第九話
早朝。時計の針はいつも通りだ。規則正しく、変わることのないスピードで秒針が動き、五時を回ったところ。
「さぁ朝の時間だ! 爽やかに生きようぜ!」という明夫の声が高らかに響き渡った。
「もう……なによ」
奇声に起こされて不機嫌なマリ子は、床を揺らしながら一階へ下りて来たのだが、予想だにしない明夫の服装を見て絶句した。
「爽やかに生きようぜ!」
明夫は歯を見せて爽やかに笑うと、親指をグッと突き立ててポーズを取った。
「今すぐ死んで。それもむごったらしく」
マリ子が寝不足の赤い目玉で睨みつけていると、半目のたかしがリビングに出てきた。
「どっちが悪いかは知らないけど。早く仲直りしてよ……。朝から喧嘩なんて……バカでも無益なことだってわかると思うけど」
「喧嘩なんかしてないわよ。これとどう喧嘩しろって言うのよ」
「これ?」
たかしは改めて明夫の姿を見た。太ももが半分ほど出たランニングパンツと、蛍光グリーンのシャツ。
推し声優のネームタオルを首からかけている。
「どう?」
明夫は細い腕曲げてみせるが、筋肉と呼べるようなものが盛り上がることはなかった。
「どう? って聞いた?」
「聞いたよ。どう?」
得意気な明夫に「あら、面白い」と声をかけたのは京だ。騒動に気付いて部屋から出てきたのだ。
「面白いじゃなくて、爽やかに生きようぜ!」
明夫は都に向かって親指を立てた。
「本当に面白いわ」
「面白がってるの今のうちよ。すぐにもっとおかしくなる」
過去に一度経験しているので、明夫の変化にマリ子は少しだけ慣れていた。これが一過性であることもわかっている。
「今すぐおかしくなってもらいたいわ……。それでなんなの? あれ」
「あれは――バカよ」
マリ子が真面目な顔をして言うので、京都はたかしに聞き直した。
「今ハマってるものに影響されてるんだよ。マンガかアニメかはわからないけど。僕らは強制的に突き合わされることは決まった」
たかしは諦めたほうがいいと付け足すと、走りやすい格好をするために部屋へと戻った。
「大丈夫よ。地獄は最初だけだから。私がどれだけ走ってきたと思ってるのよ」
マリ子はダイエットで散々走ったから任せてと京の肩を叩いた。
「私は走ると決めてないのだけど……。まぁ……いいわ」
全員が走りやすい格好に着替えてから十五分。
近くの公園で、マリ子はベンチに横たわっていた。
「死ぬ……もう無理……。ずっと地獄よ」
「走り慣れてるんじゃなかったの?」
京は涼しい顔で額の汗を吹いた。
「三日も空けば、もう初心者同然よ。三連休の後に学校へ行きたくないのと一緒」
「まぁ、でも良い目覚ましだよ。軽い散歩で、良い一日が遅れそうだ」
たかしは新鮮な朝の空気を目一杯吸い込むと、思いっきり吐き出した。
朝露に濡れた草の湿った臭いと、遠くの排気ガスが混ざった独特の匂いは都会とも田舎とも言えないものだった。
「良い目覚まし? 軽い散歩? 良い一日が遅れそう?」マリ子は立ち上がると、一言ごとにたかしの胸を突いた。「こんなバカげたことを提案した張本人はどこ行ったのよ」
公園のベンチに居るのは三人。肝心の明夫の姿はなかった。
「生まれたての子鹿より走れない男だよ。ここまで来るのに後五分はかかる。オレ達もここで折り返し。大して疲れてもないし、血行はよくなったし、良いことづくめだろう?」
「さっきまで死んでた私を見てないのね……」
「それは明夫と張り合ったからだろう。いきなり全力ダッシュで百メートルも走れば誰でもそうなる。運動部ならともかくね」
マリ子がベンチで寝転がっていた理由も、明夫が三人から大幅に遅れている理由も、スタートダッシュで張り合って全力を使い切ったせいだった。
二人に張り合うことなく自分のペースで走ったので、たかしも京も軽い汗をかく程度で済んだのだ。
まだ影すら見えない明夫を待っている間に、京は「いつもこうなの?」と聞いた。
「たまによ。いえ……いつも変だけど。たまに超変になる。前の時は大変だったのよ――」
「――で、料理ばっかり作るから、私の体重は増加。でさ――ちょっと待った……」
