第八話
「なにしてるのさ」
明夫が洗い物をするたかしを不思議そうに見つめていた。なぜなら、洗い物の当番はマリ子のはずだからだ。
「用事があるっていうんだからしょうがないだろう。明日まで洗い物を溜めて置くつもりか?」
「ルール違反だって言ってるんだよ。今すぐ彼女を家から追い出そう」
「いいんだよ。オレが好きで交代したんだから。彼女は何も悪くない」
「おかしいよ、それ。だって僕の時は変わってくれないじゃないか。そんなのズルいよ」
「それはそうだろう、マリ子さんに優しくする理由はあるけど、君に優しくする理由ってあるか? そもそもなんでオレがマリ子さんと同棲を決めたのか忘れたのか?」
「トチ狂ったから」
「……なんでトチ狂ったかってこと」
「それは……君があの魔女に……」
そこまで言うと明夫はハッとした顔になって固まった。
たかしはマリ子が好き。そして、赤沼も丸子に好意を寄せ始めたのだ。二人とも大事な友人であり、このままではどちらかが傷つくことになるのは明らかだった。
「そんな大袈裟に嫌味なことをしなくてもわかってるだろう。明夫だって、浮いた家賃でゲームを買ったんだろ。同罪だ」
「そうだね。僕は罪深い男だよ……君のことを救ってやれないかもしれない……」
「今日はまた随分としつこいな……そんなに文句があるなら、明夫がどうにかしてよ。オレを巻き込まないで」
「そうだね……。でも、これだけは忘れないで。僕は君の味方でもあるんだ」
そう告げると、明夫は溜息混じりにキッチンを出た。
そして、アイスを取りに来たマリ子に出くわすと、一際大きいため息を響かせたのだった。
「君は凄いよ。付き合う前から二股をかけてるんだもん」
「アンタも凄いわよ。二股をかける前から文句を言ってくるんだもの。で、なに?」
マリ子は文句なら手短に済ませてと挑戦的に言ってきたので、明夫は胸の内をすべて話した。
「なに? そんなことで悩んでたの?」
「だって僕は板挟みなんだぞ。これが恋愛ゲームなら好感度メーターがついてるけど、君は攻略対象外だ。好感度メーターはついてない。僕は無力だよ」
本気で落ち込む明夫に、今度はマリ子がため息をついた。何をバカな心配をしているのだろうと。
「アンタは私がどっちかと付き合うと思ってるわけ?」
「そうだよ。だって、二人とも君が好きなんだぞ」
「なら問題を簡単にしてあげるわ」マリ子はスマホを取り出すと、自分と男のツーショット写真を見せた。
「君……お兄ちゃんがいたの? これで青木も参戦だよ……。ありがとう! 問題を増やしてくれて!」
「違うわよ。新しい彼氏よ。彼と付き合ってるんだから、たかしともオタク友達とも付き合わないって言ってるの。私は安月給のサラリーマンじゃないのよ。目の前にあるどっちかで選ぶんじゃないの。ホテルに行って高級ビュッフェから好きなものを選べる立ち場なの。アンタだってお店だけじゃなくて、ネットで買い物するでしょ。それと同じよ」
「君、ネットの出会い系使ってるってこと?」
「これだからオタクは嫌いなのよ……。世界が狭すぎ」
マリ子はうんざりして顔を歪めると、明夫を無視してアイスを取りに行った。
「そうかネットか……」
明夫は閃くとすぐさま行動に移った。
「なに? オレに見せたいものって」
「ゲームするなら、青木も呼ぼうよ」
数日後、荷物が届くと明夫はたかしと赤沼を部屋に呼んだ。
「違うよ。今日は二人に大事な話があるんだ。よく聞いて」
いつもと違う明夫の雰囲気に、たかしと赤沼は顔を見合わせてから大人しく聞くことにした。
「君達は二人ともあの魔女マリ子に惚れてるね?」
「なに? 赤沼がマリ子さんに惚れてるって!?」
「たかしが? 明夫! そんなこと一言も言ってなかったじゃないか」
赤沼がよくも黙っていたなと屁っ放り腰で掴みかかると、明夫も屁っ放り腰で避けた。
「言ってどうなる問題か?」
「少なくとも言い訳は考える時間ができた」
「それは必要ないよ。だって君達は二人とも振られたんだから。マリ子には新しい彼氏が出来た。写真も見たよ。君達とは比べ物にならいほどマッチョだった。ゲームだったら迷わず彼をタンクに使うね」
衝撃の事実をサラッと発表する明夫に、二人は言葉もなかった。だが言わずには居られない。
たかしは気力を振り絞ってどうにか「どうしてそれをオレ達に今言うんだ」と言った。
