第二十一話
「ありえない……ありえないありえないありえない! ありえない! ありえなーいー!」
マリ子の悲鳴は脱衣所から響き渡った。
「大丈夫? ゴキブリかクモでも出た?」
ジェット噴射式の殺虫剤を持って走るたかしの背中を、明夫は歩いて追いかけた。
「お風呂から出てくるのは美女って知らないの? ちゃんと僕の言った通り昔のアニメ見たわけ? アニメは子供がまともに育つのに実に重要な文化だよ」
「見てないからまともに育ってるんだ……。二十歳を超えて、お風呂に美少女なんて想像するか? 想像するか……悪かった」
「気にするなよ」
明夫がたかしの肩に手を置くと、脱衣所のドアが開けられた。
「いいからさっさと入ってきなさいよ。バカ二人」
ドアの前でまごつく二人に苛立ったマリ子は、バスタオル一枚のままで二人を招き入れた。
「着替え中だったら怒るだろう。見たくないものを見せられた僕だって怒りたいくらいだ……」
「アンタは本当にムカつくわね……。でも、今はそんなの後回しよ。それ見て。それよ、それ」
マリ子は本当に虫でも出たかのような仕草で床を指した。
「虫なんかいないよ。影がそう見えただけじゃない?」
たかしは一応殺虫剤のノズルを床に向けたのだが、悲鳴を上げる不快害虫の類の気配は感じなかった。
「なにを聞いてたのよ! 虫が出たから助けてくれなんて言った?」
見当外れの行動をするたかしに、マリ子はほとほと呆れた。同棲中であり、一時期は恋人関係だったにもかかわらず、虫は平気だということをたかしが覚えていなかったからだ。
「なにも聞いてないよ……。なにも言ってないんだもん」
「私が虫なんて恐れるわけないでしょう。あれよあれ」
マリ子は相変わらず指を床に向けている。
注意深く見ると、指はバスマットに向けられ、バスマットは不自然に持ち上がっていた。バスマットを持ち上げると下には、体重計が隠されていた。
「なにしてるのさ……。変な使い方してると壊れるよ……」
たかしはバスマットを敷き直すと、体重を元の場所へ戻した。
「壊れる? そうよ! 壊れてるの! ほら、乗って!」
マリ子は明夫の腕をつかむと、力任せに体重計へ乗せた。
「もう……痛いよ……なんなのさ……」
「ほら! 壊れてる。五十二キロだもん!」
マリ子は馴れ馴れしいヤンキーのように明夫の肩を組むと、体重の数値を見て安堵のため息を落とした。
「あ……言いにくいんだけどさ……。その……それ……それね。壊れてないよ……」
たかしはもう傷付けないように言うのは無理だと思っていた。なので、しどろもどろになりながらも正直に言うことにした。
「は? 五十二キロよ。ありえないでしょう」
「それじゃあ……明夫と肩を組んでて思うことない?」
「まぁ、不思議な光景よね。だって私が明夫の肩をよ。この固くて骨ばかりで、脂肪どころか皮もないような……アンタの体って気持ちわるっ……」
マリ子は身震いした。肩から手首まで、明夫の体はどこを触ってもすぐに骨に当たるからだ。
「失礼な……どこに出しても恥ずかしくないもやし体型だろう」
明夫は腰に手を当てると、何もわかっていないとでも言うように嘲笑を浮かべた。
「それって威張って言う事?」
「わかってないな。この体型を維持できるからこそ、僕は小学校から体育の時間をサボることが出来たんだぞ。クラスのヤンキーまでが、僕に怪我をさせないように気を使ってボールを投げたんだ。あの瞬間。僕はカーストの頂点に君臨した」
「それってクラスのカーストの枠から外されただけよ。外様には優しく。人間が生きる上での常識よ」
マリ子の物言いにカチンと来た明夫は、たかしよりストレートに指摘することにした。
「食べれば太る。人間が生きる上での常識だね」
マリ子は絶句した。まさか面と向かって女の子に体重のことを言う男が存在するだなんて、マリ子が生きる世界線の上では絶対にありえないことだ。
「覚えておきなさい。重さを口にするのは、本マグロが水揚げされる時だけ許されるのよ」
「君は重さじゃなくて、アイスを口にするから太ったんだ。ゴミ箱からアイスの空箱を拾って見てごらんよ」
「……見ない」
「マリ子。君は今日だけで……。うわぁ……驚きだよ」
「……聞きたくない」
「アイスだけで八百キロカロリー。糖質も百を超えてるよ。この脂質の量見た」
「ちょっとたかし! あのバカの息の根を止めなさいよ!!!」
