第十五話
「クソ! 最悪!」
夜道。街灯がいつもよりおぼろげに揺れる、霧がかった日。
マリ子は今しがたあったばかりの理不尽に苛立ちながら帰宅していた。
怒りは歩数に合わせて薄れることはなく、何度も頭の中で反芻することによりドス黒さを増していった。
そして引き金のような重いドアノブを回すと、放たれた弾丸のように思いをぶちまけた。
「気をつけなさい。アンタらもあーなるわよ」
手を洗ったマリ子はその手をタオルで拭くわけではなく、濡れたままの手で買ってきたばかりのアイスに手を付けた。
「ちょっと主語がないとわからないんだど。君は『エスパー薫くん』にでもなったつもりでいるわけ?」
明夫はそれでは話が通じないと、一昔前のアニメ主人公のように肩をすくめた。
「じゃあバカにもわかるように一言で説明してあげるわ。歩きタバコ。アイコンタクト。舌打ちじいさんよ」
「一言じゃないじゃん」
「一言にしたらくたばれよ」マリ子はアイスを一気に口に流し込むと、冷えに痛む頭を手で覆いながら「本当にムカつく!」と苛立ちを隠すことなく自室へ向かっていった。
派手に揺れるマリ子の後ろ姿を見て、たかしは思わず息を呑んだ。
「明夫……大変だ。オレ達にはやるべきことがある」
「そうだよ。マリ子が残していったアイスの容器をゴミ箱に捨てなきゃ」
明夫は虫が湧くとマリ子がターブルに放置したゴミを片付けようとしたのだが、たかしはそれどころではないと明夫の腕を掴んだ。
「これはメッセージだ……」
「そうだよ。片付けろってメッセージだ」
「そうじゃない! マリ子さんが言ってだろう。あれがメッセージだ」
「そうだよ。気を付けろって言ってただろう。僕らが嫌なおじいさんにならないようにって」
「違う! あれは恋人のメッセージだ。遠回しの……」
「なら、僕は関係ない」
明夫は容器に残った溶けたアイスを水道で流すと、汚れた手をタオルで拭いた。
言葉通り、自分は関係ないと思ったからこその行動だったが、たかしは違った。
「きっと意味がある……。前のときは三日間口を聞いてもらえなかった……。これは一大事だ」
たかしは過去の経験から、原因を究明して謝罪をしなければマリ子の不機嫌は長引くと思い出して恐怖したが、明夫は違った。
「あれは最高に静かな三日間だったよ。君達が仲直りのセックスをするまではね」
「今大事なのは仲直りセックスよりも。なぜマリ子さんが不機嫌なのかを考えるべきだ」
「君は美少女ゲームで出てくる選択肢を見逃すタイプだね。おじいさんが歩きタバコをしてて、目があったら舌打ちされたんだろう。そう説明してた」
「それがどう僕らの将来に繋がるかだ……」
たかしは顎に手を当てると、そのままのポーズでソファーに座り込んだ。
「君の将来だ。僕は関係ない」
「明夫だって、将来恋人ができたら必要になる経験だぞ」
「将来恋人ができたときに考えるよ。それより先に、電脳世界に入る経験が必要だけどね。僕の予想では、まず先に電子ドラッグが流行るね。それから戦争。そして戦争の技術が使われて――ようこそ新世界だ。電子レンジだって戦争による技術の賜物だ。電脳戦争の果て、僕らは新の愛を見つけるんだ」
「……真面目に聞く気がないだろう」
いつの間にか流れ出したゲームのサントラBGMに気付いたたかしは、明夫を睨みつけていた。
「ないよ。ただでさえ君達バカップルには参ってるんだ。平成初期のギャルキャラと、平成半ばの普通主人公キャラのカップルなんて見飽きてるよ。何年前のラブコメを模範してるのさ。現代のラブコメは実に多様的だ。今や君達のようなバカップルなんて、モブが見てるテレビ番組のワンシーンくらいでしか映らないよ。これってどういうことかわかる? 君達はオタク需要がないカップルだよ」
「ありがとう。まともな恋愛してるって気付かせてくれて。とにかく! オレは真面目に相談してるんだ」
「わかったよ。君はタバコを吸ってないし。吸っていた過去もない。ほら、解決だ」
明夫は心配するなと付け足したが、たかしの焦燥ぶりは目に見えてわかるものだった。
「解決はしてない。真相は闇の中だ」
「わかったよ。ゲームのRTAと一緒だ。根本的なところから考えよう。ルートは正しい?
