第十一話
朝の六時。
小鳥のさえずりは誰を起こすでもなく、リビングに居るのは早起きの京と、ジョギングから帰ってきたばかりのたかしの二人だ。
あまり噛み合わない二人の話題はいつも唐突だった。
「瞑想?」
たかしは姿勢良くあぐらをかく京を見て、スラッとした後ろ姿に目を奪われていた。
「そう。たかし君もどう?」
京は目閉じたまま返した。
穏やかな呼吸から発せられる彼女の声は、いつも以上に凛とした声を響かせた。そう感じるほど、瞑想をする姿が板についていたのだ。
たかしはとても高尚なものに感じ、「オレにできると思う?」と及び腰だった。
「難しく考えることはないのよ。あるものをあると感じるだけ。物事も、心理的要素も、全て受け入れて並べていくの。否定も肯定もなくていいのよ」
「それが一番難しい……」
たかしの脳内にはスピリチュアル的要素でいっぱいになっていた。聞きかじった単語ばかりで埋め尽くされ、理解しようと思うにはあまりに混濁としてしまっていた。
「難しくさせてるのは自分自身よ。こう考えてみたらどう? 運動前には柔軟体操をするでしょう。一日を始めるための脳の準備運動をするのよ。一日を生きるってすごい頭を使うの。だから頭を柔らかくするの。課題の前。寝る前。どのタイミングでも一緒よ」
たかしは一度考えてから、有酸素運動の体を休ませている間なら試してみようと思い、少し距離を開けてあぐらをかいた。
「肩の力を抜いて。腕を持ち上げることはなく楽に。でも姿勢は正して。お尻に伝わる床の感触に意識すると、自然に正しい姿勢になっていくわ。目は閉じるか半眼。好きな方で……。呼吸は止めないで……肺に酸素が満たされるのを感じるの。だんだん私の声も気にならなくなってくるわ……。私の声はただそこにあるの」
時間にしては十分程度。その間たかしはただ深呼吸をしていただけだ。
「効果あるの?」
「スピリチュアルじゃないのよ。効果は自分にしかわからない」
「それがスピリチュアルだと思うんだけど……」
「そう? こう見ても私は現実的よ。瞑想も科学的根拠に基づいてるものよ。運動の時とは違う深呼吸をするだけでも変わるでしょう?」
京に言われて、たかしは心が落ち着いているのを感じていた。
最近はマリ子とのデートの権利を元恋人のユリと取り合ったり、悟がカードショップでバイトするようになってから明夫達のテンションがおかしかったり、普通ではない日々が押し寄せてきていたので、静かな時間がとても心地良く感じたのだ。
「本当だ! すごい! 世界が変わったよ!!」
「初心者が十分で効果を感じるような単純なものだったら、とっくに国民全員がやってるわ。でも、心の整理がついたのなら良かったわ。気に入ったのなら続けるのをオススメするわ」
京はヨガマットをたたむと、今日は自分が朝食の当番なので支度を始めた。
たかしの心が落ち着いているせいか、朝食を作る音が心地よく。香りもいつも異常に強く感じるような気がした。
すっかりハマったたかしは、特に決まった時間はなく、空いた時間で瞑想をするようになった。
数日後。
時間が合ったたかしと京の二人は、京の炊いたお香を嗅ぎながら瞑想をしていた。
前のように早朝ではなく、夕方前。
まったく瞑想に興味のない二人も、家にいる時間帯だった。
「なにやってるのあれ?」
マリ子は黙ってあぐらをかいている二人を怪訝な表情で見つめていた。
「見てわからないの? フォースを溜めてるんだ……。見たことあるから間違いない。見て! あの手の形! 開くでも握るでもないだろう。あれは手の中で属性変化をさせているんだ。あの両手が合わさった時……術式は完成。この家は『レッドホーン・デーモン』の地獄の業火に焼かれるだろう……」
「ちょっと魔法使いさん……。魔法を使えるのは三十歳を超えてからよ」
「その設定って前倒しできない? 僕はセックスより魔法が使いたい」
「魔法でセックスするつもりだからでしょう」
「君ね……魅了魔法はギルドにより禁止されているんだ。五十年戦争の悪夢を蘇らせるつもりか?」
