第九話
目覚めの顔を洗い、歯を磨く。まだ化粧もしていない薄い眉でスウェットの上下のままでうろつくのが、いつのも同居中のマリ子の姿だ。
今日も同じく、洗顔中に濡れたスウェットの首元もそのままに、朝食は適当にパンにでもしようと思ってリビングに行くと、そこはいつもの朝の風景はなかった。
カラフルな野菜が刻まれたチョップドサラダに、フルーツたっぷりのオートミール。なんとそれがランチマットの上に並べられているのだ。
こんなことをするのは自分に好意を持っているたかしだと思っていたのだが、「さぁ、食ってくれ」とマリ子に声をかけたのは、なんと明夫だった。
「……なに?」
マリ子は睨みような訝しい視線を明夫にぶつけた。
「なに? じゃない。さぁ、食ってくれ」
明夫は両手を大きく広げてテーブルの料理を強調すると、下手くそな作り笑いを浮かべた。
「なんか悪いものでも食べたの? 例えば……このサラダとか」
「それはチョップドサラダだ。知らないの? チョップドサラダっていうのは、具材を細かく刻んで、スプーンですくって食べられるようになったサラダのことだよ」
「それは知ってる。なんでそのサラダをアンタが作ってるの? って聞いてるのよ。……毒でも入れた?」
「毒なんか入れないよ。そんなもの持ってれば、初日に入れてる。でも、サラダにこれは入れちゃった。MCTオイル。飲む美容液。美味しいだけじゃなく、体も綺麗になっちゃう」
得意気に説明する明夫を見て、マリ子は寒気に襲われた。そして、身の危険を感じてこう叫んだ。
「たかし! 助けて! 殺されちゃう!!」
その声が聞こえた瞬間。たかしはズボンを片足にだけ通した状態で大慌てでリビングに駆け込んだ。
「なに!? なにがあった!? 大丈夫? ……なんだ明夫か。女の子みたいな声で叫ぶから、マリ子さんに何かあったのかと思ったよ」
「声を上げたのは私よ」
「まさか。そこにいるのは明夫だぞ。君が明夫を殺す未来は想像できても、明夫が君を殺す未来は想像できない。返り討ちだ」
「そうかもね。でも、これは由々しき事態よ。見てよ」
マリ子はテーブルに用意された料理をまだ不審に思っていた。
「なんだこの料理?」と一瞬驚いたたかしだったが、すぐに合点がいった。「……今度は何を見たんだ?」
「【食育王ハジメ】だよ。さぁ、食ってくれ」
明夫の笑顔に、たかしは「やっぱり……またか……」と、うんざりだと言った風に額をおさえた。
「なに? どういうこと?」
マリ子は説明しろと、肘でたかしを小突いた。
「説明することはいくつかあるけど……最初に一つ。諦めて」
「だからなにをよ」
「明夫はたまにアニメに影響されて、趣味を作るんだ。前の時は一人キャンプだった。それはもう凄かったよ。お金と時間をかけて、自分用に一式揃えたんだ」
「うそ!? オタクが山に行ったの? 想像出来ないんだけど……」
「そりゃそうだ。途中で野生のリスを見かけて怖くなって引き返したんだから。結局家に戻って、このリビングでテントを張って一夜を過ごしてたよ。なに笑ってるの?」
たかしはニヤけているマリ子が不思議で不思議でしょうがなかった。
「テントなら自分の部屋でいつも張ってるのにと思って。ごめん、続けて。それで、なにを諦めればいいの?」
「この現状をだよ。彼の暴走は止められないから、自分で回避して。オレにはどうにもできない」
「なんで? なにもしなくてもご飯が出てくるなら最高じゃん。それもオタクの趣味でしょ? お金も払わないで済む。これってラッキー」
「意味わかって言ってる?」
「お金が貯まる」マリ子は椅子に座ると「料理人なら飲み物くらい出したらどうなの? 紅茶の淹れかたは?」と、明夫を乗り気にさせた。
確かに食費が浮くのなら、たかしにとっても良いことなのだが、今朝の朝食はほとんどが切るだけの料理だ。つまりまだハマってまもないということ。
これは長引くぞと判断したたかしは、チョップドサラダを食べながらどうしたものかと考え始めた。
数日後。
「ちょっと……金欠だったんじゃないの? 服買ったんでしょう?」
マリ子と一緒にショッピングモールに出かけた京は、彼女が鼻歌まじりにアクセサリーを見るので心配になっていた。
「買ったわよ。なんでか知りたい? ワンサイズ下がったから。まじでハム子の運動メニューは効くわ」
「私が知りたいのは金欠じゃなくなった理由。まさか、銀行からおろしたの?」
「誰も買うとは言ってないでしょう」