「良い質問だ。それこそ君達をこの部屋に呼んだ理由だ。僕は考えたよ、いずれは君達も魔女に男が出来たことを知るだろう。そして二人は傷つく。君達は僕の大事な友人だ。でも、別々に慰めるのは面倒臭いよ。だから二人いっぺんに傷ついてもらうことにしたの」
「よくこんなやつと友達やれてるな」
たかしが赤沼に言うと、赤沼もたかしに言った。
「よくこんなやつと同居できるな」
「待て待て二人共。傷つけたのは僕じゃないだろう? マリ子だ。僕は君達を慰めるために呼んだんだぞ。ほら見ろ」
明夫はベッドを指した。そこには服がマネキンのように敷かれており、シャンプーと香水も置かれていた。
「見たぞ……」
たかしは一瞥して意味がわからず呆れた。
「見たら考えて。想像してよ。赤沼は出来るだろう? オタクの必須スキルだ」
「無理。まさか僕に女装しろっていうの?」
「本当に君達には呆れるよ。普段から僕は口をすっぱくして言ってるだろう? 妄想は具現化出来るって。この服を見たことないかい?」
明夫の問いに少し考えてから、たかしは「マリ子さんのだ!」声を大きくした。
「このシャンプーも……マリ子さんが使ってたやつ」
嗅ぎ覚えのある香りに、赤沼も声を大きくした。
「ようやく理解したか。いいかい? 君達はフラれたんじゃない。新しい世界への扉を開いたんだ。ようこそ僕の世界へ! 安心して、僕はしっかり目を瞑ってるから。どんな愚行もやり放題だ。さあ! さあ!」
明夫はネットで買ったマリ子とお揃いのものを使って、思う存分妄想して傷を癒せと言った。
しかし、目を開けた時に、そこに二人の姿はなかった。
「信じられるか? 告白もしてないのにフラれた……。それも、知ったのは明夫の口からだぞ」
家の近くのバーガーショップで、たかしと赤沼は傷を舐め合っていた。
「よくあることだよ。告白もしてないのにフラれるのはオタクの得意技だ。たかしは言われたことないだろう? 聞いてもいないのに、こう言われるんだ。あいつだけは絶対に嫌ってね。僕の人生はそんなことばっかりだ」
赤沼は深いため息をついた。
「オレもあるよ。好きな子のことを周りに冷やかされてね。それまでは良い雰囲気だったのに。それから一度も口を聞かないまま中学を卒業したよ」
「僕の話聞いてた? どっちが不幸か自慢大会だったら、たかしは負けだよ」
「でも、赤沼はその女の子のことを好きでもなかったんだろう? オレは好きだったんだぞ。オレの方が傷が深いよ」
「実は僕も好きだった……」
「それは辛かったな。好きな子から、あいつは嫌だって言われたらキツいよ」
「違う。そう言われてから好きになったんだ。だって、なんの興味もないのに僕の話題は出さないだろう? そう考えた日から、僕は彼女をずっと目で追うようになってた。ゼノビア様が現れるまではね」
「明夫の友達に相応しいよ……」
「僕はあそこまで人生捨ててない。お付き合いをして、結婚して、子供も欲しい。ちゃんと現実の相手とね」
「それなら、もうちょっと趣味を隠せば? 普通の女性は半裸のフィギュアを山ほど部屋に飾ってあったら引くよ」
「そこが難しい。あれは捨てられないよ……僕の魂の半分はフィギュアにこもってるんだ」
「魂がこもったら呪いの日本人形だぞ。よく実家暮らしで、あそこまで飾れるよ。初めて赤沼の家に行った時は、変な息苦しさを感じた」
棚から机。ベッドのサイドテーブルまで、至るところに飾られているフィギュア達を思い出して、たかしは身震いした。
「僕の妹も同じこと言うよ。家が火事になったら絶対にフィギュアは持ち運ばないことって、誓約書まで書かされたんだぞ」
「君が逃げ遅れるのを心配してだろう? 優しい妹じゃないか」
「違う。僕のオタク趣味を近所に知られたくないから。はっきりそう言ってた」
「なら、今からオレが言った意味にすり替えればいい。そしたら優しい妹の出来上がりだ」
「青木が喜ぶだけ。まだ人の妹を自分の妹のように扱おうとしてるんだぞ。あれはもう病気だよ……」
「オレも昔ねだったよ。両親にさ、弟か妹が欲しいって。出来たら一生良い子にするって。……願いは叶わなかった。出来なかったら悪い子になるって言わなくてよかったよ」
たかしは懐かしい思い出だと目を細めるが、赤沼は糸のように口を真っ直ぐ細めた。