「止めるのは言葉だろう。こんなことで明夫を殺してたら、僕は今頃看守に媚を売ってるよ」
たかしは適当に二人の相手をしながらも、リビングで出かける準備を始めていた。
「聞いてなかったわけ? 体重が増えてるのよ。私の体重が! 五キロも! 増えてるの! 五キロってわかる? 二リットルのペットを二本持つより重いの」
「今始めて聞いたよ……。五キロも太ったの!? この一ヶ月で?」
「五キロって口にしないで……。言っておくけど、女の体重の変動なんて珍しくないんだからね」
「じゃあ焦ることもない」
興味もない話なので明夫は早々に話を切り上げようとするが、マリ子はしっかり明夫の腕を掴んで離さなかった。
「早くオタクの減量方法を教えないと、この細腕をへし折るわよ。治療に時間がかかるように関節ごと破壊してやる……」
「そんなのないよ。食べずにゲームばかりしてれば?」
「それよ! アンタ持ってたでしょう。体を動かすゲームを。水着を必須の季節までに痩せるわよ!!」
不満を口にする明夫と、それを頭ごなしに押さえつけたマリ子。
途端に大人しくなる明夫を見て、まるで姉弟の関係だとたかしは苦笑いを浮かべた。
「――ってわけ。たぶん帰ったら大騒ぎ」
たかしはデートで商業施設に出かけており、そこで名前を伏せつつ、出かける前の騒動をユリに話していた。
「女の永遠の趣味ね。美への飽くなき探究。気持ちわかるわー。体重って、たった一キロ違うだけで見た目がかなり変わるのよ」
「そんなに変わる?」
「数字の見た目よ。四九キロよりも四八キロのほうがいいでしょう?」
「全然思わない」
「わかったわ。言い方を変えてあげある。十三センチと十二センチ。たかしは十二センチね。って言われて納得出来る?」
「出来ない。でも、理由はある。なぜなら平均より上だから」
「男の本当の平均を知ってるのは女よ。さ、この話はおしまいかしらね」
ユリは映画の上映時間が近付いているので立ち上がろうとするが、たかしはちょっと待ってと座らせた。
「そんなのってないよ。不完全燃焼だ。しっかり話し合わないと」
「いいけど。早くしてよね。SFホラー超大作【ヴァリオン船の太陽航路】の連夜上映の初日よ。絶対見なくちゃ」
「オレってそんなに小さい?」
「例え話よ。適当に突かれて、話題を放置すると気になるでしょう。たかしに体重のことを話した女性も、きっと同じ気持ちになってるわよ」
「同じ気持ちになっても、同じモノが生えてくるわけじゃない……」
「平均なんだからいいでしょう。悪いと思ってるなら、今後気を付ければいいじゃない」
「今の話なのに?」
「今? だって体重の話をされるのって、相当の関係の話じゃない? 笑ってたかしに話せるまで時間がかかったと思うわよ」
たかしがマリ子とルームシェアをしてることを知らないユリは、当然誰か別の女性の話だと思っていた。
正直に話してないのでたかしもバツが悪くなり、「あぁ。そうだね……」と適当に濁すしかなかった。
ユリは「変なの……」と一度顔をしかめたものの、子供の頃から好きなSFシリーズの映画を恋人とともに夜通し鑑賞すると思うと、すぐに気にならなくなりテンションを上げた。
「飲み物はどうする?」
ベンチから立ち上がったたかしは、手を繋ごうとユリに向かって手を伸ばしたのだが、その手が握られることはなかった。
「私はポップコーンを買ってくるわ。私はお茶で」
「飲み物二つはこっちの奢り、二人で食べるポップコーンは一つで、そっちの奢り。オレ達って平等なカップルだね」
「そうよ。いつもと一緒でしょう。たかしがディナーを奢って、私がモーニングを奢る」
「今日のモーニングはなにを奢られるんだろう」
たかしが茶化して言うと、ユリは目を細めて満面の笑みを浮かべた。
「何言ってるのよ。食べられないわよ。成人指定のグロホラー映画よ。SFで特殊メイクもバッチリ。今日放映のシリーズ第一作目は、カルトホラーとも呼ばれてるわ。なぜなら、そのリアルな表現から監督が本当に殺人をしたって噂が立ったくらいなのよ」
ユリの楽しそうな顔からは、信じられない言葉が次から次へと出てくる。
たかしは二つ返事で適当にデート先を決めたことを後悔していた。
翌日。マリ子と明夫は、早朝から体を動かすゲームをしていた。
「見て見て! 凄い谷間!! これやばくない?」
リング状のコントローラーを左右から全力で押し込んだマリ子は、いつもより深い谷間を作る胸に興奮していた。
