第五話
「なにこれ……」
明夫は皿に盛られた料理を見て驚愕した。
「なにって夕食でしょう。私が当番だから作ったの。お礼は言われても、文句を言われる筋合いはないわよ」
「そうだぞ、明夫。君はいつも同じものしか食べないからわからないだろうけど、これはスペイン料理だぞ」
たかしは失礼な態度をとる明夫の代わりにマリ子に謝ったのだが、表情は依然険しいままだった。
「それ麻婆豆腐なんだけど……」
とても麻婆豆腐には見えない料理を見て、たかしは明夫と同じく驚愕してしまった。
「なにこれ……」
「私はレシピ通り作ったのよ。一つ違うのは電子レンジが違うだけ。だから、文句あるなら電子レンジに言って」
「本当はあまり言いたくないんだけど」と、たかしは遠慮気味に切り出した。「命に関わることだし……言っちゃう。なんでエビとか貝が丸ごと入ってるわけ? 今ならパエリアってことに出来るけど。米の代わりに豆腐を使ったヘルシーなパエリアだって。それなら、オレの言ったスペイン料理って言葉も嘘にはならない」
「アレンジよ。料理する人は皆アレンジするでしょう? 隠し味に魚介の風味を出そうとしたの」
「全然隠れてない……」明夫はこんなもの食べられないと皿をつっぱねた。「僕ならこの料理にはこんな名前をつけるね。エビと貝のマイクロ波の拷問風。マッドサイエンティスト仕立て」
「食べる前から文句を言わないでよ。気分悪いわね」
マリ子は問題ないと食べてみせるが、あまりの生臭さと辛さに、食べたものを盛大に吹き出してしまった。その味は今まで食べた中で一番不味いものだった。
「食べた後はどう? 気分は良くなった?」
たかしは「明夫!」と名前を呼んで嗜めると、水の入ったコップをマリ子に渡した。「大丈夫? 口をゆすいだ方がいいかも」
「そうするわ……悔しいけど。意地で食べられるようなものじゃないわ……」
「またしても君はアニメのキャラに負けたわけだ。アニメのキャラなら、料理の腕はプロ並み。下手だとしても、化学変化を起こして楽しませてくれる。でも、現実は笑えない。僕らの食べるものがないんだからね」
「カップラーメンでも食べてろよ」
流し台で吐くように唾を吐き出すマリ子の髪を押さえながら、たかしは今は構っていられないと明夫を突き放した。
「カップラーメンね。体に悪いものの代名詞みたいになってるけど、誰かさんが作る料理よりも何倍も体にいい」
「明夫!!」
「わかったよ。訂正する。何百倍もだ。言わせてもらうけど、これ以上に僕に怒るなら、たかしが残り全部食べてよね」
「……怒ってない。優しく注意してるんだ。……だから食べる必要もない」
「その方がいい。トイレは一つだ。占領されたら困る」
明夫は電気ケトルのスイッチを入れると、自分の部屋にカップラーメンを取りに行った。
「ごめんね。明夫に悪気はないんだ」
「あれで悪気がないんだったら、世界に戦争なんて存在しないわよ。でも、いいわ……。確かに麻婆豆腐は最悪だった……。エビと貝の殺された恨みの味って感じだもん」
「誰でも得意不得意はあるよ。ねぇ、こんな話を知ってる? ある野球選手の話。彼は子供の頃すごく野球が下手だったんだ。理由はいろんなことをいっぺんにやろうとしたから。そんな彼を見かねて父親がこう言ったんだ。まずは一つのことを出来るようになったらどうだって。まずはボールを取ることから。それが出来たら、次は投げる練習をしようってね。そうして彼は基礎を繰り返して練習することで、プロで活躍する選手になったってわけ」
「今からプロ野球選手を目指せって言うわけ? 女の私が?」
「違うよ、この話で言いたいことはね」
慌てて訂正しようとするたかしに、マリ子は可愛い人だと笑った。
「冗談よ。わかってるわ。何事も繰り返しが必要ってわけよね。任せなさい。今日から一週間私が夕食を担当するわ」
「その意気だよ!」
「明日こそ完璧な海鮮麻婆豆腐よ!」
頑張るわよとハイタッチを求めるマリ子に、たかしは乾いた笑いで力なくタッチを交わした。
「あの話は派手なプレーよりも、基礎が大事だって言いたかったんだけど……。もう聞いてないよね……」
すでにマリ子はスマホでアレンジレシピを検索しており、そのやる気に溢れた笑顔にたかしはなにも言えなくなってしまった。
「見て、エビの頭が生臭くなる原因だって。水分が出なくなるまで焼くといいらしいわよ。知ってた?」
「へぇー知らなかったよ。でも、水分がなくなるってのは、真っ黒にすることじゃないってのは知ってる」
たかしは鳴り響く火災警報器を止めながら言った。
フライパンは食材から黒い焦げとかした物体から白い煙を上げていた。
換気扇だけでは臭いがこもるので、部屋中の窓を開けて換気して戻ったたかしは、フライパンを持ったままうなだれるマリ子の姿がとても不憫に見えていた。
