第六話
「まじでありえない……どういうことよ」
講義前の空き時間。マリ子はスマホの画面を睨みつけていた。
「本当だよ。五ヶ月目だって。太ったなくらいに思ってたらしいけど、病院に行ったら妊娠発覚だってさ」
京はさほど興味がない様子で、小説から目を離さずに言った。
「違うよ、うちのバカ男二人の話。だってさ、一人は女に免疫がないオタクで、もう一人は私に惚れてるのに……なに!? 妊娠だって!? どういうこと? 大学辞めたってこと?」
「私はどっちかと言えば、バカ男二人の話のほうが興味あるんだけどね……。聞いてないの? とりあえずは休学だってさ」
「あんな中学生みたいな素朴顔なのにやることやってるのね。で、相手は?」
「さぁ、そこまでは。私も誰かが話してるのがたまたま耳に入っただけだから。興味ないしね」
「興味は私がある。もう……聞いておいてよ。気になって眠れなくなるじゃん。ハムは絶対知らないし……他の子にメッセ送って聞いてみよ」
マリ子は心底がっかりしたとため息を落とした。こういったゴシップは熱があるのは最初だけなので、今のうちに事情を把握しておいて存分に楽しみたかったのだ。
「それで? オタクくんと、マリ子にメロメロくんがなんだって?」
「私のゴシップなんて、妊娠報告に比べたら軽いもの。ワイドショーでも、話芸のない芸人のネタにちょっといじられるくらいのものよ」
「私はそれくらいのゴシップのほうが好き。特に最近マル子の周辺事情は聞いてて面白いからね」
「ただありえないって話よ。SNSの番号教えたのに、二人共必要事項以外メッセージしないの? おかしくない? 私の番号を手に入れたなら、普通今何してる? くらいは送ってくるもんでしょう。他の男は皆そうしてる」
マリ子は信じられないでしょうと、メッセージ画面を見せた。そこには中華とカレーとだけ書かれた二人からのメッセージが映し出されていた。
「これ……秘密の暗号?」
「私が食事当番の時は買ってくることに決まったの」
「麻婆豆腐は?」
「食べたかったら作るけど、もし胃薬が欲しいならメッセージ送っておいて。買って帰るから」
「もう少し上達してから、食べたがることにするよ。それで、どっちに怒ってるの?」
「どっちにも。クーポンのメッセージだって、もっと愛想の良い文章を送ってくるってのに。誰のIDを手に入れたかわかってるのかな?」
「わかってるから慎重になってるんじゃない? 二人共別の意味でね」
「意味は一つで良い。私は可愛い。それで、私よりは可愛くないけど休学した子にはお祝い送る?」
「なんで? 名前も知らない子なのに」
突然変な気の使い方をし始めるマリ子に、京は詐欺師でも見るような視線を送った。なにか企んでいることは明らかだからだ。
「ほら、お祝い渡すついでに、色々聞けるでしょう? 相手の名前はとか、どんな体位で作ったのかとか。お腹に子供いるなら腹巻きとかどうかな? 相手に気を使わせないし、気さくな会話に持っていきやすい」
「本当にそういうことには頭が回るんだね。参るよ。もしも、マリ子が本当に贈り物をするなら、私もお金を出すよ。そのほうが不自然じゃないでしょ」
「みゃーこのそういうところ好き。男だったら最高なのに……もし生えたら教えてね。一回は試して見るから。というか、お腹で思い出したんだけど。楽なダイエット知らない? 実は最近ちょっとね……」
「どっちの子なの?」
「真面目に」
「真面目に答えるなら、そんなの心配いらないくらいの体型だと思うけどね」
「みゃーこが言うと嫌味にしか聞こえない……。スレンダーには、田舎育ちのお尻の大きさの悩みはわからないのよ」
「私はその分胸もないけどね。本当に羨ましい?」
「おっぱいより下だけ取り替えて欲しい」
「まっ、ダイエットならハム子に聞いてみるのが一番だよ。なんたって運動が趣味で、一年中走ってるんだら」
「聞いてなかったの? 楽なダイエットって言ったのよ。地獄のレッスンじゃない……。でも、そうね……結局ハム子の運動が一番効くのよね。後で聞いてみるわ」
マリ子はチョコクッキーを頬張ると、それを甘い紅茶で流し込んだ。
「後じゃなくて、今すぐ聞いたほうがいいと思うよ……」
その夜、明夫の部屋を大きな揺れが襲った。
「たかし! 地震だ! フィギュアを避難させないと」
「明夫……揺れてない。周りを見ろよ……なにか倒れてるか?」
寝ていたところを起こされたたかしは、のっそり体を起こすと何も変わらない自室を見回してから、スマホで地震情報を確認した。
結果、地震の情報はなかった。
「じゃあ、なにこの音は?」
「なにって……確かに音がするな……」