マリ子は話すのをやめて目の前に広がる光景を見た。
既にジョギングを終えて家に戻り、順番にシャワーを浴びて、京が作った朝ごはんを食べているところだ。
朝ごはんと言っても、皆大学の支度があるので簡単なものだ。サラダとオートミール。それに蒸した鶏むね肉だ。
しかし、マリ子の目の前にだけ目玉焼きやウインナー。それにチョコレートソースなど、一人だけ豪華な朝ごはんになっていたのだ。
「どうしたの? マリ子が言うからわざわざ焼いたのよ」
エプロンをしたまま朝食を取っている京は、追加でなにかこしらえようかと立ち上がったのだが、マリ子は慌てて止めた。
「そうじゃないの! どう考えても、朝の消費カロリーよりも摂取カロリーのほうが多くなってない?」
マリ子の困惑に、全員がその通りだと冷静に頷いた。
「なんで誰も途中で止めてくれないのよ! あんなに必死になってダイエットしてたの近くで見てたでしょう!!」
「普通はあんだけ必死になったら、一年くらいは痩せたままでいようと思うものじゃないの?」
正論を言う明夫を止めようとしたたかしだったが、既に遅かった。
「なによ。じゃあアンタは意思が強いっての?」
「僕を誰だと思ってるの? オタクだよ。食費を削って一日を水で過ごし、何度もおしっこに行く。そうして初回限定盤を買うくらい意思が強い」
「それは弱いとも言えるのだけど」という京のつぶやきは明夫は無視した。
「じゃあいいわ。アンタが今推してる声優と、私のおっぱいで勝負しましょう。どっちがものすごいか」
「……なんて言った?」
「私のおっぱいと声優のおっぱいで勝負だって言ってんの。アニメキャラでもいいわよ」
「君はなめてるよ。最近の声優はスタイルもいいんだ」
「あらそう。声優に声以外のものを求めるアンタは、なめてないっての? ……スマホの画面は舐めてそうだけど」
「――衝撃だったよ……。まさかマリ子に核心を突かれるとは……」
翌日の大学の昼。明夫はオタク友達二人に今朝のことを話していた。
「ダイエットの話? それともオタクの話?」
赤沼はわざわざ近所のバーガー屋で買ってきた安物バーガーの包み紙を剥がしながら聞いた。
「オタクの話だよ。僕らもう一度声優について考える必要があると思わないかい?」
「毎日考えてるよ」赤沼はバーガーからピクルスを抜き取ると、青木の皿の端に置いた。
「そうじゃなくて、僕らはもっとちゃんと応援すべきじゃないってこと。僕らは声優の仕事が好きなわけであって、プライベートをブーンブーンと付け狙って、養分だけ盗み吸い取る蚊のような存在ではないはずだ」
「ならツイッターのチェックはやめれば?」
青木はスマホから目を離さずに言った。
「これは向こうが発信してるからいいの。ハワイに行ったらレイをかけて迎え入れてくれるだろう? それと一緒。それ以上でもそれ以下でもないけどテンションは上がる。……というか、さっきからなにやってるわけ?」
青木は途切れ途切れに会話に混ざるが、スマホから目を離すことは一度もなかった。食事もおろそかにずっとなにかしているのだ。
「僕のことは気にしないで、君達とは違う友情を育んでるんだ」
相手が芳樹だとわかっている明夫は「彼は僕の親友ポジションだぞ」と、子供のような取り合いを始めた。
「でも、よく平気だったね。朝のジョギングなんてしたら、一日中死んでるよ。僕はね」
赤沼が褒めると、明夫は苦笑いを受かべた。
「回復アイテムを全身に貼り付けてるからね」
明夫がシャツをまくると、中からもう一枚シャツが見えた。それをよく見ると、隙間なく貼られた湿布薬だった。
「てっきり香水デビューかと思ったよ」
「湿布のにおいだぞ」
「だからデビュー失敗だと思って黙ってたの。それにしても――カッコいい……」
赤沼は明夫の湿布を貼り付けた姿を見て、熱い吐息を漏らした。
だが、別に赤沼が湿布にカッコよさを見出すタイプではない。
湿布がまるでさらしを巻いているように見えて、それがマンガのキャラクターのようで興奮しているのだった。
「見せかけじゃないぞ。本当に負傷してのコレだ」
明夫は世界に隠している重大な秘密をこっそり教えるような口ぶりで、首元から湿布を見せた。
