第四話
「だから、この時間は朝ドラの【まるがり】だって言ってるでしょう!」
「違うね。この時間は【モーニング・ファイティングニュース】の時間。なぜなら、僕の好きな声優がナレーションをしてるから」
明夫とマリ子はリビングに一つしかないテレビのチャンネル権を争って、朝から言い合いをしていた。
その声は、大学行くための準備をしているたかしの部屋まで聞こえていた。スマホで今日の講義内容を確認したいのだが、二人の声が気になってどうも目が滑って頭に入ってこないので、注意をしにリビングへ向かった。
たかしが来たのに気付いているにも関わらず、二人の声は小さくなることはなかった。
「ねぇ、もうちょっとボリュームどうにかなんない?」
「無理。彼女に言って。彼女がゴリラみたいな腕で無理矢理リモコンを奪ったんだ」
「私をゴリラ呼ばわりするなら、そのゴボウみたいな細腕を鍛えるか、群れのボスの言うことをよく聞きなさい」
マリ子は煽るように明夫の目の前でリモコンを摘んで揺らした。
隙を見て奪おうとする明夫だが、マリ子に簡単にあしらわれてしまい。奪還は不可能だった。
「ボリュームってそういう意味じゃないんだけど……もういいや。オレは大学に行ってくるよ」
ため息をついて背中を見せるたかしに、マリ子が「ちょって待って」と声をかけた。
「なに?」
「帰りにアイス買ってきて。この間どっかのバカに投げたせいで。なくなったの」
「じゃあ、僕には【ハイパー板チョコ】を買ってきて。頼むから僕が持ってないシールが入ってるのを勝ってきてよ。この間から二回連続で【ハイパー天使詐欺師】だ」
「別にいいけどさ……。誰か一人くらいオレに行ってらっしゃいって言葉はないわけ?」
というたかしの言葉は、マリ子の「まだ子供向けのシール集めてるの?」という開戦の合図によりかき消されてしまった。
昼になり、大学の食堂ではたかしがため息まじりに肘をついていた。
「どうしたんだよ。なんかあったのか?」と聞くのは、たかしの友人の一人であり、今時珍しい真っ黄々の金髪をしている芳樹だ。
「なんで? なにかあったように見える」
「オレは頭が良くないから詳しいことはわからないけど、パスタは巻いたあと食べるものだ。どこまでフォークに巻けるか試すものではない。竜巻でも出来るなら別だけどな」
たかしはパスタを巻きすぎて太鼓のバチのようになったフォークを皿に置くと、観念したように頷いた。
「わかった認めるよ。正直彼女との同棲に不安を感じてる」
「おい……たかし……。何を当たり前のことを言ってるんだ。オレも悟も散々反対しただろう。付き合ってもいない女と同棲するなんて本気かって」
「あの時は何も考えてなかったんだよ。ただ彼女と暮らせてラッキーみたいに思ってたんだ。あるだろう? そういう有頂天な時って」
「あるけど。それはベッドに彼女が裸でいる時だ。大学の掲示板に張り出された張り紙を見た時じゃない。文章と一緒に裸の写真が貼られてたんなら別だけどな。でも、どっちみちそんな女との同棲は嫌だ。だいたいな……似たような話は一年前にも聞いてるぞ」
「それは明夫と同棲を決めた時だろ。事態はあの時より深刻だ。だって二人は喧嘩ばっかりだ。オレに行ってきますの一言もないんだぞ」
「それならアドバイス出来るぞ」
「本当か?」
「同じ経験があるからな。母親について行け。親父はすぐに別の女を作るぞ。で、その女がオレに笑いかけるんだ? 『芳樹くん。一緒にお出かけする?』って。おかげで女の愛想笑いを見抜くスキルが身についたよ。小学生でな。今の質問の答えはこうだ。『僕偉いから、一人でお留守番出来るよ』。オレは邪魔者ってこと」
