第二十一話
初夏の海。日差しは柔らかで、どこか海の色は薄く感じられた。
押し寄せる白泡立った波が一番色が濃いように見える。
ギラギラ光る亀甲模様の水光はなく、夏の爽快さもない。
まだまだ春に近い穏やかな海だった。
やけに空が高く感じられるのは、海の上に浮かぶ雲があまりに頼りない薄雲だからだ。
これが入道雲ならばまだ雰囲気が出るのだが、乾いた風に吹かれて現実に戻された。
だが、そんな海でも人が集まればテンションは上がるものだ。
マリ子は車から降りるなり、周りの人など気にせずに両手を広げて深呼吸した。
「天気は良好。ちょっと寒いけど、海に入らなければ問題なし! 早速着替えるわよ!!」
「まだ男達が乗った車が来てないわよ」
京は肌が焼けないように長袖のパーカーを着ながら言った。
「来たら男が寄ってこなくなるから置いていきましょう」
「さんせーい!」と公子が子供のように手を上げた。
「私の恋人も乗ってるんだけど?」
ユリが言うと、マリ子はいたずらな笑みを浮かべた。
「そうだった。でも、待ち合わせに遅れてくる男とは別れたほうがいいわよ」
「それは同意ね。もしも買い食いとかしてたらぶっ飛ばそうかしら」
マリ子と京が顔を見合わせて笑っていると、男達が乗った車が到着した。
懐かしのアニソンを熱唱した疲れで、額に汗を浮かばせた卓也が降りてくると、ユリは早速近付いた。
「遅かったわね」
「赤信号の中。早く変われって祈ってた努力を認めてよ」
たかしは軽くハグをすると、ユリの背後にいるマリ子と目が合ったのですぐに離れた。
今更恋人とのハグを恥ずかしがる必要はないのだが、マリ子の目がニヤニヤしていたので気恥ずかしくなったのだ。
「仲良いのね。妬けちゃう」
マリ子の冷やかしに、ユリは遊び半分で乗っかった。
ほんの小さないたずら心だったのだが、これがたかしを勘違いさせてしまった。
「そう? 別れたほうがいいんじゃなかった?」
このユリのセリフは、たかしがまだ到着していない時にマリ子言った言葉だ。
その場の雰囲気に合わせた言葉であり、もちろんユリもマリ子本気ではない。
だが、その過程を知らないたかしは、マリ子がユリにルームシェアしていることを話したのだと思ったのだ。
「ちょっと……それは弁明させて。確かに黙ってたのは悪かった。でも、マリ子さんと付き合っていたのは昔のことだし、今はなんの関係もないんだ!! 部屋は別れてるし、なんならもう一人。そうだ!! 京さんも今は一緒に暮らしてるんだ!!」
テンパったたかしは、その後も言わなくてもいいことを次々口走ってしまった。
熱病にうなされたような中で最後の記憶は、マリ子があちゃーと顔を両手で覆う仕草と、見たことのない目つきで睨んでくるユリの顔だった。
どう遊んだが、どう帰ったかもわからないまま。たかしの【ドキドキ海フェスは】終わってしまったのだ。
その数日後。たかしは部屋のソファーでうつ伏せになっていた。
意味もなくうーうーと唸ってみては、自分の浅はかさに落胆しているのだ。
たかしが人生の中でも一二を争う不幸の最中。その隣では、明夫がドキドキ海フェスの戦利品を眺めていた。
「凄いよこれ……。フィギュアに本物の水着素材を使ってるなんて聞いたことある?」
「……ああ」
「もう三日も見てるけど全然飽きない。PVC素材だけじゃ絶対に出来ない陰影だよ。このフィギュア作成に関わった人は人間国宝と呼ばれるべき存在だ。紫綬褒章を受賞して然るべきだ」
「……ああ」
「これの何が凄いってわかる? 異なる素材を組み合わせることによって、PVC素材が肌の質感に見えてくるんだ。これって二次元と三次元を繋げる扉だと思わない? そのうち人肌に出来るウォーム機能とかも搭載されると思うんだ。そうなればもうロボだよ。男の夢!! ロボ娘! ドリルに巨大化。僕……日本に生まれて幸せだよ」
「……ああ」
たかしはクッションに顔を埋めて突っ伏したまま、明夫の熱弁を適当に反応していた。
「……聞いてる?」
「……ああ」
「今日のゴールデンタイムのテレビ所有権はたかしの日だけど……僕のアニメの日に変えてもいい?」
「……ああ」
「やりぃ!!」
明夫がガッツポーズで大声を出すと、マリ子が何事かと降りてきた。
「ちょっと……なんなのよ……」
マリ子の不機嫌な顔を見た明夫は絶叫した。