たかしは天井を見た。ドスドスと言う音が天井を揺らしている。
「君の部屋はまだいいよ。僕の部屋なんかもっと酷いんだ。これじゃあ眠れないよ」
「明夫の部屋の上って――」
「……魔女だ!」
明夫は原因がはっきりしたと、文句を言うために階段を駆け上がっていった。
ノックもせずにドアが開けられたので、マリ子は「なんなのよ!?」と悲鳴を上げた。
「こっちのセリフだ。うちは悪魔崇拝はお断りだ。変な儀式は止めてもらおうか」
ヨガウエアを着たマリ子は、四つん這いの格好のままため息をついた。
「ダイエットよ……。友達に教えてもらったの。ニークライマーって言うんだって。こうやって両手をついて、膝を胸にまで引きつけるように飛ぶの。で、膝を伸ばしてもとに戻す。どう? ……言っとくけど、私の体の話じゃなくて、一緒にやるかって聞いてるのよ」
たかしの視線に気付いたマリ子は、子供を叱るように睨んだ。
「あぁ、ごめんごめん。つい……美味しそうに揺れるもんだから、あぁ……ごめん。何言ってるんだろう。オレ……。ほら、寝起きだから」
明夫は「本当に何を言ってるんだ」とたかしを睨んだ。「僕らは文句を言いに来たんだぞ。この騒音に!」
「上の階でセックスしてると思えばいいじゃないの。それなら絶対聞き耳を立てるでしょ? オタクならそれくらいの妄想力はある」
「たかし! なにか言ってやってくれよ!」
「オレは我慢できる。なにより眠い。おやすみ」
たかしはあくびをすると、明日も朝から講義があるのだと部屋を出ていった。
「おやすみー。それでオタクはどうするの? 私のお尻を眺めててもいいけど、今更現実の女を見ても辛いだけよ。それに何を言われても止めないわよ。アンタの睡眠不足より、私の下っ腹のほうが大事なんだから。もし文句があるなら、痩せなかった分の脂肪をグラム千円で買わせるわよ」
マリ子の傲慢な態度に、明夫は文句を続けたのだが、ヨガマットも引かずにドスンドスンと運動を始めたせいで、明夫の声が届くことはなかった。
そんなことが数日も続いたので、明夫もとうとう行動に出ることにした。
「もう限界だ! 僕は反撃に出るぞ!」
「落ち着けよ。リビングのソファーで寝ればいいだろう? 女の子っていうのは、それだけダイエットに本気なるもんだ」
「裏切り者め」
「酷いこと言うな。いつ裏切ったっていうんだよ」
「君がアニメにうつつを抜かさなくなってからだ」
「それじゃあ、オレは七歳から明夫を裏切り続けてるってわけか……。それで? 裏切り者には何をしてるか教えてくれないわけ?」
たかしは明夫の部屋の天井を見て言った。
天井には無線のスピーカーが一つぶら下がっていたのだ。
「説明するから、押さえててよ。僕はダクトテープを貼るから」
「良い予感はしない……」
「騒音には騒音で対抗するってことさ」
「一日中アニメの曲でもかけ続けるつもりか?」
「なんで彼女にご褒美を与えなくちゃいけないんだよ。ぼくがかけるのはこれさ」
明夫は天井にスピーカーをしっかり固定したのを確認すると、スマホから無線で音声を流した。
すると男同士が絡み合い、絶頂を伝え合う音声が大音量で流れ始めた。
「……意味がわからない」
「僕の数少ない女友達から教えてもらった。極上のBLボイスドラマだ。タイトルは……潔癖症でツルツルの美人さん♂を僕の汚いチ――」
「あー!! 聞きたくないってば!! だから意味がわからないよ。これをどうする気だよ」
「意味はわかるだろう。彼女が寝始めたら。僕は再生スイッチを押す。すると、自分はほっとかれて、目の前で男二人がイチャイチャする夢を見るってわけ。彼女の夢は僕の思うがまま。僕は操作系の能力者ってわけさ」
明夫は恥ずかしげもなくアニメキャラクターの決めポーズをやってみせた。バックにBLの絡み合う音声が流れたままのせいで、いつも以上にマヌケに見えた。
「大事なこと忘れてないか? 明夫もこの声を聞いて眠ることになるんだぞ」
「僕は気にならない。アニメの一部だと思えば、男性声優の仕事ぶりには脱毛だ」
「脱毛じゃなくて脱帽だ……。いいかげん音声消せよ……タイトルに引っ張られてるじゃないか。この家には男二人が住んでるって近所が知ってるんだぞ。誤解されるだろう」
「わかったよ」明夫は停止ボタンを押した。「でも、夜は絶対に音声を流すからね。これは復讐なんだ」
「大音量で流さなくても、彼女の部屋にスピーカを仕掛けたらどうだ? 無線なんだろう?」
たかしはこんな音で流されたら、自分の部屋まで聞こえてきて眠れないと代替案を出した。
「たかし……すごいよ。よくそんな卑劣なことを思いつくな。僕でも、人の部屋に勝手に入るだなんて思いつきもしなかったよ」