「今はオレの相談に乗ってたんじゃないのか? どこが同じ状況なんだよ」
たかしはため息をつくと、巻きすぎたパスタを骨つき肉でも食べるように齧りついた。ため息に冷やされたように、すっかりパスタは冷え切ってしまっていた。
「三人で同居は無理ってことだ。今からでも、どっちかと解消しろよ。オレならオタクを切る」
「……その意見をまに受けて、何かあった時は君を頼るけどいいのか?」
「ダメに決まってるだろ……。あのオタクは嫌いだ。言っとくけどオタクだから嫌いなんじゃないからな。アイツがオレに何をしたと思う?」
「わかってるって」
「オレのスマホにお菓子のオマケのシールを貼ったんぞ。友情の印だって」
「彼の国ではそういうしきたりなんだ。しょうがないだろう。キラシールは最高の友情の証だ。彼なりの最大の歩み寄り」
「半裸の男のシールだぞ。どう見てもいらないからだろ。オレはそれに気付かないまま飲み会に言って笑われたんだぞ。覚えてるだろ?」
「まぁね……一番笑ったのはオレだし。とにかくだ。オレは二人に仲良くしてほしい。そうじゃないと、マリ子さんを口説く空気にもならないよ。せっかく一緒に住んでるっていうのに」
「まだ一週間経ったくらいだろう。様子を見たらどうだ? 普通は同棲は争い事が起こるもんだぞ。オマエだけだ、たかし。争い事を起こさないのは」
「それはオレが我慢できるから」
「違う。オマエがザ・普通だからだ。成績は良くもないし、悪くもない。スポーツだってそこそこ出来る。対人関係にはある程度悩むけど、知り合いは多いだろう? 過去に彼女もいただろ? なんて言われて別れたか覚えてるか?」
「普通過ぎて物足りない……」
たかしは昔の恋人に言われた言葉を鮮明に思い出して項垂れた。特別な出会いをし、特別な思い出があるわけでもないが、別れの記憶はいつだってブルーな気分にさせる。
「まぁ、そのパスタの食い方は普通じゃない。それだけは認める」
芳樹がからかって笑うと、食欲が失せたとたかしはトレイを持って立ち上がった。
「君に相談したのが間違いだった」
「相談には乗っただろう? ただ答えが出なかっただけだ。まぁ、ガス抜きにはいつでも付き合ってやるよ。学食で愚痴るもよし、カラオケで叫ぶもよし、居酒屋で発散するもよしだ」
「……ありがとう」
突然まともなことを言われたせいで、たかしは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になっていた。
「ところで午後の倫理の講義は取ってるか?」
「取ってるよ」
「このあとサークルに顔出さないといけないから、ガム買っといてくれ」
小銭を渡されたたかしは「本当オレって人がいい」と呟きながら食器を下げに行った。
大学の講義も終わった夕方。たかしと芳樹はもう一人の友人の悟を加えて、居酒屋に来ていた。
「本当有り得ないね」とビールを片手に言ったのは、中性的な顔立ちをしている悟だ。
「そうだろう」
初めて同情してくれたと、たかしはこの日一番の笑顔を浮かべたのだが、悟はその笑顔にため息をついた。
「違う。たかし――君があり得ない。朝から夕方までフルに講義をとってどうするんだよ。まさか全科目制覇するつもり?」
「時間が空いてたんだ。だって空き時間が出来ると暇だろう? 今日はバイトのシフトも入ってないし」
「だからどこでもいいからサークルに入っておけって言ったのに。部室があれば荷物も置けるし暇も潰せる。大学は勉強するだけの場所じゃないんだぞ」
芳樹はビール飲みながら、もっと気楽に生きろよと言った。
「普通だよ。隙間の時間を有効活用してるだけ。おかげで友達もたくさん出来た」
