマリ子の悪口で盛り上がるか!」
「オレの恋人だぞ」
「知ってる。それも二回目のな。だいたいよ、女は男の悪口で盛り上がるぜ? 盗聴器でも仕掛けられてるのか? ……もしそうなら、黙ってチャックを開けてオレは変態ですって叫べ。そうすりゃ向こうには気付かれない」
「築いてきたものが壊れる……学食だぞ。盗聴器なんてもの仕掛けられてないよ……。恋の悩みを茶化さずに聞けないのか?」
「恋の悩みなら聞いてやるけどよ。男のプライドが傷付けられたってだけの話だろう?」
「そんな……ちっぽけなもんじゃないよ」
「ちっぽけ? おいおい……自分に嘘をつくなよ。男ってもんはいつだって振り上げた拳の行き先に迷う生き物だろう。それをただ振り下ろしたら最低の男になっちまうぜ。もちろん暴力じゃなくて、言葉の話だ」
「確かに……マリ子さんには絶対理解できないって思い込んで話してたかも」
「ならやるべきことはわかるな?」
芳樹が優しく笑いかけると、たかしは目を閉じて頷いた。
「ああ」
「振り下ろした手で乳を揉め!! いや揉みしだくんだ!! 気を揉むより、乳を揉む。それが男ってもんだ! なあ皆!」
芳樹が学食中に聞こえる声でいうが、ほとんどが軽蔑の視線を送っていた。
数人からかって拍手をしていた者もいたが、他の生徒の視線が刺さると、まるで犯罪を犯したかのように手をテーブルの下へと引っ込めた。
そしてただの静寂が訪れると、芳樹もようやく周囲の状況に気づいて声を潜めた。
「これってオレのせいか?」
「他の誰かのせいにするには目撃者が多すぎる。なんだっていつも学食で大声を出すんだよ」
「言わせてもらえば大声を出させてるのはそっちだ。こっちは真面目にサークル活動だっていうのに、恋人と同棲中の親友様はちょっと喧嘩しただけで、優しくてスポーツマンで色男の親友に泣きついてくる。理由がわからね。オレなら絶対女に泣きつく。で、乳を吸いながら慰めてもらう。はあ……赤ちゃんになりてぇよ。そう思わねぇか?」
芳樹は一点の曇もない瞳で、まっすぐたかしを見た。
「今のを小声で言ってくれて本当によかったよ……。オレの相談はどうなった?」
「どうせもう謝るって決めたんだろう? だから次はオレの相談に乗ってくれ」
心情を見透かされたたかしは「わかったよ」と吹っ切った。「それで相談はなんだ?」
「聞いてなかったのか? 乳を揉むか乳を吸うかの話だ。それも褒めてくれるんだぜ。赤ちゃんになりたいってのが、オレの相談だ」
「わかった」
たかしはスマホを取り出すと誰かにメッセージを送信した。
「おいおい! まじか!! まじか!? さすが親友! 今ならチューしてやるけどどうする? こんなチャンスは二度とないぜ!!」
てっきり誰か女性を紹介してもらえてると思った芳樹のテンションは一瞬にして上がった。
そして、自分のスマホに着信通知が届くと更にテンションを上げた。
「話が早い。つまりこれってそういうことだろう。どうやらチャックを開けるのはオレの方だったらしい」
芳樹が満面の笑みでスマホを見た。
『親友。君のSOSは受け取った。この問題を解決するには君が赤ちゃんになりたいのか、母性を求めてるかによって変わる。薬と一緒。鼻の風邪には、喉の風邪には。そして赤ちゃんプレイにはだ。幸い僕らが二次元と呼んでいるユートピアには、ママがたくさん溢れている。妹でもママもいると言っておこう。更に――』
「助けてくれるんじゃなかったか? なにかの勧誘メッセージが届いたぞ……」
「青木はオレのSOSを受け取ったの。芳樹のじゃない。これでこの話題は終わるだろう」
「都合のいい話だと思ったぜ……」
「いいのか練習は?」
これ以上この話題が続いたら困ると思ったたかしは、もう昼も終わると芳樹に告げた。
「いいんだよ。学食にいるのが一番だって言ってたからな」
「誰が」
「青木がだよ」
「青木が? なんだって青木が芳樹の練習スケジュールを管理してるんだ?」
「学食が一番出会いがあるんだってよ。なんでも学食は新キャラの湧き水って呼ばれてるらしいぜ」
「それ意味わかって言ってる?」
「わかって言ってるから絶望してんだ。練習に行ったって無駄なのはわかるだろう?」
今日日よほどのスポーツで有名な大学でない限り、ただスポーツやってるだけでモテるはずもなく、無駄な行動をしているのは芳樹自身もわかっていたのだ。
このあとやることと言えば、在籍だけしている運動サークルのバーベルを使わせてもらうくらいだ。
たかしはそれまでの暇つぶしに使われていた。
かと言って、たかしも頭をスッキリさせて家に帰るには時間が必要だったのでちょうど良かった。
二人はそれから少し談笑を続けると、今度悟も交えて三人で遊ぼうと約束をして学食を後にした。
「えー……擦った揉んだがありましたが……帰ってきました」
たかしはマリ子の姿を見るなり頭を下げた。
そして、顔上げたたかしの目に写ったのは、同じく頭を下げているマリ子の姿だった。
「ごめんなさい。私が悪かったわ。変に突っかかりすぎた」
急な謝罪に驚いているたかしにマリ子は続けた。
「あなたが出ていったあと、明夫に言われたのよ」
「謝れって?」
「いいえ。アニメとゲームを例えにして、よくわからない説明をされたの。それも一時間も延々。私がエルフの姫になってドラゴン族と戦争をするくらいなら。たかしと平和な現代を生きようと思ったのよ。でも、謝罪の言葉は私のものよ。レポートのことで焦って、あなたに当たってたわ。ごめんなさい」
「オレも決めつけてたことを謝るよ。考えや感情を決めつけられるのは気持ちいいことではないよね」
「今度は二人でごめんなさいが言えたわね」
照れて笑うマリ子に、たかしは持っていた袋を渡した。
「実は二人で頭を冷やす方法を考えたんだ」
マリ子の目に入ってきたのは、【ヴァンベルベン】のアイスクリームだった。
「あら……考えたわね」
「そりゃもう。セックスの後のアイスを教えたのマリ子さんだから。出来の良い生徒だろう」
「女子高生の制服より、スーツを着せたいの?」
たかしとマリ子の距離が近づくと、ソファーの上で明夫が叫んだ。
「もう!! ちょっと!! 吸った揉んだは他所でやってよ!」
「気がきかないわね……部屋でヘッドホンでもしてなさいよ」
「レポートを仕上げる前に、子供を仕上げるつもり?」
「やば!! 忘れてた!! ごめん。明るい未来設計のためには大学卒業しないと」
マリ子は直ったノートパソコンを持って部屋へとダッシュした。
「明夫……」とたかしは肩を落とした。
「なんだよ」と尋ねる明夫のスマホにメッセージが届いた。
「SOSを送った。……頼んだぞ」
たかしは芳樹のことは言えないと思いつつ、期待や妄想やらで膨らんだ諸々を引っ提げて自室へと戻っていた。