「さっさと魔法を使って現実世界に戻ってこないと、現実逃避するための道具を全部破壊するわよ」
マリ子が苛立った瞳を見せると、明夫は思わず怯んだ。
「君は本当にやるから怖い。オタクのパソコンは絶対に壊しちゃダメだし、Dドライブは絶対に見ちゃダメ。常識だろう」
「その常識に生きてないのが誇りだわ……。って! ちょっとなにしてんのよ!」
マリ子の目には、明夫がたかしの頬へキスしようとしているように見えていた。
「なにってこのチャンスを逃すと思ってるの?」
「恋人の目の前で恋人を奪うつもり?」
「君は本当に欲望に生きてるね……軽蔑するよ」明夫はため息をつくと、口をたかしの頬ではなく、耳元へ持っていった。「限定カードパックを僕にプレゼントしたくなる。限定カードパックを三パック僕にプレゼントしたくなる」
呪文のようにぶつぶつ繰り返す明夫に「なにしてるのよ……」とマリ子は呆れた。
「目をつぶって集中してるから洗脳してるの」
「バカねぇ……――」
マリ子が呆れた瞬間。たかしの目が開いた。
「もううるさい……」
たかしは眉間にしわを作ると、一度自分の部屋に戻り、こっそり買っておいたお一人様三パックまでのカードパックを取ってくると、それを明夫に投げ渡した。
うるさくされた時のために、こっそり買って隠しておいたのだ。
「これこれこれ!! 僕はこうやってたかしに毎回限定カードパックを買わせてるんだ」
明夫は待ってましたとテンションを上げると、もう二人の瞑想に興味がなくなり、カードパックの開封を始めた。
「うそ!! そんなのできるの!?」マリ子は京に近づくと「みゃーこは私にキスしたくなる。抱きしめて、いいこいいこして、一緒にお風呂に入りたくなる。それから下着のファッションショーを初めて、それからそれから――」
「マリ子……集中できないわ」
耳元でだんだん声が大きくなるので、たまらず京は目を開けた。
「集中じゃなくてちゅーして、ちゅーう。いいでしょう」
「よくないわよ」
「なんでよ。別に初めてじゃないでしょう」
「マリ子が甘えてくると長いんだもの。そういうのは恋人に頼みなさい」
「この恋人ガン無視男に?」
マリ子がにらみを聞かせるが、たかしが気づくことはなかった。
明夫のことを解決したので、もう一度目を閉じて雑念を取り払おうとしていた。
「それだけ集中してるのよ。そして、私も瞑想中なの」
「わかったわよ……私もやる!」
マリ子はヨガマットの端へ京を追いやると、空いたスペースに自分も座った。
「マリ子が瞑想?」
「なによ、なんか文句でもあるわけ?」
「マリ子にこそ瞑想は効果があると思うけど……。ヨガとは違うのよ。くびれたり、ヒップラインが整ったりするわけじゃないわ」
京が話していると、マリ子の表情はどんどん不機嫌になっていった。
「もしかして私にできないと思ってる?」
「もしかしてじゃなくて、できないと思ってる」
「はい! ムカチーン! そう言われると本気になる女なのよ私は」
「映画館でもじっとできないじゃない」
「あれは恋愛映画なのに全然ベッドシーンにいかないから。ラブロマンスなのにセックスなしって信じられる? 今どき少女漫画だって愛の確かめかたを載せてるのによ」
「マリ子……瞑想の意味わかってる?」
「わかった。わかったわよ……。こうでしょう」
マリ子はあぐらをかくと、京と全く同じポーズを取った。
「それじゃあ肩に力が入りすぎよ」
「やーん、力を抜かせてどうするつもりなの」
「どうするつもりなのはこっちのセリフ」
京はじゃれついてきたマリ子を引っ剥がした。
「エッチな声出せば少しは反応するかと思ったの。あれ男としてどう思う?」
隣で恋人とその友人が少し過激にコミュニケーションを取っているのに、たかしはまったく動じずに瞑想を続けているので、納得がいかないマリ子だった。
「すごいことだと思うわ。人に瞑想を勧めても、小馬鹿にしたり、効果が出る前にやめたりだもの。人の意見をしっかり聞ける人なのね」