「大丈夫?」
「どうしてこうなるのかしら……」
「電子レンジからフライパンに変えたことが関係してるんじゃないの? お手軽の電子レンジ調理じゃなかった?」
「それじゃあ、あのオタクをあっと言わせられないでしょう」
「どうだろう。この光景を見たらあっとは言うと思うけど……」
たかしが素早く換気した理由は、フィギュアやアクリルスタンドなどに臭いがつくと、明夫が発狂することを知っていたからだ。実際は、あっ――なんて一言では済まないだろう。
どれだけこのグッズが大事なのかから始まり、作品やキャラクターの魅力に続き、手に入れるまでの経緯を挟み、最後には値段は付けられないものだとごねる。
過去に一度経験しているたかしは、二度とあんな長くて無駄な時間はごめんだと、焦げることがないようフライパンを使わない方法を勧めたのだが、変なやる気スイッチが入ったマリ子は再びフライパンを火にかけたのだった。
「大丈夫よ。同じ失敗は繰り返さないわ」
マリ子は鼻歌交じりに冷凍エビを解凍せずに、温まっていないフライパンに入れた。
「もしかして……今ままで誰かが料理してるところって見たことない?」
「それって私をお嬢様だと思ってるわけ? 残念だけど、普通の一般的な家庭よ。両親の仲は良好。従姉妹はちょっと変人だけど……あとは普通オブ普通よ。親戚にアルコール依存症もいないしね」
「じゃあ聞くけど、君のお母さんってもしかして凄い過保護。その調理法はエビに優しすぎるよ。普通は水責めで解凍したり、電子レンジの解凍モードを使ったりするんだけど。もう死んでるんだし、ゆっくり温めてあげる必要はないんじゃない?」
「……なに? 言いたいことがあるならはっきり言えば?」
遠回しにあれこれとアドバイスを送ってくるたかしに、マリ子はイラついていた。
「君は料理をしない方がいい……。オレが作るよ。明夫には黙ってるからさ。明夫に手料理を食べさせたいってわけじゃないんだろう?」
「それはそうだけど……。それって私が負かしたことにならなくない?」
「明夫が悔しがる姿を見られれば、それで満足しない?」
「する。なら、あとはよろしくー。みゃーこに通話かけよっと」
マリ子は時間が空いてラッキーとお菓子を片手に二階の自室へと向かった。
たかしはため息を一つ挟むと、マリ子の評価を下げさせるわけにはいかないと、美味しい海鮮麻婆豆腐を作ろうと気合を入れた。
その日の夕食時。マリ子が作ったものだと食卓に並べたのだが、明夫は一口食べるとこれ見よがしのため息をついた。
「これ、たかしが作っただろう」
一口で言い当てる明夫に、マリ子は信じられないと口を手で覆った。
「なんでわかるわけ? もしかしてアンタら二人出来てるの?」
「簡単な推理だよ。この胡椒の効かせかたはたかしがよくやるんだ。なんの料理でもね。いつも食べてるんだ。これくらい簡単にわかる」
「やっぱり出来てるんじゃない……」
「やっぱり君には無理だったみたいだね。君はヒロインにはなれない」
「アンタにとってのヒロインが、そこにいるたかしだからじゃないの?」
「君よりも何倍も女らしいもんね。とにかく、料理が作れないならテイクアウトか出前。そういうルールだ。僕はテイクアウトの分のお金を払っても構わないよ。腸内環境に核爆弾を落とされるよりはね」
「あーもう、ムカつく。そうさせてもらうわよ!」
険悪な雰囲気のまま夕食を食べ終わり、マリ子は自室へ戻って京と通話していた。
「ね? クソムカつくでしょ」
「そう? 投げ出さないで、続けてみたらいいのに」
「みゃーこ……なんで私がオタクの為に。美味しい料理を作る努力をしないといけなわけ? アイツにイケメンの兄貴がいるなら別だけど――もしかしているの!? なんでみゃーこがそれを知ってるの!?」
「そうじゃないよ。別に料理自慢になればって言ってるわけじゃない。一品でも作れるようになってみればってこと。料理っていうのは、誰かに美味しく食べてもらおうと作るでしょう。それが思いやりに繋がるんだってさ」
「なに? 私に思いやりが足りないとでも言いたいわけ?」
「元彼との同棲がダメになった原因を考えてみたらってことだよ。少なくとも、そのオタクくんは胡椒が効いてるってわかるくらい。ちゃんと食べてくれてるってことでしょ。マル子がちゃんと作ったら、頭ごなしに不味いとは言わないと思うけどな」
「それはみゃーこがアイツを知らないから。……でも、そうね。少し考えてみるわ」
「それがいいよ。作れるようになったら、私にも作ってね」
「りょーかい。それじゃあ、明日ね」
マリ子は通話を切ると、スマホを胸に置いて深呼吸を繰り返した。
