第三話
「お願い! 一口だけ!!」
マリ子は懇願して胸元で手を握ると、大きく口を開けた。
「ダメよ」
「一口だけなら大丈夫だって。私の体は、アイス一口に負けるような体じゃないから」
「KOされる直前にタオルを投げ込まれたんでしょう。マル子よ、私に頼んできてたのわ」
京がルームシェアをするにあたって、マリ子はダイエットを始めていた。
と言うのも、食べ過ぎを止めてくれる相手がいるなら、楽にダイエットが出来ると考えたからだった。
しかし、実際は誘惑の連続だった。
食べても太りにくい体質の京は、特に時間を気にせずに食べたい時に食べる。元々少食であり、分けて食べるのだが、マリ子はそれにいちいち付き合うので、体重は加速を続けて上がってしまっていた。
「普通友達なら、一緒に食べるか一緒に我慢するかすると思わない?」
「さっき明夫君に付き合って、パーティー用のポテトチップスを食べたばかりでしょう。今度は私のアイスに付き合って……最後はたかし君のカステラも食べるつもり?」
「うそ! たかしカステラ買ってきたの。アイス乗っけると美味しいのよねぇ」
「皮肉よ。夏に向けてダイエットするんじゃなかったの? 水着が着れないって騒いでたでしょう」
「そうだけど男がいない分……気合い入んないのよね。海とかプールに来る男って想像するまでもなく、同じタイプの男ってわかってるし」
「なら、二人に見せるためにダイエットしてみたら?」
「元恋人に媚び売れっての? 別れた直後の寂しさを紛らわせる夜じゃないんだから。そんなことしてどうすんのよ。オタクはもっと論外。アニメ基準で批判してくるから、内臓を全部抜き取って剥製にしないと、あいつの理想体重にはならないわよ」
「私はいいけど。マル子が子豚ちゃんになっても可愛いと思うし」
「ちょっと待った……マル子ってまさかそこから取ってるわけじゃないでしょうね」
「マリ子が自分でマル子って私に自己紹介してきたのよ。酔っ払って呂律が回らなくなった上に、男と間違って隣に座ってきたの。忘れたの?」
「覚えてるわよ。めっちゃ良い男だと思ってたから、超ショックだったんだから。懐かしい失恋の思い出ね」
「勝手に振られないでよ……。さっ、ダイエットメニューに取り組みましょう。ハム子かもらったメニューがあるでしょう」
話を逸らしている間に、京はアイスを食べ終えていた。
これでマリ子が集中できると思ったが甘かった。
「それじゃあジョギングからね」とランニングウェアに身を包んだマリ子が真っ直ぐ向かった先はコンビニだった。
そして、買ったアイスが溶けると早々に家へと戻ったのだった。
「重症ね……」
アイスを満面の笑みで食べるマリ子は、食べ終えるまで京の視線に気付かなかった。
「またやっちゃったわ……」
本気で落ち込むマリ子に、京は「わかったわ……」と優しく声をかけた。
「スレンダーな京には私の気持ちはわからないわよ……」
「そう、わからない。だからわかるものを我慢するのよ」京はガムテープを取り出し、油性ペンで封印と書くとコーヒーの粉の箱に貼った。「マリ子がお菓子を我慢してる間。私はコーヒーを我慢する。これでどう」
一緒に欲を我慢してくる京に感動したマリ子だったが、すぐにそれだけでは足りないと思った。
「京……。女二人だけ我慢するのって不公平だと思わない」
「そうかしら」
「だって私が痩せるってことは、男二人も良い思いするってことでしょう。美人がもっと美人になるんだから。お金をもらってもいいくらい」
「ずいぶん思い切ったことを言うのね。……でも、面白そうだわ」
京はリビングを見回して言った。
マリ子の私物も目立つが、それ以上に明夫のオタクグッズが占めている。
これを我慢するとなった時の明夫の反応が知りたい京は、二つ返事で乗っかった。