「それって『やぁ友』だろう?」
悟はそれは本当の友達じゃないと指摘した。
「なんだよ、やぁ友って」
すでに二杯目を飲んで顔を赤くした芳樹は、無駄に体をくっつけながら絡むように聞いた。
「顔を合わせたら『やぁ』って言うだけの顔見知りのこと。おバカな君に説明するなら、初期の僕達のような関係」
「あー! あれか! これだろ? やー」
芳樹は酔っぱらい特有の溶けたような笑顔で片手を上げた。
「そうだよ。おバカな君でも出来る簡単な挨拶の一つだ」
「他にもあるって言うのか?」
「あるよ。『よう』だ」
「もう……やあでもようでもなんでもいいよ。誰か一人くらい、オレの気苦労を慰めてくれる優しい友人はいないわけ?」
「僕らが押し付けた気苦労ならね。君が望んだ気苦労だろう。だいたい何が君を有頂天にさせたのさ。大学の講義決めにだってギリギリまで時間をかける君が、張り紙を見かけた瞬間剥がしていった」
「明夫のせいだよ」
「明夫って? 最初に同棲してた君の彼氏だろ。僕の方がいい男なのに」
悟は中性的な顔立ちで女性のように体をくねらせると、人差し指でたかしの肩をつついた。
「それを悟がやったら冗談にならない……。そう明夫のせいだ。そのときアイツがハマってたアニメが同棲ものなの。毎晩のように見せられたオレは、それに洗脳されたってわけ」
「アニメね……」
芳樹の何か言いたげな瞳はたかしにも伝わった。
「なんだよ、その含みのある言い方は」
「中学の時はなに部だった?」
「テニス」
「高校は?」
「野球。……わかったよ。認めるよ。全部その時に流行ってたから、入りました。文句ある?」
「大学でも同じこと繰り返してるぞ」
「なんだよ。二人は好意を持ってる女の子と同棲できるチャンスがあってもしないって言うのか?」
「オレは実家暮らし。女を連れ込んでるのを見られたら、親父になにを言われるか……」
「僕はどうだろう。姉弟の中で男は僕一人だし、あんまり良い印象は持たないね。やなところばっかり見つけちゃいそう」
たかし問いかけに、二人は反対意見だった。
確かに普通に考えたら、男女三人の同棲なんてあり得ない話だ。
二人が喧嘩する原因も、単純に馬が合わないだけと言うわけではない。元々明夫に何も聞かずに決めたのが悪いのだ。つまり、今の居心地の悪さも自分が招いた種だ。
わかっていながら、どうにも答えが出ない。たかしはテーブルに張り付くように突っ伏してしまった。
「あらら、本当に参ってるみたいよ」
悟はたかしの頭をつついてみるが、自己嫌悪に浸っているせいでなんの反応もなかった。
「考えすぎなんだよ、たかしは。同棲を決めた時みたいに、何も考えずに過ごせばいい。向こうもたかしのことは気にしてないんだろ」
「気にして欲しいんでしょ。それが目当てだもん。今のところ脈なし。まったく男として見られてないってころ」
「悲惨だな。良くて兄弟。悪くてペット扱いだ」
「兄弟もペットも同じだよ。特に立場の弱い弟なんてね。未だにからかって抱っこされる……。せめてもう少し僕の背が高ければ……」
悟の憂い顔は女性のようにしか見えなく、芳樹はその横顔を眺めながらいい考えが浮かんだと口の端を吊り上げた。
「一回立場を交換してみるか? うちは親父がうるさい。キャンプだ釣りだスポーツだってな。男らしくなれるぞ」
「本当に? うちの姉ちゃん達は面白いこと好きだし。やってみる価値はあるかも」
「そうだろう? ちなみに……悟の姉ちゃんは警察官と看護師だろ? 青春の夢がいよいよ現実か」
芳樹は制服姿を思い浮かべて、たまらないと息を吐いた。
「あー……そゆこと。僕の顔を見てそういうことを考えてたわけね」