「ハマりやすいのよ。だから今度足のネイルケア覚えさせようと思って。見た? あの洋ドラ。ヒロインがソファーに寝転んで、恋人にネイルケアしてもらってるの」
「たかし君なら覚えそうね。そんなに要領がいいなら、もっと別なことに興味をもたせたら?」
「ちょっと待った。たかしはそんなに要領がよくない。なぜなら体位が変わるときにぎこちないから。男ってセックスの公式を自分勝手に作りたがるわよね」
「僕は中学で二次関数という言葉を見た時。得も言われぬ高揚感を感じたよ。不思議なことに、高校のときも同じ高揚感を感じたことがある。その時はアニメーションダンスという言葉だったよ……」
明夫は昔の思い出を懐かしみ目を細めた。
「いいからアンタはカードパックを開けてなさいよ」
「開けたよ。ポチ袋に折りたたまれた一万円札が、封を開けてみたら五千円だった時のがっかり感に似た気持ちになったよ」
「それわかるー。特に三つ折りされてると透かしてもわかんないのよね。でも、お年玉をもらうには愛想よくしなきゃいけないし……。しかも、向こうは成長するより一年前の自分が見たいわけでしょう。超気を使うわ……」
「待った。日本がキャバホスト大国なのって、子供の頃から大人に媚びを売る方法を覚えたからじゃない? つまり僕らは洗脳されている。洗脳を解くための手段がアニメだ!! だから僕らはキャバクラにいかないんだ」
「いかないだけで、似たようなお金の使い方してるでしょうが……。同じもの二個も三個も買って」
「同じじゃないね!! いいかい? 限定版っていうのは、封を開けたら時代の空気にさらされてしまうんだ。でも、僕は箱ごと飾るようなヤワなオタクにはなりたくない。だから僕は何個も買うんだ。これは種の保存だよ。天然記念物を守るのとなんら代わりない」
「アンタのは人工記念物でしょうが」
「わかった認める……天然なのはキャラクターだけ。でも、人工記念物って言い方には異論がある。人の手が加わったのなら、それは芸術作品だ。わかるかい? 人は目に見えるものだけではなく、アウトプットされたものにも魅力を感じるんだ」
「アンタはいつも話を壮大にするけど、絵に興奮してるってだけでしょう」
「アートだよ、アート。現代芸術。興奮するには十分だろう」
「興奮の意味が違う」
マリ子と明夫の声が大きくなってくると、たかしは「お二人さん……」と口を挟んだ。「瞑想してるんだけど」
「あっそう」
マリ子は冷たく反応した。今までたかしに無視されて怒っているわけではなく、明夫にムカついた方に優先順位が上がったのだ。
「瞑想の意味わかってる?」
「わかってるわよ。こっちも話題が迷走してるから」
「またにしたほうが良さそうだ……」
たかしがヨガマットをたたんでソファーに座ると、早速マリ子がじゃれついてきた。
「ねね。本当に瞑想中ってなにも考えないの? 私のことも」
「考えるより、浮かんでくるのよ。それをただそこにあるものとして捉えるの」
「もう! 京じゃなくてたかしに聞いたの。ねね。何が浮かんだの? 私のことも少しは浮かんだ?」
「それは……顔は浮かんだけど」
「顔だけ? もったいない。首から下はものすごいコスチュームきてたのに」
「……参考までに。職業系なのか、パロディ系なのか。……脱がすのが楽なのか、男を童貞に戻すほど複雑か……」
「瞑想してたんじゃないの?」
「心の余白をあけすぎたせいで……煩悩が鍵も持たずにやってくるんだ」
「じゃあ、目を閉じて考えて。三つの単語を出すわよ。エロ、可愛い、ポリス」
「……京さん。明日からもう瞑想できないかもしれない」
たかしは瞼の裏に焼き付く妄想の光景に目を奪われ、目を開けられずにいた。
「そうね……。隣で親友の恋人に立っていられてたら、マリ子との関係に角が立つわ」
あわよくば恋人からハマらせて、マリ子にもマインドフルネスをやらせようとしていた京は、相変わらず思い通りに動いてくれない人たちだと、わずかに笑みを浮かべながら、自分もヨガマットを畳んだのだった。