「バケモノだ!!」
「ちょっと! なんなのよ!」
フェイスパックをした真っ白な顔のマリ子が迫ると、明夫はソファーの裏に隠れた。
「知ってるぞ……。【ダグラの夢】に出てくる【アトラスの使徒】の第三形態だ。もしかして……その顔の中にもう一人の自分がいたりする?」
マリ子は呆れのため息を一つついてから「いるわよ」と答えた。「とびっきり美人の女の子が中に入ってるわ」
「僕は現実の話をしてるんだ」
「アニメの話でしょうが。バカタレ」
「僕はアニメが現実なの。こっちの世界は夢を見てるだけ。ね? たかし」
明夫は思いついた顔で聞いた。
「……ああ」
「ほら見ろ。二対一だ、僕が正しい」
「そんなわけないでしょうが」
「……ああ」
話を聞いてないたかしは、マリ子の言葉にも適当に反応していた。
「なに? どうしちゃったの?」
「僕の予想では、たかしはキャパオーバーした。妄想力が足りないせいだね。治すにはオタクになるべきだ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう。本当に大丈夫?」
「……ああ」
「そうじゃなくて……。――いや、そうね。ああよね。ああよ」マリ子も明夫と同じような思いついた顔で「たかしの分のアイス食べても良い?」と聞いた。
「……ああ」
「良いって言ったわね? 言ったわよね? アンタが証人よ」
マリ子は明夫に向かって人差し指をビシッと突きつけると、るんるんと鼻歌を奏でながら冷蔵庫へと向かった。
「やり口が詐欺師だよ……」
「アンタだってアニメの放映権を獲得したでしょう」
「僕は全世界のオタクのためにやったことだ。僕がアニメを見ることにより、ネットに感想を投稿するだろう? すると盛り上がりのキャンプファイアーに、少しだけ燃料を焚べたことになる。情熱は萌え上がり、心に焼き付く思い出になる」
「本物のキャンプファイアーを思い出にしなさいよ……。小学校の頃に経験あるでしょう」
「あれは大気汚染祭り。僕が言ってるのは燃えるじゃなくて萌える。つまり心の炎だ。心が燃えた土地には肥える。そこで感情が萌えいづる。僕の言ってることわかる?」
「アンタが馬鹿だってこと以外はわからない」
マリ子はアイスを一口食べると、たかしの背中に腰を下ろして頭をなでた。
「女なんか星の数のほどいるわよ。ユリに振られたくらいなによ」
マリ子の言葉はたかしの脳みそを揺さぶった。まるで頭の中だけジェットコースターに乗っているかのようだった。
たかしがユリに別れを告げられたのは、ドキドキ海フェスに参加する前だ。
車から降り、少し会話をしたきりだ。
目の前が真っ暗になった頃には、友人全員の前で振られていた。
日も経ち。少しは冷静になったたかしだったが、冷静になれば冷静になるほど、ユリに理路整然と怒られたことを思い出し、テンションが下がりきってしまったのだ。
「この水着をめくってごらんよ。新しい世界が待ってるぞ」
たかしにフィギュアを近付ける明夫を、マリ子は乱暴に足で追い払った。
「まったく……。なんで勘違いしちゃったの? 私がわざわざ言うわけないでしょう。アホな元恋人達ならともかく、たかしとはちゃんと前向きに別れたんだから。貶めるようなことはしないわ」
たかしはようやくソファから体を起こしたが、まだ猫背で床を見つめていたい心境だった。
「それはわかってるけど。あの頃は普通じゃなかったんだ」
「知ってるわよ。誰がたかしのガスを出してやったと思ってるのよ。それなのに疑われて傷ついたわ」
マリ子はわざとらしく泣き崩れる真似をしたが、アイススプーンを咥えたままなので台無しだった。
「それは悪かったよ。でも、あんなに弁明の余地がないなんてありえる?」
「私たかしと付き合ってる時に他の男と寝たわよ」
「嘘だろ!?」
「嘘よ。でも、信じられる?」
たかしがニッコリ笑うマリ子の顔を見つめて考えていると、マリ子は急に不機嫌になった。
「私じゃなくて、一般論で考えるのよ」
「……勘違いする」
「そうでしょう。だから言ってたのよ、皆早く言うべきだって」
「まだいじめるわけ?」
「じゃあ、やめておいてあげる。でも、心配してるのは本当よ。早く元気になりなさい」
マリ子は最後に優しく微笑むと、友人との約束があると家を出ていった。