「仕方ないだろ。女にも男にも受けのいい顔だ。おかげで話だけでも、夢は輪郭を持ち始めてる」
「言っておくけど、僕は中性的な顔立ちで確かに女性に見られる。そして、確かにお姉ちゃん達も同じく中性的な顔をしてる」
「ほら、完璧だ。悟が女だったらって思ってるやつは山ほどいる」
「中性的ってのは、女だけじゃなくて、男にも当てはまるんだぞ。僕の男の部分を見て」
「男の部分って……」
芳樹が視線を下げると顎にデコピンが飛んできた。
「僕の顔だよ。女に見えるって言っても、男に見える時もあるでしょう。その時は」
「なんだよ、イケメンだって言わせたいのか?」
「そう思うんだったら、ありがとう。そんなお姉ちゃん……いや、お兄ちゃん達とイチャイチャしたい?」
「まじで? 自信無くすわ……鏡は絶対見れねぇ……」
「そういうこと。皆何かしら悩みを抱えてるってことさ。芳樹だって、たまにはお父さんに放っておいて欲しいんだろ」
「まぁな。男のスキンシップはいいんだけどよ。こっちがのめり込んだ途端。向こうは女を作るからな」
「ね、皆何かしら問題を抱えてるってわけ。悩みすぎてもいいことないでしょう」
悟が頭を撫でると、たかしはため息をつきながら体を起こした。
「確かに、これ以上悩むのは無駄だ」
「よかったよ、慰めが効いたみたいで」
「これ以上聞いてたら、悟の自慢で押しつぶされる。顔立ちのいい姉に囲まれて、それも愛されて育ってる。何が不満だって言うんだよ」
「別に自慢したつもりじゃあ……」
「まぁ、いいじゃねぇか。せっかく悟が奢ってくれるって言ってるんだから」
芳樹は元気が出てよかったなと、たかしの肩を組みながら言った。
「いつそんなことになったの」
「いいだろう。イケメンだって褒めてやったんだから」
「そんなことない。芳樹の方がカッコいいよ。金髪で目立つし」
「本当か? じゃあオレの奢りだな」すでに酔いが回っている芳樹は何も疑問を持たずに「しょうがないなぁ」と嬉しそうな顔で伝票を自分の元へ寄せた。
「悩むのがバカらしくなったよ。バカを見てるお陰かな」
「今度こそ元気が出たみたいでよかったよ。ところで、いつになったら家に招待してくれるのさ」
たかしは悟の顔をまじまじと見つめて「あー絶対だめ」と首を振った。
「別に彼女をどうこうしようとは思ってないよ」
「それもあるけど、君のためだ」
「どういうことさ」
たかしは「さぁ」と肩をすくめると、これ以上芳樹が酔う前にお開きにした。
帰りにアイスとハイパー板チョコを買ってきたたかしは、また同じシールが当たって文句を言う明夫にあることを聞いてみた。
「明夫ってさ、男の娘にハマったことある?」
「たかし……何を聞いてるんだ……あるに決まってるだろう。大ありだ。男の娘の意味わかってる? 天は二物を与えずとも、イチモツを与えたって意味だぞ」
「ちょっと……テレビに桜木君が出てるんだから、気持ち悪い会話しないでくれる?」
マリ子がソファーを独占して見ているテレビでは、中性的な顔立ちの男性アイドルが主演のドラマをやっていた。
「桜木君好きなの?」
「それってウサギにニンジンが好きか聞くようなもの」
「ウサギが喋るわけない」
バカにして鼻を鳴らす明夫に、マリ子は同じように鼻を鳴らして返した。
「そうよ。だから黙って食べちゃうの。全部ペロリって」
「下品だ」
「童貞にはわからないだろうけど、エッチってのは下品なものなのよ」
「いいや! それは違う!」
「違わないわ。いい? よく聞きなさい」
「やだやだ絶対に聞かない。ワーワー! ワーワー!」
また言い合いを始める二人を眺めながら、たかしは「やっぱりうちには呼べないな……」と呟いたのだった。