第十二話
「おかわり!」
明夫はたかしに向かって勢いよく叫んだ。
「朝からご飯を二杯も食べられるようなタフな体してないだろう……無理するなよ」
「こっちもおかわり!」
マリ子は明夫よりも大きな声で言うと、空のお茶碗を高々と掲げた。
「……ダイエット中じゃなかった? 何を朝から争ってるのさ」
起きてからずっと睨み合う二人に、たかしはほとほと困り果てていた。
洗面所でも、どちらが先に歯を磨くか顔を洗うかと揉め。次はどちらが先に着替え終わるか、そして今度はどちらかご飯をたくさん食べられるかと争っているのだ。
「たかし……僕達って親友同士じゃなかったの?」
明夫が不満顔を見せると、マリ子も同じ表情でたかしを見た。
「元カレなら大事な日くらい覚えてなさいよ」
「誰かの誕生日? あっ……わかったぞ。君たちの子供とか?」
「笑えないわ……。今日はボスカップの日よ! 朝から勝負はもう始まってるの」
「驚いた……もうすっかりオタクだね」
たかしは自分にも一度経験があると、温かく優しい眼差しをマリ子に向けた。
「なによ……その目は」
「なんとなく、オタク趣味を持った方がいいかなと思う日が来る。それが大学生。そして、それが今の君」
「私は彼氏の趣味に合わせてるだけよ」
「あれ? まだ付き合ってないんじゃなかったけ?」
「私がわざわざオタクの大会に出るのよ。これで付き合わないって言ったら詐欺よ」
マリ子が勘違いしないでと肩をすくめると、目の前を明夫の箸が横切った。
「ウインナー取った!」
「ちょっとなにすんのよ!」
「そのセリフ……パーフェクト・シーズンの最中にも言うつもり? 油断は大敵だよ」
明夫は勝ち誇った笑みを浮かべるが、気付けば最後に食べようと取っておいた目玉焼きが皿から消えていた。
「アンタはこの目玉焼きと一緒ね。半熟ってことよ」
マリ子は見せつけるように大口を開けると、目玉焼きを一口で頬張った。
「それは僕のだぞ! 最後に口の中で膜を破るのが最高なんだぞ!」
「童貞拗らせて卵の膜を破ってるわけ? 引くわ……」
「その発想の方が引くよ……」
未だ睨み合う二人の視線を遮るように、たかしは脱いだエプロンをひらつかせた。
「もうちょっと平和的にいかないの? オレの顔を見て、誰よりもハッピーな顔してるだろう」
「たかしはデートだからだろう。……いつもは僕の応援に来るのに」
「私の応援に決まってるでしょ。オタクと美女がいて、オタクを取るのは精神科医以外いないわよ」
結局二人はいつまでも言い合いをやめないので、たかしは放っておいてデートに出かけることにした。
「可愛いじゃない。兄妹みたいで」
今朝の話をたかしから聞かされたユリは、嫌な顔せずに面識のない友人の話を聞いてくれていた。
「こっちは溜まったものじゃないよ。まるで子育てだ……」
「あら……誰に生ませたの?」
「君じゃないことは確か……苦しみを分かち合ってくれないからね」
「避妊の大切さがわかるわね」
「本当だよ……。二人とも悪知恵が働くんだもん。今日の結果次第じゃ長引くぞ……。結果は明夫の勝ちで決まってるけど」
「あら、そうなの? マリ子さんもゲームの上手な彼氏と一緒に出るんでしょう? わからないわよ」
「それじゃあ超えられない壁ってのはあるんだよ」
「私とたかしの二人でも?」
「オレは大丈夫。でも……ユリさんはダメだろうな」
「そう言われると……ちょっとムカつくわね。次の大会に出る?」
「やめといた方がいいよ。あの店……ちょっと独特な臭いがするから……」
「あぁ……やめておくわ。あなたの友達と会う時も、その店にいかないと友達と遊ぶ」
「それが賢明だ。でも、その店に行かないような仲の良い友達って……芳樹くらいだよ」
「それなら無理ね」
「幼馴染で遊ぶって、そんな気恥ずかしいもの?」
「違うわ。私がいたら怯えて来ないってこと。あなたに余計なことを喋ったことで詰めたから。まぁ、経験上……私の目を真っ直ぐ見られるようになるまで……三ヶ月はかかるわね」
「それは……それは……。まだオレのことも怒ってる?」
「怒ってないわ」
ユリは身を乗り出して真剣な表情のたかしにキスすると、今日のデートは私が奢る番だと伝票を持って立ち上がった。
ユリと完全に仲直りし、上機嫌のたかしはそのままのテンションで帰ってきた。
「ねぇ、聞いて。今日は人生最高の日だよ!」