その夜、帰ってきた明夫は悲鳴をあげた。
「その悲鳴。ママがゴキブリを見た時と同じ声」
マリ子はにやにやと明夫を見るが、明夫は構っていられないと真っ先にキッチンに立つたかしに元へと向かった。
「たかしたかしたかしたかしたかしたかし!」
明夫が肩を掴んで揺さぶると、たかしは驚いて振り返った。
「なになになになになになに?」
「僕の家がおかしい!」
「オレはむしろ正常だと思うけど。なにがおかしいのさ」
「わからない……」明夫は小声になった。「でも、絶対に世界は変わってる。肌に感じるんだ……」
「今度はなんのアニメにハマってるんだ?」
「僕は真面目に言ってるんだよ。たかしはなにも感じないのか?」
「そうだな……カレーの匂いがしすぎてわからない」
たかしは鍋をおたまでかき混ぜながら言った。
「なんだ……カレーの匂いがすると思って帰ってきたら自分の家だったとは。――じゃなくて、何かがおかしいんだよ。まるで鏡の世界だ。そんな話SFアニメであったよね?」
「さぁね。とりあえず座れよ、違和感が何かわかったら付き合うからさ」
たかしはカレーを人数分皿へよそうと、冷蔵からサラダを出した。
「わかったぞ!」明夫は大声をで言うと、カレー皿を持ち上げた。「ご飯がない!」
「よく気付いたな。マリ子さんはダイエット。しばらくご飯は抜くか、減らすんだって。代わりにキャベツの千切りを敷いておいたよ。食べ応えがないなら、豆腐の水を切ってあるけどどうする?」
「カレーにはご飯だろう。なんでデブに付き合わなくちゃいけないんだよ。僕は食べないと、栄養不良を疑われるような体なんだぞ」
「京……アイツやっぱりムカつくわ」
今にも殴りかかりそうなマリ子の拳を、京は上から握っておさえた。
「もうちょとの我慢よ」
「オートミールもあるぞ」
たかしはレンジで温めたオートミールを渡すが、明夫の反応は良くなかった。
「なにこのグチャグチャのものは……」
「ミネラルたっぷりのオートミールだって。そう言っただろう」
「なんで僕がオートミールを食べる必要があるんだよ」
「それは説明できない。流された方が楽なこともあるってこと」
「流され系主人公にでもなったつもりかい? まったく……それなら僕が唯一認めてるハーレム主人公の――」
明夫は振り向いてフィギュアを見たつもりだったが、あるべき場所にあるべきものがなかった。
何度も目を擦り、食い入るようにディスプレイ台を見ても、明夫がお気に入りのフィギュアが存在してなかったのだ。
「警察呼んで! 失踪事件だ!!」
「せめて紛失事件って言えよ。大丈夫だよ。ちゃんとした場所にしまってあるから」
「ちゃんとした場所って?」
「ちゃんと管理方法がわかってる人のところ」
「赤沼か!? 青木か!? どっちにしても今すぐ取りに行くぞ!!」
「そんなすぐわかる人物に託すと思うか?」
「たかしの考えなんて、そんなもんだろう」
「たしかに……。でも、今回はオレが考えたわけじゃない。京さんの考え」
「絶望だ……こんななにを考えているのかわからない女に、僕の大切なフィギュアを預けたって言うのか? なんのために? 僕を苦しめて楽しいか?」
明夫はたかしの胸ぐらを掴んで揺らすが、踏ん張りが効かないので自分が揺れていた。
「別にそんな難しい話でもないでしょう。私がおやつを我慢する間。みんなもそれと同じくらい好きなものを我慢しようって話よ。ルームシェアの絆を深めましょうってこと」
「君のわがままに付き合えってことだろう。絶対に断る。僕は君と違って痩せてるんだ。体重計に乗るのも怖くない」
「私だって怖いわけじゃないわよ」
「じゃあ、僕の後に乗る勇気がある?」
「……ない。でも、今は関係ない。女のダイエットはそれだけ大変ってことなのよ」