「そもそもどこから始まったかわからないよ……このゲームは」
「いきなりバグから始まるRTAがあると思うのかい? ……それがあるんだよ。なるほどわかったぞ。君達は初心者なのに玄人プレイをしようとした。でも、上手くいかず失敗。気まずくなり……口数は減り今に至る」
「それってセックスのこと言ってる?」
「僕が? セックスの玄人プレイを知ってると思うかい? アニメ的セックスの話なら、僕は学芸員になれるけどね」
「じゃあ違う。それが理由じゃない」
たかしはほっと胸をなで下ろしたが、逆に明夫が顔をしかめた。
「ちょっと待って……まさか僕にセックスのことを相談しようとしてたのか? 侵害だよ……僕にセックスのことを聞くだなんて。監視、隔離された空間にいる天然記念物に、自由が好きか聞くようなものだよ」
「わかったよ……話の方向を変えよう。オレが主体ではなく、マリ子さんだ。マリ子さんは何故あんなに怒っていたのかだ」
「タバコの煙が目に染みたからだろう。言っておくけど、僕も煙草は嫌いだよ。レトロゲーム、漫画、フィギュア、プラモデル。どれだけのオタクアイテムがヤニの黄ばみと臭いに攻撃されてきたと思ってるんだい? これは歴史に対する攻撃だ」
明夫の誰に対するかわからない愚痴を聞きながら、たかしはあのことかもしれないとハッとなった。
「お気に入りの服はどうだ? 褒め方を間違ったかもしれない……。思い出せ……今日の朝……オレはなんて答えたんだ……」
たかしは今朝。マリ子が出かける前に「どっちの服がいい?」と聞かれたことを思い出していた。
夏物のアウターを両手に持ったマリ子。たかしは生返事で答えていたので、今日どんな服を着ているかおぼろげな記憶しかなかった。
「きっとこれだ……思い出せ。どんな服を着ていた……。きっとマリ子さんは、気が付かない男はダメだってことを遠回しに伝えようとしているんだ。これは難問だぞ……」
「本当だよね。これがアニメキャラクターなら公式ページを見ればすぐだ。私服まで見られる上に、詳細なプロフィールが見られる。十五分おきのCMに影響されてコロコロ意見を変える女とは大違いだ」
「そりゃまた。服を選んだのに、そっち気分じゃなかったのにって言われることもないわけだ。羨ましい……」
「今からでも遅くない……こっちへくるんだ。肉体とともに手に入れた欲望という名の現実。魂が震える世界こそオタク世界だ」
「現実世界で生きるには肉体が必要なの。柔らかくて暖かくていい匂いがするね」
「その肉体に逃げられたのは君だろう」
明夫は天井を指した。二階からはマリ子が通話中にするオーバリアクションの振動が伝わってきていた。
いつもより愚痴が多いせいか、クッションを叩いたりゴロゴロする音がより響いていた。
「逃げたのは明夫だ。オレは受け入れてるからこんなに苦労してるんだ」
「答えが出たね。苦労が美徳は昭和だよ。今は令和の世。苦労は苦労だ。苦労の分は給与に反映されるべき。たかし……君はタダ働きがお望みなのか?」
「苦労が楽しいのが恋愛だろう。オレはマリ子さんを思ってるからこそ、こんなに悩んで答えを出そうとしてるんだ」
「それって人力AIに翻弄されてるってことだろう? もっと根本的に悩んだらどうだ? 体臭。口臭。生乾きの服。嫌われる原因は山ほどある」
「なんで全部臭いなんだよ……ちゃんと清潔にしてる。一歩歩けば汗がでるような猛暑日でもね」
「だってアニメキャラクターになくて、現実を生きる奴隷にあるのは臭いだろう。他は……モデルチェンジに失敗したとか、過去の因縁を引きずり過ぎてストーリーがだれてきたとか……極めつきはおもちゃ会社とのタイアップで余計なシーンを増やしたとかかな。どれも議論をするには十分すぎる内容だ。特にクリスマスシーズンに向けてモデルチェンジ商法には気をつけないと。その新商品の価値はあと数ヶ月もないぞ。春にはすぐに新シリーズの始まりだ」
「もっと離れてくれ……アニメから」
「いいけどさ。それって僕に相談する必要ある?」
「せめて相談に乗るふりくらいは出来るだろう」
「できてたら今頃別のオタクのコミュニティーにいるよ。するつもりもないから、僕はオールドスクールなんだ」
明夫はわかっていないと肩をすくめた。
実際問題。明夫に相談しても意味ないことはわかっているのだが、たかしの悪い癖であるその場でなんとか解決しようというせっかちな部分が出てきているので、話は平行線をたどるばかりだった。