明夫に作るという理由だけじゃ足りないが、京にも食べさせてあげたいと思うと再び頑張ろうと意欲が湧いてきた。
小さく拳を握り気合を入れると、料理の練習をしようとキッチンまで降りた。
するとそこにはエプロンをつけたたかしの姿があった。
「もしかして、キッチン使ってた?」
「使ってるよ。マリ子さんも使うんだろう?」とたかしはにっこり笑った。
「そうね。頬張るほど美味しいもの作れば、あのオタクも咀嚼で忙しくて、減らず口を叩けないだろうし」
「そう言うと思って、エビは解凍して待ってたよ。食材はどうする? オレが切る? それともマリ子さんが切ったことにする?」
たかしはまな板をリズム良く叩いて茶化した。
マリ子は「私が切るわ」と笑うと、たかしの隣に立って包丁を握った。「ありがとう……。あなたって優しいのね」
「そうだろう? 良く覚えておいて」
「友達が多い理由がわかるわ」
「友達ね……。まぁそれでいいさ。今変なこと言ったら、手を切りそうで怖いし……。豆腐はまな板で切った方がいいんじゃないの?」
「だ、大丈夫よ。達人の切り口は、切り落としてもすぐにくっつくってテレビでやってたから」
マリ子は高齢の老人のようにプルプル震える手に豆腐を乗せると、包丁を持つ手も震わせながらおっかなびっくりに包丁を入れた。
たかしは「見てらんないよ……」と思わず手で目を塞いだ。
「あー無理! リストカッターじゃない限り、手の上で豆腐なんて切れない!!」
「あーよかった……」
たかしはまな板の上で豆腐を切ることにしたマリ子にホッとするが、こと料理に関しては不器用なマリ子は絹豆腐を切るのに苦戦した。
それは木綿に変えても同じことで、どうしても切るときに大きさはまばらになってしまうし、麻婆と混ぜ合わせるときにも崩れてしまう。
結局克服することは出来ず、豆腐を使わないことになった。代わりによく味がしみるご飯を使うことにした。どうせ豆腐がバラバになるなら、最初からバラバラの米を使ったほうが早いからだ
一つ苦手なものを避けるだけで、マリ子は心の重荷が取れたらしく、味付けは完璧に出来るようになった。
そして、とうとう明夫に食べさせる日がやってきたのだ。
「さぁ! 覚悟はいい?」
マリ子はフライ返しを剣の切っ先のように明夫に向けた。
「よくないよ……。料理を食べるのに覚悟はいらない」
「また屁理屈を……」
「君が怖くなるようなことを言うからだろう。本当に大丈夫なの?」
明夫は心配になってたかしに聞くと、たかしは安全だとOKサインを送った。
「さぁ、観念なさい」
マリ子はフライパンの蓋を開けると、料理をさらに装い始めた。
「だから……。もういいや、とにかく食べられるものらしいしね」
明夫はスプーンを片手に、食べる準備を始めた。
「さぁ、ご賞味あれ!!」
マリ子は自信満々に皿を明夫の目の前へと置いた。
たかしは訝しい表情で料理を見ると、そのままの表情で口に運んだ。それは飲み込んでもその顔のままだった。
「うん……とっても美味しいピラフだったよ。ピリ辛で食欲も誘う」と褒める時も、その顔は変わることはなかった。
しかし、たかしとマリ子は美味しいと言わせたことに満足して「やった!」とハイタッチを交わした。
「どうだ! 参ったか!」
マリ子はイエーイと明夫に向かって、パンチするように右手を伸ばした。
「参ったっていうか……」と明夫は困った顔をした。
「なによ、美味しいなら美味しい顔しなさいよ」
「僕はてっきり海鮮麻婆豆腐を食べさせてくれるもんだと思ってたよ。百歩譲ってパエリアじゃないの? それがなんでエビピラフ? 料理ならなんでもいいなら、トーストにジャム塗っただけでも、僕は美味しいって言うよ。あの日の夕食のリベンジじゃなかったわけ?」
たかしとマリ子はお互いを見合って「あっ……」と漏らした。
「それで、僕は悔しがればいいの? 喜べばいいの? 正直すごい困ってるんだけど……」
「もう、なんでもいいわ……」とマリ子は肩を落とすと、京に送るように写真だけ撮った。「次から買って帰ってくるから、金寄越しな」
マリ子は自分が当番の時に食べたいものはここに送ってと、SNSの番号を二人に教えた。
「なんか変な感じ……この三人でグループ作るなんて」
明夫はグループに登録しながら、現実の女性とSNSでやり取りする奇妙さに困惑していた。
「でも、あったほうが便利だろう? 共同生活なんだし」
たかしはニコニコでエビピラフを食べながら、まだ一つの会話もないグループを眺めていた。
「あえて勝ち負けをつけるなら、たかしの一人勝ちだね……まったく……」
マリ子と二人きりで料理の特訓をし、マリ子のSNS番号をゲットし、マリ子の手料理を食べ、たかしは幸せを噛み締めていた。