「今なら穴開きグローブも似合いそうだよ……。そうだ! 今から買いに行こうよ!」
「今から?」
「そう。次の動画のテーマは。オタクのファッション。今の明夫なら絶対にいけるって」
「よし、買いに行こう!!」
「じゃあ、僕も行くよ」と青木は二人とは別の方角へ向かって歩き出した。
「おかしい……」
芳樹は眉間に深いシワを作ったが、隣にいる青木はのんきな表情だった。
「おかしくないよ。マメな返信が一番いいって言ってたよ」
「誰がだよ……」
「そんなの【ぱすてるパンダ】に決まってるだろう」
「誰だよ……」
「美少女ゲームのシナリオライター以外に、ぱすてるパンダが存在してるの!?」
「動物園にでも行けよ……」
「君は学がないから知らないかもしれないけど、シナリオライターって言うのはね。職業名であり動物名じゃないんだ」
「わかってるっつーの!」
芳樹が声を荒らげると、青木は口の端を吊り上げてニヤッと笑った。
「よかったよ。そのツッコミ方は、まさしく良い親友ポジションだ」
「主人公になりてぇなら、それなりの方法があるだろう。たかしが水着を買いに行ったのは知ってるか?」
「知ってるよ。明夫も赤沼も一緒に行ってるんだから」
「オレ達は蚊帳の外だって話だ」
「ちゃんと誘われてるよ。アニメフェスに行こうって」
「皆が盛り上がってる中。オレ達がしてることはなんだってことだよ……」
芳樹はため息を落とすと、スマホを床に置いた。
「君が誘ったデートマッチングアプリだ。相手を見つけるんだろう。頑張らなくちゃ」
青木が胸元でガッツポーズをすると、さっそくスマホにメッセージの通知が入った。
相手は二十代のOLであり、社会人の疲れの取るための遊び相手がほしいとのことだ。
青木は嬉々としておすすめのアニメタイトルを書くと、見直して躊躇うことなくメッセージを返信した。
「休日になにをしてますか? ってのは、私をどう楽しませてくれますかって意味だ……。バカ正直に書くなよ」
「じゃあ君はなんて返信してるんだよ」
「そんなの決まってるだろう。オレ達は起業家だぞ」
「設定上はね」
「やることは会議に決まってるだろう。いや……ミーティングって言ったほうがカッコいいな」
「どこで? 何時に? なんのためのミーティング?」
「オマエは警察か? なにを問いただしてるんだよ」
「そう思うなら、そうやって返信したら?」
青木は自分が言ったことと似たような返信がきているのを覗き見すると、どうするのかと肩をすくめた。
「秘書に確認する。どうだ? ばっちりだろう」
芳樹は得意気に方眉を上げると、女性からの返事を待った。
しかし、返信はない。
やりとりが胡散臭すぎて、無視されてしまったのだ。
「アニメフェスに行く恋人は見つかりそう?」
「わざと言ってるだろう……」
「だって、今のプロフィールでアニメフェスに行きそうな男に見える? どう考えても冷やかしだよ」
「わーったよ……正直にプロフィールを書き直せばいいんだろう。皆やってるってのによ」
芳樹はブツブツ文句を言うが、プロフィールを普通の大学生に変えた途端に、ラフなメッセージが次々届き出した。
「君は最高の友人を持ったね」
青木が笑顔を浮かべると、芳樹は力なくうなだれた。それは呆れなのか、肯定のうなずきなのかは、芳樹だけが知っていることだった。
そして、その日の夜。
「見て、この制服」マリ子はシックなエプロンドレス姿を披露した。「バイト決めてきた。【メイドのザンギ】って店。明日から私が料理当番の日は唐揚げよ」
「見て、この手袋」明夫は穴開きグローブに指を通し、変身モノヒーローのようなポーズを取った。
二人が朝のプチ騒動などなかったかのように、別の話題を持ってくるので「本当……二人は面白いわ」と京はご満悦だった。「それであなたは?」
期待に満ちた目で見られたたかしだが、普通に過ごして来たたかしに特別報告するようなことはなかった。
「お昼の味噌汁の味が薄かった」
「たかし君は本当に普通なのね」
京は少しだけため息を混ぜると、マリ子と明夫の話に付き合って夜を過ごした。