「それ……人生最悪の日の人の前でよく言えるわね」
ソファーで体育座りをしたまま睨んでくるマリ子を見て、たかしはやっぱり負けたのだと悟った。
「ごめん……マスクは必須くらいは言っとけばよかったね」
「そんなんじゃあの臭いは防げないわよ! ガスマスクが必要!」
「そこまで臭くないと思うけど」
「たかしは嗅いだことないでしょう」
「あるよ。大会にも何度も参加してる」
「香水と汗と制汗スプレーが渦巻く空間よ! 最悪!」
今回ボスの店ではマリ子が参加すると決まってから、大会参加には朝のシャワーが必須になっていた。
それだけならまだしも、皆マリ子に良い印象を持ってもらおうと、慣れない香水と匂い付きの制汗スプレーを大量につけて大会に参加してきたので、店は臭い地獄と化していたのだが、たかしはそこまで酷いことになっているとは想像つかなかった。
「なんだ……良い香りじゃん」
「嗅いだことないから言えるのよ。体育後の女子の更衣室の匂いよ」
「ますます良い香りだ」
たかしは男なら誰でも思うことだと言ったが、マリ子はなにもわかっていないと鼻で笑った。
「学校で行える拷問の一つよ。女子更衣室に閉じ込めるってのは」
「男子更衣室よりは絶対まし。それで――明夫はなんで地面に張り付いてるわけ?」
明夫は干からびたカエルが地面に張り付いているように、床にうつ伏せに倒れていた。
「なんでって……魔女がソファーを取ったから……」
「マリ子さんが落ち込んでるってことは、明夫は勝ったんだろう?」
「僕が女子更衣室の臭いに慣れてるとでも思った?」
「明夫……マリ子さんは表現を柔らかくしてくれただけで、男九割の会場で女子更衣室の匂いは絶対にしない」
「なんでも同じだよ。とにかく翻弄されて全然うまく行かなかったよ……。それもこれも、青木が気絶するからだ!」
「待った。結局どっちが勝ったの? あの大会はポイント制だから、引き分けはないだろう」
「聞いてなかったの? 青木が気絶したって言っただろう。あの会場は全員が参加者だ。あの場で補充は出来ない」
「ってことは……そっちも?」
マリ子はたかしと目を合わせず「私は吐いた……朝のご飯を全部」と気だるいため息を落とした。
「そりゃゲーム大会どころじゃないね。ってことは……中止になったの?」
「いいや、ボスが優勝」
明夫はうんざりした声で言ったので、これは何かあるとたかしは思った。
「また不正でもしたのか? 前の大会はわざとラグ発生させただろう。自分はラグありで練習して」
「不正と言えば不正だね。ボスは風上にいたから」
明夫が言い終えると、すぐさまマリ子が「それも甘ったるい香水をつけて」と付け足した。
「行かなくて良かったような……見てみたかったような。まぁ……でも、これで君達が争う理由がなくなったわけだ。仲直りの握手でもしたら?」
たかしは二人の不戦敗が良い方に転がったと思っていた。
「そうは行かないわよ……明日私の彼氏を家に呼んだの」
「まだ君の彼氏じゃないだろう。僕の親友だ」
「アンタの親友でもないわよ。今日話したばかりでしょう」
再びいがみ合う二人だが、たかしは全く意味がわからなかった。
朝は大会のことで良い争っていたのだが、今はよくわからない人物を挟んで争っている。それがなぜ明日家に来るのかもわからなかった。
「マリ子さんの恋人で、明夫の親友? まさかオレのことじゃないよね」
「いつまで彼氏気取りでいるのよ。ぶっ飛ばすわよ」
「魔女の言うとおりだ。僕を捨てて恋人とデートに行ったくせに、まだ一番の親友ヅラするのか?」
「しない。やった! オレは自由だ!」
明夫の親友でいるのも疲れると、たかしは全力で喜んだ。
「君は二番目の親友だ」
「時々思うよ……出会わなかった人生の素晴らしさを」
翌日、噂の彼を夕食に招待したのだが、その前に唐揚げにかけるレモンがないと明夫とマリ子が騒ぎ出した。
どちらか買いに行っている間に来ては不公平だと、たかしが買いに行かせられることになった。
そして、たかしがいない間に、その彼がやってきたのだ。
「……お邪魔します」とオドオドした態度で家に入ってきたのは、『佐藤』というなんの変哲もない苗字の男だ。だが、容姿はとても整っており、いかにもマリ子のタイプといった素材の良い顔立ちをしている。
しかし、マリ子が「いらっしゃい」と媚びた声で谷間を強調しても無反応だった。