「真面目に聞こうとしたオレがバカだった。理解不能だよ。理解する気もないけどね」
たかしはこれ以上かまっていたら、こっちの頭までおかしくなると部屋を出ていった。
明夫も行動を開始し、マリ子が帰ってこないうちにスピーカーを仕掛けに行った。
そして夜になり、ここ最近の天井が軋む音が止むと、マリ子が階段を降りてくる音が明夫の部屋に静かに響いた。
運動してシャワーで汗を流すことにより、マリ子は朝までぐっすり眠る。反撃のチャンスは簡単に舞い降りてくるのだ。
再び階段を上がる音を聞くと、もうそろそろだと明夫の胸は高鳴った。
まるでスパイアニメの主人公のようだと自分に興奮していた。
そして、そこから一時間が経ち、明夫は軽く天井をノックした。マリ子が起きていれば、文句を言いに来るからだ。
しかし、反応はない。
これは完全に寝たと明夫の興奮は最高潮になった。
「こちらコンドル。任務を遂行します。結果は翌朝。すぐに報告します」と再生ボタンを押すと、遠足の前の日の子供のように体中に楽しみを抱いて眠ったのだった。
翌朝、明夫はベッドから飛び起きると、大慌てでリビングへと向かった。
そこでは、朝から講義のあるたかしとマリ子が二人で話していた。
「本当不思議よね」
マリ子が首を傾げるのを見て、明夫は犬のように走りより、ハアハア言いながら近付いた。
「なになに? なにが不思議だって?」
「昨日見た夢の話よ」
「夢!? 夢って言った? 今、夢って言ったよね?」
「そうよ。……なんなの?」
マリ子は無駄にテンションが高い明夫を不審に思った。
「なんでもないけど。神様に感謝してるところ。それで、なんの夢を見たの? もしかして、男に関する夢とか?」
「よくわかったわね。そのとおりよ」
明夫はしてやったと「イエス!」と叫んでガッツポーズをした。
その様子を見たたかしは「もっとちゃんと聞いてあげたら?」とニヤニヤしながら言った。
「そうだね。地獄にはどんだけ深く落ちたっていいもんね。それで? どんな夢を見たの?」
最悪な夢を見せてやったぞとウキウキの明夫だったが、マリ子の言葉に驚愕した。
「最っっっっっっ高の夢だったわ」
予想外の言葉に、明夫は「へ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「最高だって言ってるの。イケメン二人が私を取り合うの。運動してストレス発散すると、良い夢が見られるのね。続ける楽しみが出来たわ」
たかしは「そうだね」と頷いた。「今日の夕食はオレが当番だ。ダイエットメニューにしておくよ」
「ありがとう。楽しみにしてるわ。それじゃあ、私は先に出るわね」
マリ子が上機嫌で家を出ていくと、明夫は絶望に膝をついた。
「くそ! イケメンボイスがこう作用するとは!」
「悪巧みは成功しないんだよ。君の見てる朝の女児向けアニメと一緒。悪は裁かれる。だいたい、どんな夢を見せるつもりだったのさ」
「彼女に言い寄る男が二人。自分を無視して絡み合い始めるって夢。でも、彼女頭が悪いから、内容が全然頭に入ってない。全部自分に向けられたものだと思ってる。だから都合の良い夢を見るんだ」
たかしはひらめくと「待った……」と手を伸ばして明夫を黙らせた。「それって効果あったってことだろう?」
「なかったんだよ。見なかったの? 彼女は上機嫌だった。効果があったら、今頃いつもより化粧を濃くしてる頃だ」
「そうかそうか……」
たかしはこれは使えると締りのない笑みを浮かべると、大学の帰りに買い物をして帰ることを決めた。
その夜。たかしは買ってきた高音質イヤホンをスマホに挿入し、高鳴る胸をなんとか寝かしつけようと深呼吸していた。
「エッチな動画を寝ている間に流せば、オレは現代のドン・ファンだ。イヤホンだったら周りにも気付かれない。オレって天才」
たかしはサキュバスがいるなら、自分の願いを叶えてくれとお願いしてから再生のスイッチを押すと、聞こえてくる音声に悶々しながら眠りについたのだった。
そして、翌朝。げっそりとした顔のたかしが、なにをするでもなくソファーに座って佇んでいるのを明夫が見つけた。
「たかし、どうしたの?」
「男に抱かれてる夢を見たんだ……」
「なんでまた。寝る前に変な動画でも見たの?」
「聞くな……。これやる」
たかしは一度しか使ってないイヤホンを明夫に押し付けた。
「これ高いやつでしょ。いいの?」
「いいんだ」
「まさか……君を抱いてたのって僕じゃないだろうね」
「違う。もっと良い体をしてたよ! 彼はな!」
叫ぶようにして部屋に戻るたかしを見て、明夫は意味がわからずに首を傾げるしかなかった。