「じゃあ見るだけ?」
「私はそのつもり。でも――この子が連れて帰ってママーって泣き叫ぶの」
マリ子はピアスを手に取ると、耳たぶに持っていて自分に似合うと京に見せた。
「私には聞こえないけど」
「私がママだもん。みゃーこはパパ」
「私は本気で心配してるんだけど……。変なバイトに手を出さないでよ」
「大丈夫よ。バカじゃないんだから」
「……」
「わかった。バカなのは認める。でも、大丈夫なのは本当。見て、これ」
マリ子はスマホをカバンから取り出すと、ここ数日分の食事の写真を見せた。どれも豪華で、ちょっとしたランチやちょっとしたディナーでは済まないようなメニューばかり。
「余計心配になったんだけど……。食事に、服に、宝くじでも当たったの?」
「貧乏くじ引いたんじゃないのは確か。なんとこのご飯は無料なの。つまりただ」
「とうとうパパ活に手を染めたわけだ……」
京は見損なったと、冷ややかな視線をマリ子に浴びせた。
「だから違うって、オタクが好きで作ってるの。今料理にハマってるんだって。食費が浮いた分。私は好きに使えるってわけよ」
「なにそれ、将来声優になるとでも言ってたぶらかしたの?」
「そんなこと言ったら、ヒステリックを起こしながら声優を舐めるなって言われる。まぁ、そんなこんなで、この数日浮いたお金を使ってるってわけ。いくら私でも、考えなしで買い物しないよ」
「そうかなぁ?」
「あんまりしつこいと、コーヒー奢んないわよ」
「わかった。もう言わないよ」
「そうだ! 良いこと考えた! 高級料理の本を買ってさりげなくテーブル置いておけば、大学ノートのサイズみたいな牛肉のステーキとか、なんたら海のなんとかマグロのトロとか食べられるかも」
「……私はなんも言えない」
「それは私の考えが最高だからでしょ」
「なにも言わないのは、コーヒーが飲みたいから。もう三十分立ちっぱなしだよ。買うの買わないの?」
「わかったわよ。ピアスはまた今度で、デザートもつけちゃう。でも、その前に本屋寄ってこーね」
マリ子は京の腕に抱きつくと、最高にご機嫌になって歩き出した。
その頃大学にいたたかしは、食堂で友人に心配されていた。
「おい……大丈夫か?」
芳樹はグイッとたかしに顔を近付けて言った。
「大丈夫だよ。変なのはそっちだぞ。キスでもするつもりか」
「お望みとあらば」
芳樹は目を閉じると、唇をタコにしてからかった。
「なんだよ……なにが言いたいんだ」
「オレらはなんだ?」
「なんだって……男?」
「そうだ! 職業は?」
「ただの大学生だろう」
「その通り! オレ達は男で大学生だ! 食べるものといえば、カツカレーとかカツ丼とかソースカツ丼だろう?」
「トンカツが食べたいなら、トンカツ専門店に行けよ」
「ミニサラダ一つが昼食ってどういうことだって意味だ。小学校の飼育小屋にいたウサギだって、普通サイズのサラダくらい食ってたぞ」
「驚いた……出てたんだ。小学校」
「茶化すなよ。たかし、オマエはミスター普通なんだ。少食にも菜食主義者にもなる必要はない」
「いいか? 別に病気でもなんでもないし、性格は変わらないし、変えるつもりもない。ただこうしないと、芳樹の言う普通じゃなくなるんだ」
たかしはスマホを出すと、マリ子がしたようにここ数日の食事の写真を見せた。
「おい……料理人でも雇ったのか?」
「明夫だよ。今料理にハマってるんだ」
「ハマるってレベルか?」
「そのレベルだよ」
「だって美味そうだぞ?」
「美味しいよ」
「じゃあ、何が不満なんだよ」
「カロリー計算や栄養計算を無視してるから。高カロリーに高糖質、高脂質。美味しいに決まってるだろう。ポテトチップスは未来永劫スーパーに並び続けるのと同じ理由。定期的に体重計が売れるのも同じ理由だ」
「オレみたいにスポーツしろよ。荷物置き場の為の文化系サークルじゃなくて」
芳樹は体を動かせば全て解決だと、バカっぽい顔で言った。
「アスリートこそ、栄養に気を使うべきなんじゃないの?」
「アスリートって言うのは、女の子の前だけ。オレがやってるのは、なんちゃってスポーツ。そこにあるのはなんちゃってトレーニング器具。ランニングマシン以外の使い方はわかんねぇ」
「芳樹を見てると子供が太らない理由がわかるよ。よく動いて、よく遊んで、何も考えないで生きる」