「肘が体にくっつきすぎ……画面の美女がやるとおりにやりなよ」
明夫はマリ子の谷間を不機嫌ににらみつけると、勝手にコントローラのボタンを教えて次の項目へ進ませた。
「ちょっと……少しは見ときなさいよ。現実の肌を見ておかないと、絶対将来苦労するわよ。今なら見放題」
「見たくない……」
「本当にオタクって意味不明ね……」
「意味不明なのは、特典でついてきたブルマを、勝手に君が開けて穿いたことだ」
「いいでしょう。。ぴったりなんだから。こういうのは形が大事なんだから、それにたかしにも見せてないのよ。JKブルマスタイル。光栄に思いなさい」
「【デカ尻! ママさんバレーボール!】ってゲームの初回特典だけどね」
「……それで大きいのね」
「ぴったりって言ったじゃん」
「汗で張り付いたのよ……」
「まだ汗をかくほど初めてないだろう」
「これからかくから前払いしたのよ。気分悪いわ……アンタも、このゲームも……」
マリ子はテレビを睨みつけた。
話題を聞いていたのかと思うほど、ぴったりの運動メニューが選ばれたからだ。それはお尻を強調するようなスクワットだ。
「ほら……もっと腰を下げて」
「わかってるわよ」
マリ子がリング状のコントローラを前で持ったまま、ゆっくり腰を下ろしてスクワットをすると、テレビに写っているモンスターにダメージが入った。
「もっとだ。もっと! それじゃあ全然ダメージが入らないよ」
「うっさいわね! やってるでしょう」
「やってないよ。お尻が落ちたまんまだ。落として上げるからスクワットだろう。そうやって書いてある」
「お尻が重すぎて上がんないのよ……。アンタ、私のお尻に溶かした鉄でも注射した?」
「するわけないだろう。ほら、ペースアップが。頑張れ! 君なら出来る!!」
「なんで熱血モードに入ってるのよ……ブルマ効果?」
「いいから早く! ポイントが減ってるだろう!!」
明夫がマリ子のダイエットゲームに付き合ってる理由は、マリ子に運動をさせて、貯まったポイントを自分で使おうと思っているからだ。
このゲームは運動回数や時間、距離に応じて、ゲーム内でポイントが貯まる。そのポイントでアバターの服を買うのだ。
「ポイント? なんのこと?」
「右下に出てるだろう。あと一万ポイントで限定の服が買えるんだぞ」
「限定!?」
「そうだ。しかもブランドコラボだぞ」
「ブランド!? やるっきゃない!!」
マリ子は現実にもらえるものだと思い、全力でダイエットゲームに勤しんだ。
全ての運動が終わり。ポイントはゲーム内だけで、ブランドはコラボゲームブランドだと、明夫に真実を伝えられたマリ子だったが、疲れすぎて怒る気にもなれなかった。
ウキウキで眠りにつく秋音は違い、マリ子はゲームを起動したまま、リビングでゼイゼイ言いながら倒れていた。
そこへ帰ってきたたかしは「どうしたの……」と声をかけた。
「見てわからない?」
「……待って、推理するから。そうだな……今は朝方で……マリ子さんはブルマ姿。しかも倒れ込んでいる。わかった! 犯人は明夫だ!」
「正解よ。名探偵さん……。ついでに名料理人もなって。お腹が空いたけど、朝ごはんを作る気力がないわ……」
「あぁ……ごめん、無理。今日一日なんも食べる気が起きないかも」
「ちょっと! どういうこと!」
「大丈夫だよ、心配しないで。明日には食べられるようになってると思うから」
「心配なんかしてないわよ。こっちがこれだけ苦労して痩せようとしてるのに、たかしは食事を抜くだけで体重を減らす気?」
「勘弁してよ……朝までグロホラー映画見て帰ってきたことがある? 始発の電車の中で、ゾンビが襲ってきたらって本気で考えるよ」
「なんだ……グロで参って食欲がないのね……」
「興味があるなら行ってみれば? 連日連夜……何度も再上映するらしいから」
「そんなの行くわけ――」マリ子は少し考えてから明夫の部屋に向かって大声を出した。「明夫! 今日の夜は映画よ! 寝ておきなさい! 朝までオールよ!」
「今君に起こされる前までは寝てただろう!!」という大声が一度響くと、すぐに何も聞こえなくなった。
その後マリ子にしつこく迫られ、適当に口約束してしまった明夫は、苦手なホラージャンルにすかり怯えてしまい。数日のあいだ食欲も減ってしまった。
元々少ない体重から更に痩せ、なかなか体重の減らないマリ子から更に恨まれるのだった。




