第五話
「ねえ? どう? 夏の匂いがしない?」
マリ子は京に抱きつくとすぐに離れた。
髪の香り。服の匂い。化粧のパウダリー。すべてが独特に絡み合った彼女の体臭はいつもの甘い香りだった。
その中に香るキリッとした柑橘の匂いを京は感じ取った。
「ミントとレモンね。私が買ったアロマの匂い」
「そう。勝手に借りちゃった。でも、一滴ずつだけよ。爽やかでしょう?」
マリ子がその場でくるっと回ると、香りが優しくふわっと舞った。
「そうね……。でも、マリ子なら金木犀とかパウダリー系とかの匂いのほうが似合いそう」
「彼氏に合わせたのよ。最近スポーツマンでしょう? 私も爽やかな女にならなくちゃ。ねえねえ……どこにアロマつけたと思う? 当ててみて」
マリ子は京の前で両手を広げて立つと、そのまま京の顔に胸を押し付けるように抱きついた。
「これじゃあわからないわよ……」
「すぐにわかったらクイズにならないでしょう。目隠しはよくあるハンデ」
「胸の柔らかさしかわからないわ」
「いいでしょう。感触に著作権があったら、私は今頃乳御殿でおっぱい揺らしてふんぞり返ってるわ。クレオパトラの気持ちがわかるわー」
「マリ子……いい? クレオパトラの美というのは――」
「過去の女の話? 今ここにこんなに可愛い女の子がいるのに? しかもあまあまにゃんつきモードの私だよ」
マリ子は京の膝に座ると、上機嫌に流行歌を鼻で鳴らしながら体を擦り付けた。
「おい……オマエらいいかげんにしろよ」
怒ったのは芳樹だ。
マリ子と京に向かってではなく、赤沼と青木に向かって怒っていた。
理由は一つ。赤沼と青木が『百合』と呼ばれる女性同士の関係を深く描いたアニメ作品を見ているからだ。
見るならモニター画面ではなく現実だろうと、説得のように説明していた。
「いい? あの二人は女だよ」
青木はわかってないと顔をしかめながら言った。
「当然。男だったら、オレは興奮しねぇよ。女とお遊びがどれだけ興奮するか忘れたか? つい二、三年前の教室を思い出せよ! 挨拶代わりのキスをする女子、それを受け入れる女子。なぜか乳をもみしだく女子。高校っていうのは、男が股間と共に一際大きく成長する場所だ」
「わかるよ……」赤沼は低い声で言うと、雰囲気を作っておかっぱ頭をかきあげた。「カーテンをも翻す風でめくれるスカート。怒られて大変だったよ」
「僕も」と青木も話に加わった。「せっかく起こしてやったのに、お兄ちゃんのエッチだなんてさ……困っちゃうよね」
「オマエに妹はいねぇだろうが」
「それが出来るのが恋愛シミュレーションゲームだ。言わせてもらえば、あそこでニャンついてる二人は妹じゃない。同じ土俵に上がりたければ、彼女らにお兄ちゃんかお姉ちゃんを作ってくれ。それで初めて対等に話が出来るってもんだ」
「平日の夕方にアニメゲームなんかやってる奴と話なんか合わねぇか……。それも人の家で」
芳樹がため息をつくと、マリ子にお菓子の空き箱を投げつけられた。
「芳樹……。アンタの家でもないでしょうが、たかしも明夫も出掛けてるのよ。何しに来てるわけ?」
たかしと明夫は二人で遊びにいっている。
変な三角関係で気を使わせたお詫びに、明夫の好きなアニメ映画に付き添い、おまけのトレーディングカードをプレゼントするというわけだ。
「外は三十度超えてるんだぞ。どこへ行けっていうんだよ」
芳樹は非常識なことを言うなと強く出たが、それよりも強いマリ子の視線にはたじろいでしまった。
「その三十度を超える中を勝手に歩いてきたのはアンタでしょうが。何しに来たのよ」
「寂しいから遊んでもらいに来たに決まってんだろうが!! ここに来れば誰かが絶対にいる場所を、健全な男子大学生が手放すと思うか?」
「それでオタクと一緒に股間を膨らませてるわけ?」
「膨らんでるのは胸だ……」
