第十話
「は? もう別れたっていうのか?」
大学の学食で、たかしは驚いたと声を大きくした。
「おい! でかい声で言うなよ。皆に聞こえるだろう……」
芳樹は注目の的だと体をすくめるが、珍しい話でもないと周囲の反応はドライなものだった。
「悪かったよ……でも、早すぎないか?」
たかしが声を小さくすると、芳樹は不満に眉をひそめた。
「もっと声をでかくしろよ。じゃないと、皆に聞こえないだろう」
「どっちだよ……」
「オレからは言わないけど、別れて可哀想だからチヤホヤしてほしいってこと。それとなくオレを慰めるような流れを作って伝えるのは――親友。それはオマエの役目だろう!」
「たった今、その役目は自己申告制に変わったみたい。全部芳樹が自分で伝えたからね。多分だけど、皆はこう思ってるんじゃない? 思ったより元気だって」
「わかったよ……別れたって言い方は間違い。オレは振られたんだ……」
「だろうね。それなら容易に想像できる。またバカやったんだろう」
「おい! 言い過ぎだぞ」
芳樹が心外だという顔をするので、たかしは「悪かったよ」と彼をなだめた。
「ところで、話は変わるんだけどよ。どこまで小便が届くのかが気になって、少しずつ小便器から離れて用を足してるのを恋人に見られるのは……バカに入るか?」
「小便器ってことは、どっかの店ってことか? それなら大バカだよ。自宅でもバカなのに」
「こっちは酔ってたんだぞ。なにも悪くない……全部酒が悪い」
「飲みすぎたのが悪い。だいたい付き合い始めたのも、酔ってたじゃないか。もうちょっとしっかりしたほうがいいんじゃない?」
「ちょっと待てよ……。オマエもユリとは同じ日に付き合っただろう、よくオレにアレコレ言えるな」
「付き合ったのは後日だよ。それにオレは酔っ払ってない」
「いいや、その言い方は自分に酔ってる。自分は良い男だってか?」
「そんなこと言ってないだろう」
「目が言ってる。オレにはわかるんだ。今は……オレのことをうざいと思ってるだろ」
「今だけじゃない。いつも思ってる。それで?」
たかしが興味なさそうにウーロン茶をひと口飲むと、芳樹はしっかり聞けと目を三角にした。
「いいか? 友達が振られたんだぞ? オレ達はいつも一緒なんだぞ。一人だけ彼女がいないんじゃ軋轢が生まれるだろう」
「悟がいるだろう」
「悟と言えば……聞いたか? とうとう男を口説いたってよ」
「なんかの間違いじゃないの? 悟は結構女性にこだわり持ってるよ。上の姉のせいだって言ってた」
「だからだ。女が嫌になったに違いない」
「だとしても、芳樹に紹介できるような女の子はいないよ」
「なんでだよ! 知り合いの多さだけが取り柄のような男だろう? オレに釣り合わないようなブスなのか?」
「芳樹と釣り合いをとるなら、ペットショップでエサのコオロギでも買うよ」
たかしが適当な返答をするのは、よくあることだからだ。
芳樹は極度の女性好きというわけでもないが、男だけで遊び回るよりも女性がいた方が好きというタイプだ。人懐っこい人柄もあり、男女ともに人気はあるのだが、同時に情けないところも知られているため、彼女を作るとなるとなかなか大変だった。
今回はせっかくたかしとダブルデートをしようと考えていた矢先に振られたので、どうにも気持ちの収拾がつかなくなってしまったのだ。
「色々言ってくれちゃってるけどよ。ユリのどこがいいんだ?」
ユリとは幼なじみの芳樹は、友人としての良いところはたくさんあるが、女性としての魅力は皆無だと断言した。
「気付こうとしてないからじゃないの? 今更気付かれも困るけどね」
「だって小学一年までおねしょしてただろう? オレが中学三年の時に陰毛が生えてきたって言ったら、今頃やっとって笑うような女だぞ。それに初めての彼氏の時はだな……緊張のしすぎで恋人繋ぎに力を入れすぎて、相手の指の関節を外したんだ。これ傑作だろう?」
芳樹が他にもバカ話があるぞと笑うので、たかしもつられて笑っていた。