それどころか、飾ってあるフィギュアを見つけると、不自然な早足でそこへ向かったのだ。
「これって……オーロラの姫騎士のゼノビア様だ! 限定品だろう? 手に入れたの?」
「当然」
「すごい……これって原型師の遺作だよね。人形には魂がこもるって本当だったんだ。彼女には魂がある……それを感じるよ」
「ちょっと……彼女はこっちよ。魂ももう二十年以上入ってるわよ」
佐藤はマリ子の視線など全く気にせずに、しゃがみ込んでまじまじとフィギュアの際どい部分を眺め始めた。
「関節のシワまで見事な再現だよ。悪に立ち向かうあのシーンが浮かんでくるよ」
「名乗らぬは騎士の恥。よく聞け! 正義とは白銀の切っ先に宿らせるもの――」
明夫と佐藤は声を揃えて「――その名もゼノビア!」と叫んだ。
マリ子は耳を塞ぐと「大丈夫よ。まだ大丈夫……これは可愛げよ。男は子供っぽいところがあった方が扱いやすくていいのよ……。これはオタクじゃない。可愛げ。オタクじゃない可愛げ。オタクだとしても、バカじゃない」と何度も自分に言い聞かせた。
そして、最後に深呼吸をすると、力強い瞳で佐藤を見た。
「このアニメ好きなの?」
「もちろん。おっぱいが大きい女の子が出てくるアニメって最高だよね」
「おっぱいが大きい女の子が出てくる人生は? 最高だと思わない?」
「マリ子さん……アニメキャラは画面から出てこないよ。大丈夫? 痛いオタクみたいこと言ってるけど」
佐藤の蔑みの視線に、マリ子は「よし! 彼は常識人」と良い風に捉えてガッツポーズをした。「いい? 出てるってのはこういうことを言うの」
マリ子が上着を脱いで、体のラインが浮き出るキャミソール姿を見せると、佐藤は慌てふためいて視線を逸らした。
「ちょっと! ずるいぞ! 僕にない部位で誘惑するだなんて!」
明夫は卑怯者だと罵るが、マリ子はそんなこと気にしなかった。
「アンタも私にない部位で誘惑すればいいじゃない。……本当にやったらぶっ飛ばすけど」
「僕より立派なのがついてそうなくせに……よく言うよ。とりあえず! 佐藤! ゼノビア様から目を離すな! 絶対に現実を見るな!」
「いいえ、現実を見るべき。現実ってのは、触れるから現実なの。このまま痛いオタクでいたら、人生の重さを実感するわよ。でも、おっぱいの重さを知っておけば、人生の重さなんて忘れるわ」
「ちょっと困るよ……二人とも……」
佐藤はどちらかを取るだなんて話は聞いていないと逃げたい気持ちでいっぱいだったが、ソファに座れされ、目の前を二人に塞がれているので逃げることは出来なかった。
そんな時たかしがレモンを買って帰ってきたのだ。
「最近のコンビニって色々置いてあって本当に便利だよね。スーパーまで行く手間が省けたよ」
たかしがレモンを手で遊ばせながらリビングに入ってくると、佐藤は驚いた顔で立ち上がった。
「たかし!」
「佐藤じゃん。二人が言ってたのって佐藤のこと?」
「たかしぃ!」
佐藤は助かったとたかしに抱きついた。
「なに? いじめたの? ダメだよ……佐藤は対人恐怖症なんだから。君達よりずっと繊細なんだ」
「待って……なに?」
急にたかしに取られたような気がして、マリ子は睨みつけた。
「昔のバイト先で一緒だったんだよ。対人恐怖症を直そうとコンビニバイトしてたんだけど。彼とシフトが一緒だったんだ」
「たかしには本当に助けられたよ。おかげでゲーム大会にも出られるようになった」
「そりゃ良かった。もうバックヤードに引きこもることもなさそうだね」
たかしが茶化して言うと、佐藤は「言わないでよ」と照れて笑った。
「大きな一歩だよ。そうだ! 他にデリバリーを頼もうよ。唐揚げにフライドポテトにドーナツ……揚げ物ばっかり。サラダ好きだったよね。サラダデリバリーがあるんだ」
「僕の好み覚えててくれたんだ」
「人気バンドのライブでレジが混雑しちゃって、シフトが終わっても帰れなくなった時。一緒にバックヤードで一晩を過ごした中だろう?」
たかしがタブレットでメニューを佐藤に見せている間。
明夫とマリ子は話し合っていた。
「なにこれ。元カレに男を取られたってこと?」
「君はまだいいよ。僕は親友に親友を取られたんだぞ」
「もしかして……私達って負け犬?」
マリ子は明夫と目を合わせると、ガックリと肩を落としたのだった。




