第十三話
今日は休日。ルームシェアハウスはまだカーテンによって太陽の光が遮られていた。
スズメの声が一番に響き、忙しなく転がるタイヤの音が遠くに響く。
静寂だと呼べる朝は、突然終了を告げた。
「大変だ! 大変だ! 大変だ!」
朝から明夫が騒ぎ立てると、マリ子はよれたシャツ姿のままズンズンと足音を立てて階段を降りてきた。
「大変なのはこれからよ。……私にぶっ飛ばされるんだから」
「そんなことより大変なんだよ!」
「なに? 今度はどんなバカアニメにハマったってのよ。どっちにしろ行き着く先は暴力よ」
マリ子が拳を振り上げたところで、明夫が力なくソファーに座った。
「お金がない……」
「なんですって!? 泥棒? 泥棒よ!! 明夫が泥棒に入られたって!!」
マリ子が騒ぎ立てると、不穏なワードを聞いたたかしと京も慌てて部屋から出てきた。
「強盗だって!?」たかしが部屋にある突っ張り棒を片手に出てくると、リビングではソファーに倒れる明夫とそれを見下ろすマリ子の姿が見えた。「……恐喝の間違いじゃなくて?」
「アンタは後で別口でしめる」マリ子はたかしをひと睨みした。「――それで? どこよ、泥棒は」
「強盗なんて一言も言ってないだろう。僕はお金がないって言ったんだ」
「なによ……びっくりさせないでよ」
マリ子とたかしは、安全とわかるとほっと胸を撫で下ろした。
「マリ子さんが騒ぐから……」
「私は強盗なんてトンチキな勘違いしてないわよ」
たかしとマリ子がどっちの勘違いが酷いか罪をなすり付けあっている間。京は明夫に詳しい話を聞いていた。
「お金がないって言うのは家賃分がないってこと? それとも生活費? 学費?」
「それはあるよ。家賃は先払いしてあるし、生活費なんて削るのになんの躊躇いもない。学費は親だぞ。オタ活のお金がなくなったんだ!」
明夫のテンションはまるで誰かに盗られたかのようだが、現実は推し活だと気張ってネット発の短編アニメのグッズを買い漁ったからだ。
そして、その荷物は昨日届いたので、誰もがお金のない原因がわかった。
「お金は使ったらなくなるって知らないの? なら、教えておいてあげる。現実世界ではお金が必要なのよ」
「なんて薄情な奴らだ……。お金がないんだぞ。僕がドキドキ海フェスに行けなくてもいいのか?」
「うそ……アンタ来れないの……。最高じゃん。オタクのイベントを盛り上がるパーティーに変えてやるわ!」
マリ子はまずたかしに抱きつくと、次いで京の頬に何度もキスをして喜びを表現していた。
「あら、それは困るわよ」
京はマリ子にされるがままになりながら言った。
「なんでよ」
「だって、明夫君が来ないならオタクのイベントに行く必要はないもの。ホテルのキャンセル料はどうするの? ハム子は有給取ったって。ホテルへのキャンセルは私が電話してもいいけど、ハム子へのキャンセルの電話はマリ子がしてよ」
「絶対いや……。一年は絶対クドクド言われるもん。ちょっと! 明夫! なんでお金がないのよ!」
「言っただろう。【一つ目男爵】と【ミロー】のカップリングアクリルスタンドなんだぞ! 並べて飾るのが当然だろう!」
「言ってない。どっちか一つにしなさいよ」
「じゃあ、マリ子の部屋に飾ってあるポスターも捨てたら。三枚もいらないだろう」
「あれは! 【みき君】と【ゆうき君】と【たいき君】のデビューポスターよ。三枚買って貼るから価値があるの! わかった? わかったわよ……わかった! 明夫は悪くない。限定ってつけるショップが悪いのよ」
「なんでもいいよ」とたかしは慣れた態度で、せっかく起きたので朝のコーヒーを淹れていた。「どうせ誰も貸さないんだから」
「緊急事態なら貸すわよ」
京の提案に明夫は子犬のように反応したが、たかしがダメだと言い切った。
「バイトの日数を増やせばいいだけだろう」
「それじゃあ間に合わないよ。ドキドキ海フェスは、もう二週間もないんだぞ!!」
「だから、日数を増やした分は貸すよ。店長から言われてるんだよ……もっとバイトへ出るようにって。オレの番号を緊急連絡先に書くなよ……。何度今月のシフトは増やせそうかと相談されたか」
「無理だって答えたんだろう。さすが僕の親友。でも……仕方ない。僕の世界を守るためだ。せっかくのフェスだ。クリエイターに還元しないとね。僕は世界と戦うぞ!」
明夫は意気込むと、まだ電話をするには早い朝にも関わらず、店長へシフトの相談の電話をするのに部屋へと戻った。
「っていうか……一つ聞いていい?」
マリ子は明夫が歩いて行った方角から目を離さずに聞いた。
「ダメ。生クリームは作らないよ。なんで付き合ってた時はあんなことしてたんだか……」
「夜使った余りだからでしょ。――じゃなくて、アイツなんのバイトしてるわけ? 働けてるの?」
明夫の働いている姿が想像出来ないと、京も大きく頷いて説明を求めた。
「なにって普通のバイトだよ」
「明夫よ? ただのオタクじゃなくて明夫。アイツが出来るバイトなんて何一つ思い浮かばないし、もし思い浮かんでもクビにならない理由がわかんない!」
マリ子は一息で言い切ると、その勢いのままたかしを睨みつけた。
「というか、マリ子さんもクビになるんじゃない? 今日から【メイドのザンギ】って店でバイトじゃなかった」
「やば……今日は仕事を教えるから、客来る前に来いって言われてるんだった」
マリ子はパジャマを脱ぎながら、慌ただしく二階へと戻っていった。