芳樹はマリ子の顔から視線を少し下に落として言った。
「アンタの場合は結局股間でしょうが……。たまにはオタクを見習ったら?」
「オタク? オタクってこいつらのことを言ってんのか?」
芳樹は自分とは比べ物にならないだろうと、ナチュラルに見下して二人を振り返った。
「その目見たことある。イケてる軍団にいる最下層の人間が、体育の失敗時に僕を見て自尊心を必死に取り戻そうとしてる目だ」
「悪かったよ……。確かに今はオレの態度が悪かった。でも、どうオタクを見習えばいいんだよ」
「少なくとも、女と離す時はちゃんと一枚フィルターを貼って喋ってる」
「極厚だろうが……」
「ゼロコンマの世界の薄さで喜んでるは男だけよ。そして早い男に限って薄いのが好き。あれってなんで?」
「オレに聞くんじゃねぇ」
「じゃあユリに聞く」
「あいつが知ってるわけねぇだろ。ただの幼なじみだぜ」
「大学生まで幼なじみが続いてたら――ただのじゃない。不都合な事実を知ってる天敵よ。言われてるのよね、ユリに。芳樹を常に牽制しておくようにって」
「変な友情を築きやがって……。恋人の元カノと仲良くするってどういう神経してんだよ」
「順番が違っただけよ。私とユリが仲良くなる前に、たかしが先に仲良くなったってだけ。そういえばどっかの誰かよね。ユリにたかしを紹介したの」
「あの時は別れてだだろうが。タイムマシンでも作ってやり直せってのか?」
「バカ言ってんじゃないわよ。タイムマシンを使ったら、小学三年の夏に戻るわ。公園のベンチに落ちてた千円札を絶対に拾ってやる」
「それは犯罪だろう……」
「アレは私のだったの。ポケットからこぼれ落ちた千円札。今その千円があれば、どうなるかわかる?」
「わかんねぇよ」
「人生の千円分の損を取り戻せたのよ」
マリ子は真剣な顔で言うが、芳樹はなにをバカなことを思っていた。
「千円なんて、昼飯代くらいだろうが」
「なら、ちょうだい」
「は?」
「昼飯代。アンタがさっき食べたパスタ。ただじゃないのよ。京の手作り。京は大きな子供三人の為にわざわざ作ったのよ」
「四人よ」
京はマリ子のことも勘定に入れていたのだが、当のマリ子は自分が含まれているとは夢にも思っていなかった。
「もう……計算間違ってるわよ。三人でしょう」
マリ子が芳樹、赤沼、青木と順番に指差すと、京は「そうね」と諦めたような笑いを小さく口元に浮かべた。
「わかった!」と芳樹が声を大きくしたので、マリ子は千円が手に入ってラッキーと思っていたのだが違った。「千円で男の料理を作ってやろうじゃねぇか。続け野郎ども! スーパーに行くぞ!!」
芳樹は拳を掲げて玄関に向かったが、数分経っても誰もついてこないので、ドアノブの握る前に小走りで戻ってきた。
「野郎ども行くぞ!!!」
「それって僕らのこと?」
青木は赤沼と目配せし合いながら言った。
「どう見たってそうだろが……それとも悟みてぇに男の娘? になったってことか?」
「違うよ。僕らをよく見て?」
青木が言うと、赤沼も「キミはもう知ってるはずだ。冒険の始め方を」と付け足した。
「わーったよ……」芳樹は目を閉じて深呼吸を数回繰り返すと、意を決した目を開けた。「いざゆかん! 約束の地へ!」
芳樹が拳を掲げると、二人も「おー」と拳を掲げた。
そしてそのままの勢いで、三十度を超える外気温へ飛び出しのだった。
「……アレってなんなわけ?」
急に静けさが騒がしくなった部屋で、マリ子がポロッとつぶやいた。
「スーパーに買い物へ行ったのよ」
「そうじゃなくて、いざゆかん! 約束の地へ! ってやつ」
「スーパーへ行きましょうって意味よ」
「みゃーこ……わざとからかってるでしょう」
「私がアニメに詳しいわけないでしょう。確実なのはご飯を期待しないほうが良いってこと」
「でも、最近男の手料理って流行ってない? てか、必須スキル?」