「じゃあ、女だけでやってよ」
「提案させてもらった一人として、メリットを説明させてもらうわ」
京が手を上げて言うと、明夫は胡散臭い奴だと目をこれでもかと細めて睨んだ。
「フィギュアが消えた時点で、僕はマイナスからのスタートなんだぞ。メリットなんてあるわけないだろう」
京は明夫の言葉に「――まず第一のメリット」と被せた。「マリ子のサポートに回れば我慢の時間は短い。さらに、決まったメニューがあるから食事の支度も楽。最後に、マリ子のダイエットが成功すれば『ドキドキ海フェス』に連れっていてあげるそうよ」
「そもそも我慢なんかする必要ないから、毎日の食事メニューだって――待った……今なんて言った?」
「ドキドキ海フェスに連れて行ってあげるって言ったのよ」
マリ子はにっこり微笑んで言った。
「なに? ドキドキ海フェスって。音楽フェス?」
たかしがなにかわからないと首を傾げた。
「ドキドキ海フェスだよ! アニメフェス! 水着限定のオタクフェス。なんで知らないのさ」
「オレが知らないってことは、明夫がなにも言わなかったからだろうね」
「そうだ……その通りなんだ。会場はビーチ。水着限定ってことは、コスプレイヤーや同人グッズだけじゃないい。ドレスコードも水着なんだ」
「そりゃまた……本当にオタクの祭典なの? どう考えたって、マリ子さんの方が行きそな雰囲気だけど」
「良いところをついてるよ。このイベントは三年目なんだけど、肝心のオタクが集まらなくて今年で終わりそうなんだ。マリ子みたいな合法露出狂女がいれば、僕でも気にせず参加できるってわけ。こんなチャンスってある?」
すっかり乗り気になった明夫は、もう既にマリ子の応援を始めた。
「すごいね。京さんの手のひらの上だ」
「言ったでしょう。弟の扱いは得意なの。それより、たかし君はなにを我慢するの?」
「それって……オレも含まれてるの?」
「当然。ルームメイト。遠慮なく言わせてもらうわよ」
「そうだな……家に帰ってくるのをやめるとか」
たかしは二人を京に押し付けられたらどんなに楽だろうと考えていた。
「そうね。それじゃあ、毎日定時に帰ってくるってのはどう?」
「あっ、それいい。賛成」
マリ子はご飯の代わりにキャベツを入れたカレーを食べながらご機嫌に言った。
「ちょっと恋人とのデートもあるんだぞ」
「私たちはないもの」マリ子は意地悪な笑みを浮かべると「どうせ朝早くから健全なデートしてるんだからいいじゃない」
「恋人だって言っただろう。遅くなる時もある」
「その時は赤飯炊いてあげるわよ」マリ子は下品な笑いを響かせたが、笑っているのが一人だけだと気付くと真顔になった。「女が言うんだから良いでしょう。男が言ったらセクハラだけど。わかった――話がズレた。とにかく、これは決定事項よ。たかしも彼女を連れて来れば良いじゃない。チケット代出してあげるわよ。……痩せたらね」
「うそ? そういうのもあり?」
たかしはこれはチャンスだと思った。全員で集まる機会があれば、ルームシェアの説明もしやすいと思ったからだ。
少なくともフォローを入れてくれる人はたくさんいる
「さぁ、どうする?」
マリ子は協力するかどうかと手を差し出した。
「わかったよ……。でも、あくまで優先順位を上げるだけね。恋人の方が大事なんだから」
「あーら……付き合ってた時そんなこと言われたかしら」
「言ったよ。たくさん言った! 音声が流出したら自殺もののこともいっぱい言った」
「そう? なかなか感動的だったのもあるわよ」
「ぜひ聞きたいわ。私もコーヒーを我慢してるんだから、聞く権利はあるはずよ」
「絶対だめ。とにかく、明日からみんなでマリ子さんのフォローに回る。それでいいね?」
たかしのまとめに、全員が賛成だと拳を上げたのだった。