騒動もこれで一段落だと思ったたかしだったが、京は「それで?」と更に聞いてきた。
「なにが?」
「明夫君のバイトよ。まだなにか言ってないでしょう」
「あぁ……バイトね。スーパーの品出しだよ。普通だろう?」
「普通過ぎるわ」
「ダメなの?」
「ダメではないけど、人と関わるような仕事をしてたのが意外ね」
「それはちょっと違う。明夫は関わってない。明夫の特技は聞いてるふりだから。だから品出し兼クレーマー対処係。シフトが少なくても、店長が手放さない理由がわかるだろう?」
「えぇ、よくわかったわ。でも、そう考えるとマリ子も向いてそうね」
「どうだろう。言い返さないのが一番大事だから」
「なら、無理ね」
この日は二人の共通の友人の話だったことからか、たかしと京の会話ははずみ。コーヒーは既に三杯ずつ飲んでいた。
既に明夫もマリ子も家を出て行った。
お昼も近くなったところで、京が「さぁ、行きましょう」と立ち上がった。
「行くってどこへ?」
「二人のバイト先よ。興味あるでしょう?」
「明夫のエプロン姿を見たところでなぁ……」
「マリ子のメイド姿は?」
「……ちょうどお昼だね」
「えぇ、言い訳にしやすいように。この時間に誘ったの」
「なんだろう。なんか実験動物になった気分……」
「心外ね」
「そうだよね。ごめん」
「実験動物扱いにしていいなら、もっと凄いこと仕掛けたいもの」
「……オレは人間です」
たかしは少しの不安を感じながら、京と一緒に二人の働く姿を見に行くことにした。
「いらっしゃいませー」という独特のリズムの挨拶が響く。
店内からはお決まりのBGMと安売り広告が流れている。大手チェーン店ではあるが、コンビニよりは品揃えが良い程度の小さなスーパーだ。
「いないわね……」
買い物客を装い、カゴを持った京は周囲をキョロキョロ見渡した。
「たぶん休憩中」
「こんな時間に?」
「さっき飲料メーカーのトラックが停まってただろう? 台車を倉庫まで押して疲れてる頃だろう」
たかしが何も買わずにスーパーをウロウロしてるのは決まりが悪いと、適当にお菓子をカゴの中に入れた。
すると「ジャガイモの緑の部分は毒なの? わかる? こんなものを並べておいて、もしも私が食べたらどうするつもり?」という周りに聞かせるようなクレームの声が聞こえてきた。
その声に気付いたのはたかし達だけではない。通り過ぎる客の八割が横目にしていた。
そして、その客の相手をしているのが休憩から出てきたばかりの明夫だった。
両手は前で組み、腰を軽く曲げて常に謝りの格好で相槌を打っている。
「言い過ぎじゃないかしら?」
「声が大きい人ってはそういうもんだよ。もしも明夫の心配をしてるなら平気。あの顔は、昨夜のアニメを思い出してる顔だから」
「あの状況で?」
「あの状況だから」意味がわからないという京に、たかしは続けて説明した。「明夫にとってクレーマーはツンデレなんだ。今も現実をスパイスに、声優の声とアニメのキャラクターを想像してる」
まだ付き合いの薄い京は「そんなわけ……」と信じていなかったが、明夫が堪えきれずに一度笑ったのを見て、たかしの言葉を信じた。
「本当に仲が良いのね。良き理解者って感じね」
「理解なんて出来るわけない。明夫の生態系は宇宙人と一緒。自分の頭がたいして良くなくて助かったよ。もし、頭が良かったら明夫の生態系を解明するのに一生を費やしてる」
「羨ましいわ」
「前から思ってたんだけどさ……。もしかして明夫のこと好きなの?」
明夫に対する京の反応は、普通の女性とは違う。
既に月に人類が暮らしているくらいの確率で、もしかしたらとずっと思っていたのだ。
京は「ええ、好きよ」とあっさり言った。「明夫君と同じくらい、たかし君のことも好きよ」
「それだと、マリ子さんも相当好きだろう」
「当然でしょう。誰よりも好きよ、マリ子のことは。たかし君もそうでしょう?」
「だった。好きだったね。そこを切り取って広げられると、とても困る」
「それは心に迷いがあるから? 尾を引かれる? 忘れられない?」
京はどんどんたかしと距離を縮めていった。恋人とまではいかないが、親密な友人程顔を近付けている。
「ちょっとちょっと! 怖いよ!」
「自分の気持ちに気付くのが?」
「自分の人生を誘導されてるのが」
「誘導されるくらいが、人生楽よ。ほら、次はマリ子の店よ」
京は余計なものを買う必要がないと、カゴのお菓子を陳列棚は戻した。
「本当だ。人任せだと楽だ」
「やっぱり、人任せだとろくなことにならない……」
たかしはマリ子のバイト先で、ザンギが揚がるまでの間。制服姿を褒め続けるという流れになったのだ。
流れを作ったの当然京だった。
「恋人だった時は四六時中褒めてくれてたのに」
マリ子は油で光るトングをカチカチ鳴らしながら言った。
「あの時はご褒美があったから」
「女を褒めて損はないんだから、褒めておきなさいよ、それにしても、変わってるわね二人とも」
「確かに珍しい組み合わせかもね」
「違うわよ。夜もザンギなのに、昼もザンギ弁当を買うのが」
今日はマリ子が食事当番の日だ。練習で揚げた黒いザンギを持ち帰るに決まっていた。
それなのに、二人がザンギを買いに来たのには理由があった。
「昼くらいザンギ弁当が食べたいから」
「変なのー」
そう言いながら手渡したザンギ弁当は、マリ子が暖簾をくぐる時に見えた真っ黒なザンギとは別物に見えた。