「流行りじゃなくて必要にかられてでしょうね。昨今の事情を考えると……。その点では必須スキルかも知れないわね」
「違う。女を落とすスキルの話。ちなみにたかしは料理スキルはなしよ。なんでも同じ味付けなんだから……。知ってる? 一緒に同じ料理を作ったら、明夫はひと目でたかしが作ったのって当てられるのよ。ちょっとキモくない?」
「私もマリ子が作った料理なら、ひと目見て当てられる自信があるわよ」
「本当にみゃーこって私のこと大好きだよね」
「そうよ」
「やーん!! 私も!」
マリ子はソファーに押し倒すようにして京にじゃれていると、玄関のドアが開いた。
鍵の音はない。先程出ていった三人が暑さに負けて帰ってきたのだった。
「なによ……根性ないわね」
マリ子は京の引き締まったお腹から顔をあげると、数分で汗だくになった芳樹の顔を睨みつけた。
「スーパーまで歩いてみろ。脱水症状でぶっ倒れる。干からびて現代に蘇ったファラオだと思われるだろうが」
「やば! それって私が歩けばクレオパトラってこと? みゃーこ……これって行くべき?」
「そうね。クレオパトラと同じ故人になりたければ」
「それって……」
マリ子が眉間にシワを寄せて理解していないのを見ると、京は「出ちゃダメってこと」と付け足した。
「そうよね。で、イキって御飯作るって話はどうなったのよ」
「ほら、オカズだ」
芳樹はソファーで抱き合っているマリ子と京を指すと、オタクを二人を納得させようとした。
「うわ……最低ね。今の一言でアンタの生涯経験数の一桁は減ったわよ。つまり童貞に逆戻り。もう一回女をわかる努力をしなさい」
「そうだよ」とマリ子に理解を示したのは青木だ。「彼女らはオカズにならない」
「待った……そこのオタク三号。アンタには明夫以上に言いたいことがあったのよね。妹は女じゃない」
妹というフィルターを通すことによって活力得る青木は、自分に興味をもつことがない。わかっていても、マリ子は不機嫌にならざるを得なかった。
「当然。妹は女性より上だよ。マリ子さんや京さんが妹だって言うなら、僕は推すよ。でも、現実違うでしょう? 冷静になるべきだ」
「明夫の影に隠れてるけどアンタも相当よね……。たまには現実に手を出したらどう?」
「そうだ。その通りだ。ありがとう。勇気をもらえたよ」
満更でもない様子の青木にマリ子は首を傾げたが、隣で赤沼が余計なことを言ったという顔をしていた。
「その勇気は捨てて……今すぐ」
「お義兄さん。僕はあの日運命の音を聞いた。確かに君の妹は僕の顔を見てお兄さんと言った」
「そうだ。確かに言った。お兄さん邪魔だって。玄関に飾ってあるフィギュアの前から青木がどかなかったから」
「【動悸ドキドキ同期☆アンドロイドシスターズ】のフィギュアの前だぞ。僕は思わずフィギュアに話しかけられたかと思ったよ」
「フィギュアがボイス搭載じゃなかったことが悔やまれるよ」
すっかりオタク談義を始める二人を見て、これはついていけないと芳樹は二人から離れてマリ子と京が座るソファに寄っていった。
「なんでいつもオレはこうなんだ」
「女の前で無駄に偉そうだからじゃないの?」
マリ子はテレビが見えないから邪魔だと、芳樹の太ももを蹴った。
「言っておくけど、オレがベッドの上でどれだけか弱い生物か知ってるか? スマホのマニュアルと同じくらい複雑な説明書を渡したいくらいだ」
「それを簡略化したものがここにある。僕らのマニュアルだ」
赤沼はノートパソコンを起動させて、肌色成分が多めのゲームパッケージをちらつかせると、ろうそくに火に誘われる羽虫のように、芳樹はふらふらとオタク二人元へ近付いていった。
最後にマリ子に向かって振り返ると「……オレがどれだけ弱い生物かわかったか?」と情けない顔を残し、オタク達と肌色渦巻くゲームの世界へ旅立っていった。