「根本的に違うんだよ。たかしの言ってることは。そういう純粋な話じゃないの。もっとドス黒い話。どういうことなのか、細やかに教えようか?」
「わかってるよ。話題を変えたんだよ……ここはバーガー屋だぞ。君達が通うオタクショップのフリースペースじゃないんだ。視線が痛いよ……」
たかしはわざと音立ててジュースをストローで吸うと、肩身が狭いと縮こまった。露骨に反応はされないものの、時々視線が向けられるのには気付いていた。
「ごめん……いつもの調子で。明夫といるとさ、そういうの全然気にならなくなっちゃうんだよ」
「だろうね。こっちの都合は無視で、言いたいことを言いたいだけ言うもんな。オレはいつも振り回されてる」
「僕もだよ。なんかさ……変な話だけど、君と同じ人を好きになったことで、少しまともになれた気がするよ」
「ちょっとだけね……」
たかしは赤沼のスマホケースを見ながら苦笑いを浮かべた。そこには半裸のゼノビアが描かれていたからだ。
たかしと赤沼が少し変わった友情を育んでいる頃。
明夫はなぜ失敗したんだろうとリビングで頭を悩ませていた。
そこへマリ子が帰宅した。
「もう最悪……レポート再提出だって。理由わかる? 書いてる意味がわかんないだって。大学教授の癖に文章も読めないのかよ。小学校からやり直せってまじ」
マリ子が鞄を乱暴にソファに投げ捨てると、明夫が振り返った。
「ねえ……もしかして君って魅力ないの?」
「……はぁ?」とマリ子は声が裏返った。「私がどれだけモテるか知らないのは、アンタが現実から目を背けてるからよ」
「でも、二人とも君の服には反応しなかったよ」
明夫は床に広げたマリ子と同じ服を指していった。改めて眺めることにより、どこがおかしかったのか確認していたのだ。
「ちょっと! 人の服を勝手に! って……値札付いてるじゃない。もしかして、もう一人の私を作ろうとでもしてたわけ?」
そんなわけないと冗談めいて言ったのだが、明夫は頷いた。
「そうだよ、口やかましくもなく、アイスを食べてソファを独占するでもない。ただいるだけの君を作り出そうとしたんだ」
「ちょっと……まじで引くわ……」
「でも、結果は失敗。誰も君に興味がないってさ」
「あっそう……そりゃ失敗でしょうよ。……ん? ――ちょっと待った!! 誰が私に興味ないって?」
「まず、僕だろう。赤沼に、たかしもだ」
「二人とも私に惚れてるんじゃないの?」
「そうだったけど君には彼氏がいる。だから、代わりを作ってあげようとしたんだ。でも、食いつかなかった。君には服のセンスがないみたい」
「いい? よく聞きなさい。そこのオタク。アンタは服のことなんてわかってないよ。なぜなら童貞だから。女の服っていうのはね。おっぱいの膨らみも計算されて作られてるのよ。こんな萎んだ体が、転がってるだけで興奮する男がいると思うわけ?」
「先人曰く、膨らませる時が一番ドキドキする」
「アンタの空気を入れる嫁さんの話はしてないわよ。貸して。ブラジャーつけるから」
マリ子は干してある抱き枕を乱暴に取ると、服を着させ始めた。
「ちょっと! 僕の抱き枕を汚さないでよ」
「ブラジャーは私の私物を使ってるんだから、少しは嬉しがりなさいよ」
「今すぐ洗って」
「本当ムカつく……。ほら見て、シャツに膨らみが出来た」
マリ子はブラで膨らんだシャツを突いてみせた。
初めは否定的だった明夫も、それ見て興奮していた。
「すごいよ! これはおっぱいマウスパッド依頼の大発明かもしれない。抱き枕におっぱいがついたら最強だよ! だっておっぱいが具現が出来るんだよ。もしかしたら君を見直さないといけないのかもしれない」
「あのね……ブラは柔らかくないのよ。中身が柔らかいの。こんなの揉んでどうすんのよ。ただの空気よ」
マリ子が抱き枕を抱えて後ろから胸を揉んでいると、たかしが帰ってきた。
「ごめん遅くなって、思ったよりも話が長引いちゃってさ……。――何してるの?」
「私が私のおっぱいを揉んでるのよ。文句ある?」
「マリ子さんにはない。君にはある」
たかしは明夫を睨んだ。
「なんだよ。君の為におっぱいを付ける研究をしてるんだぞ」
「もう少し現実を生きてくれよ……。頼むから……」
たかしは明夫に関わる人物はみんなおかしくなっていくと、肩を落とした。