「本当最悪! 一つの嘘で台無しよ」
喫茶店。ユリは人目も気にせず大きな声で言うと、それ以上に大きなため息をついた。
「悪気はないのよ。ヘタレなだけ」
マリ子の友人とはユリのことだった。
すっかり意気投合し、二人で会うほどの仲になっていたのだ。
「肝心なところがヘタレって……付き合ってて苦労しなかった?」
ユリは経験あるでしょうとでも言いたげな視線を送った。
「したわよ。ベッドまでバラの花びら撒いて誘導したんだから」
「うそ? 本当にそんなことしたの?」
「冗談よ。ブラを一枚床においたら、もう一直線」
「わかるわ……。男って本当に下着を見ないわよね。エロ画像や動画なら見るくせに、彼女の下着姿はさほど興味ないってどういうこと?」
「男なんてそんなもんよ。昔お気入りの下着をつけていったら、ホックの外し方が下手で壊された」
「それで関係も壊れたんでしょう?」
ユリがお調子者顔で言うと、マリ子も笑みを浮かべた。
「よくわかってるじゃない」
そして、注文した本日二つ目のアイスが届くと、食べる前にため息をついた。
「どうしたの?」
「こんなことになるなら、先にこっそりユリ伝えておけばよかったって後悔してるのよ」
「仕方ないわよ。その頃は知り合いじゃなかったんだもの」
「でも、京とは知り合いだったんでしょう?」
「そうよ。でも……」と、ユリは言いにくそうに眉を寄せた。
「なに? 言ってよ。もう友達でしょう?」
「京さんが、あまりよく思ってないって。私のことを、マリ子さんが」
ユリは言いにくそうにしていたが、マリ子はお構いなしだと笑顔を浮かべた。
「ビッチって呼んでたわ。たかしがあまりにのろけてうざいから」
「許す。でも次に影でそう呼んだら……もう買い物に付き合わない」
「絶対呼ばないわよ。だって、京は化粧に興味ないし、ハム子は全然系統が違うし、コスメを買いに行く友達が欲しかったの! 絶対手放さないわよ」
「それなら、夏は本当の海に行くように、夏用コスメを買いに行きましょう」
「行く! 夏用ファンデ欲しかったの。最近年々気温上がるじゃん? 毎年変えないと合わないのよね……」
マリ子と京は雑談をしながら喫茶店で過ごしていた。
その頃。たかしも家でゴロゴロばかりしていられないと、一人出かけていた。
「どうだ? モヤモヤも吹っ飛ぶだろう」
最後に景気よく「あっはっは」と笑ったのは昌也だ。
マリ子の元恋人であり、少し前にたかしが友情を深めた相手だ。
ガス抜きがてら、ジム、公園に限らず、たまにこうして一緒に運動をしているのだった。
今は公園で、スローペースでジョギングをしていた。
「まぁね。少し前向きになれたよ。絶望しても、前を歩けば道はある」
「おいおい……良いことを言うなぁ……たかしの筋肉は」
「一応本音なんだけど……」
たかしは茶化されたと思ってむっとした。
「そんな顔するなよ。からかったんじゃない。運動するからこそ出る本音ってのがあるんだ。オレはそれを筋肉との会話と呼んでる」
「たぶんだけど……呼ばないほうが良いと思う」
「そうか?」
「絶対そう。でも、運動が気持ちいいことは否定しないよ。もっと前から始めておけばよかった」
「全然遅くないぞ。中年になってから習慣づけるのは難しいからな。若いうちに運動する習慣はつけとけ。この先、いくつになっても医者に言われることは食事と運動だ。あっはっは!」
昌也は豪快笑うと少しジョギングのスピードを速めた。
たかしは昌也の背中を置いながら、汗と一緒に心のモヤモヤが流れていくのを感じていた。
「すぐには無理だけど。踏ん切りは付きそうだよ。ちゃんと自分が悪かったって認めた上でね」
「それはいいぞ。ポジティブ人生こそ、筋肉が育つ証拠だ。悩んだら筋肉を育てろ。自分とうんと対話が出来るぞ!!」
テンションが上がったせいか昌也はたかしのことなど考えもせずに、どんどん距離を離して走っていった。
こうなるのはいつものことで、公園の入口が集合場所だ。
各々走り終わった後は、二人でストレッチをして終わり。
すべてが終わる頃には、ここ十数日の不安顔が嘘だったかのように、たかしはスッキリした顔していた。
朝の新鮮な空気を吸って愚痴を垂れ流す。
そうしていくうちに、たかしの心は穏やかになっていったのだ。
朝のジョギングはゆっくりと日常を取り戻す準備のように思えた。