「わかったよ……。聞き直す。オールドスクールが輝いていた時代にもそういうシーンはあっただろう」
「そりゃもう……万いや億以上……那由多の数ほどそんなシーンはある」
明夫が言っているのは過去にやってきた恋愛シミュレーションゲームの話だ。
たかしもそれをわかっているのだが、明夫の思想よりもシナリオライターの経験にかけたのだ。
「どうしてた? どうやって機嫌を取ってた」
「方法は二つある。一つは宇宙人が攻めてくることにより、世界中の男が死んでしまった。世界で男は君一人。君は宇宙人のサンプルに選ばれ、五人のヒロインと――」
「誰がエッチなゲームを紹介しろって言った……」
「あのねぇ……。こっちも言わせてもらうけど『クソ! 最悪!』から始まる恋愛ゲームなんてそうそうあるわけないだろう。君の彼女はアニメキャラクターにもいない変人だってこと」
「次……もう一つは」
「親友の女の子に相談するんだ。それが親友ルートだ。ザ・ヒロインが幅を利かせていた時代でも、寄り添うように存在していた親友ポジション。相談を重ねるうちに恋愛ゲージはたまり――」
「ちょっと待った! オレは別れようという話をしてるわけじゃない。マリ子さんと別れて別の子なんて考えてない」
「なんだ……」と明夫はあからさまに落胆した。「じゃあなんで二次元に答えを求めたのさ。君はなんのために二次元信仰があるのかわかっていない」
「宇宙人に見つけられたとき、こんなに多様な生物がいるのかって驚かせるためじゃないのは確かだ」
「土偶の歴史は繰り返す。巡り巡ってのフィギュアだ。宇宙人は必ずオタクのDNAを見つけ培養する。そこから新たな異世界への扉へ……というのも悪くない。どう思う?」
「いいんじゃない? ある日突然パソコンの画面から助けを求めにきた美女に、ゲームの中の世界へ連れ込まれるよりも現実的だ」
「あれはそういうアニメ映画があったの。それに現実を引き合いに出すなら、僕をからかってもマリ子の機嫌は直らないぞ」
「そうなんだよな……」
たかしが根本的解決にならないと力なくソファーに座ると、明夫がその肩に優しく手を置いた。
「僕は君の親友だぞ。何度だってやり直せることはわかってるし、その手段も知ってる」
「恋愛シミュレーションはやらないぞ……」
「なぜ? 誰もを優しく抱きしめてくれる現代のリラクゼーションアイテムだぞ。可愛い絵、素晴らしい演技、ストレスのないUI、豊富なキャラクター。すべてが揃っている」
明夫のとんでもないアドバイスを聞いて、たかしは気合を込めて立ち上がった。
「謝るのが一番だ」
「それはどうかな」
「前は謝るのが遅れたせいで、大変なことになった。今回は早く早くだ」
「それは違う。前回は君が正直じゃないから大変なことになった。今回は正直にもなれない状況ってことわかってる? どっちの服がいいと一緒だよ。なにに謝ってるかわからない状況。君は乗り切れるかな? この現代の擬人化スフィンクスのなぞなぞにね」
「……それでも謝る。わからないことも正直に謝るんだ」
ちょうどよくマリ子が二階から降りてきたので、早速謝罪の言葉を並べたたかしだったが、マリ子はキョトンとした顔をしていた。
「なに? 浮気でもしたわけ?」
「いや」
「冷凍庫のお気入りのアイスでも食べた?」
「いや」
「わかった……世界征服でもしたんでしょう。あれほどやめときなさいって言ったのに」
マリ子はからかってたかしの頬をつねった。
何も気付いてないマリ子に、たかしは正直に話したのだが、反応は同じくキョトンとした顔だった。
友人と通話したことにより、話題が押し出されて優先順位が代わり、先程の出来事をすっかり忘れてしまったのだ。
「そんなこと言った?」
「でも、アンタらもあーなるわよって……」
「ジジイにってこと? そりゃなるでしょう。こっちも年をとるっていうのに、自分だけ若いままでいるつもり? はあ? 意味分かんないんだけど」
「え? いや…そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
「それならどういう意味で言ったか教えてもらえる?」
全く関係なことでたかしに詰め寄るマリ子を見て、明夫は満面の笑みで恋愛シミュレーションゲームを起動したのだった。