「つまりオレは子供のヒーローってことだな。こう見えても近所の子供に人気あるんだぞ。休日の昼間に公園なんかに行ってみろ。ハトの餌やりなんて目じゃないぞ。子供に殺されるって本気で思った……。まじで、ゾンビ映画の演出がくだらないと思えるぞ。奴らはトイレにまで押し寄せて来るからな……」
「子供は自分と同じ匂いに懐く。いいかげんおむつを取り替えたら?」
「そんな子供じゃねぇよ」
「ごめん間違ったよ。おつむを取り替えたら? だった」
たかしは周りを見ろと顎をしゃくった。
カラオケの個室で話しているかのほどの声量と熱量で芳樹が喋るので、すっかり食堂で注目の的になっていた。
「悪い……」
芳樹は片手を上げて周りにすまないと謝ると、大人しく椅子に座り直した。
「いやいや……オレがミニサラダを食べてる理由をゾンビにまで変換できるんだ……君は立派だよ」
「今の皮肉ってことは子供も気付く……。空腹でイライラするなら食えよ。たった数日のカロリー過多がなんだ」
「オレが心配してるのは胃もたれだ。胃が痛んでイライラしてる。無理してサラダを食べてるのは、空腹で服用しないほがいいから! もう、ほっといてよ!! 少しは気持ちを考えたらどうなんだ?」
「やめろよ……たかし。痴話喧嘩だと思われる……」
「ごめん。どうかしてた……」
「本当だよ……。胃もたれから、痴話喧嘩にまで変換できるんだ」
「効いたよ……今の皮肉返し……」
「オレは本気で言ってんだぞ。オマエが変人と同棲を決めたことが三日で、恋人でもない女が同棲を決めたことは一日で広まった学食だ。アホみたいなニュースでもすぐに広がるんだ」
わかっていないなと難しい顔をする芳樹を横目に、たかしはスマホの通知を確かめた。
「確かにすぐに広がるな。バカはとうとうカツ丼の食べ方まで忘れたとさ」
たかしはSNSのグループチャットで送られてきた写真を芳樹に見せた。
その写真とは、いつまで経っても食べられないカツ丼と芳樹のツーショットを遠くから撮ったものだった。
「なんだよ……冷えても美味いのがカツ丼だぞ」
芳樹は鼻息荒く、丼の蓋を開けたが、すでに食べ終わった後であり、ご飯粒が無様に丼に残っていた。
「もしかしてだけど……受取口と返却口にあったのを、間違えて持ってきたんじゃないか?」
芳樹はため息を落とすと「そうみたい……」と呟いた。「最悪だ……これじゃあ噂通りのマヌケだ」
「そう悲観するな。噂の内容は変わったぞ」
「本当か?」
「あぁ、バカはカツ丼が消えても気付かない。だと」
たかしは固まる芳樹の肩を叩くと、気晴らしになったとサラダの皿を返しに行った。
そして、彼女は言った意味を理解していたのかと少し不安に襲われた。
更に数日後。
「あー幸せ……。最高よ、このアヒージョ。あなたは天才料理人ね」
マリ子は具を食べ終えたアヒージョの残りオイルに、フランスパンを浸しながら言った。
「天才料理人じゃなくて、究極の料理人。決め言葉は、さぁ、食ってくれ」
「いくらでも食べちゃうわよ」
幸せそうに食べるマリ子を見て、明夫はうーんと首をひねった。
「もしかして……君太った?」
「今なんつった?」
マリ子は鋭い視線で睨んだ。
「なんっていうか……作画が違うよ」
「どういう意味よ……」
「アニメのキャラクターは作画監督によって、痩せたり太って見えたりすることがあるの。君は随分ぽっちゃりフェチの作画監督に描かれたようだね」
むくみにパンパンに膨らんだマリ子の顔を、明夫は凄い変わったと見ていた。
「一杯食わされた……」
「一杯どころじゃないよ。何杯食べるんだよ。言っとくけど、たかしの分はもうないからね」
「私ももういらない!」
「もうないんだよ。君が食べたからだ。フランスパンだって半分以上食べたんだぞ」
「これで勝ったなんて思わないでよ!」
マリ子は捨て台詞を吐くと、こうしてはいられないと階段を上がっていた。
「なんか知らないけど。勝ったぞ。……これが勝利か。なんて虚しい……」
明夫は胸に手を置くと、恍惚の表情で深呼吸した。
その夜。ドスンドスンと天井を揺るがす音は遅くまで続いた。
脂肪を燃やしむくみを取ろうと、マリ子がダイエットメニューの運動を倍に増やしたのだ。
すぐ下が自室である明夫は、この音に参っていた。
「こんなの……負けじゃないか……。くやしい……」
そして、その音は離れたたかしの部屋の音にも響くほどだった。マリ子の必死さが伝わってくる大きさだ。
「あぁ……やっぱり。意味を理解していなかったのか」と、たかしは彼女のダイエットの成功を祈った。