その数日後。たかしはユリと水族館デートしていた。
「見て、ナマズって英語ではキャットフィッシュっていうんだって。休日にテレビで野球観戦してるおじさんみたいな顔してるのに、ずいぶんおしゃれな名前ね」
ユリは水槽に向かって手を振るが、ナマズは何も反応せずにぼーっと水底に張り付いていた。
「そんな顔してる?」
「してるわよ。ほら、六連続勤務で激疲れ。せっかくの日曜だけど出かけるのも面倒臭いから、缶ビール片手にゴロンってしてる四十代後半の男の顔」
「想像力豊か過ぎない?」
「私のお父さんの話よ。口が半開きのところなんかそっくり過ぎ……なんか可哀想になってきた」
「連勤のお父さんが? それとも水槽に閉じ込められてるナマズのこと?」
「せっかくのデートとなのに、父親の顔を思い出した私のことよ」
「デートで思い出したよ。君……初めての恋人の指関節外したんだって? それ聞いた時、笑っちゃったよ」
目の前の水槽に映るのはたかしの笑顔。それと、明らかに笑顔が消えていったユリの姿だった。
「……そう。あっ、あそこ触れる水槽だって。行ってみない? 世界の貝だって」
「貝か……指を挟まれて泣かないようにしないとね」
たかしは笑い声を漏らしながら触れる展示コーナに向かって歩くが、ユリは表情を曇らせて立ち止まっていた。
「どうしたの?」と振り返ったたかしを、ユリは睨みつけた。
「どういうつもり?」
「どうって……展示コーナで貝を触るつもり」
「違うわ。さっきからずっとなんなの? 人の失敗話を茶化して楽しいわけ?」
ユリに言われて、たかしはすぐにまずいと思って謝罪したのだが、許されることはなかった
今日ずっと一日こんな感じなので、ユリはとうとう我慢出来なくなったのだ。
「どうせ言ったのは芳樹でしょ。人がいないとこで話すのは、百歩譲って我慢出来るけど……それをわざわざ本人に言うって……どういうつもりなの?」
「本当にごめん……。オレが悪いよ、君の気持ちを一つも考えてなかった。つい、共通の話題ってだけで楽しんでもらえると思っちゃって……」
「じゃあなに。元カレと会って私とのセックスのことを聞いたら、それもここで言うつもりだったわけ?」
「まさかそんな! とりあえず落ち着ける場所で話し合おうよ。ここじゃ人目が……」
ユリが声を荒らげたせいで、二人は注目の的だった。
休日ではないので混雑はしていないが、たかしはまるで百人に見られているような気がしていた。
「それならもう大丈夫よ」
「よかった……喫茶店で話をしようか」
「いいえ、帰る。今のあなたとは冷静に話せないもの。さようなら」
ユリは返事を聞くことなく、早足で水族館を出て行った。
それから記憶もなく家へ辿り着いたたかしは、ソファーに寝転び「あー……」と気力のない声を垂れ流しにしていた。
「ねぇねぇ……たかし……」
「なんだよ……明夫……」
「ゲームしたいから、横にズレてくれない?」
たかしが無言で膝を抱えると、その空いたスペースに明夫が腰掛けた。
それから数分ほど気にせずゲームを続けていた明夫だが、たかしがあまりにも動かないのでこれは変だと思った。
「ねぇねぇ……たかし……。僕の勘違いじゃなければ……もしかして落ち込んでる?」
「……そうかもね」
「もしかして慰めてほしい?」
「……微妙なところ」
「よかった。僕はゲームを続けるよ。もうすぐボスの店で大会があるんだ。練習しないと」
明夫はコントローラーを握りなおすと、たかしはこれ見よがしなため息を落とした。
「おい……昔からの仲だろう?」
「そうだよ。僕とたかしは十年以上の付き合いだ」
「それなのに慰めの言葉の一つもないのか?」
「今、微妙って言ったじゃん。微妙なのに慰めてほしいの? それって……辛いの苦手なのに、ピザにタバスコをかけちゃうのと同じ感情?」
「……違う。どうして同じだと思う?」
「美味しいけど、辛いのが苦手だったら微妙だろう?」
「たしかに……。今のオレはピザのタバスコみたいなものだよ……」
「辛いのが苦手ってちゃんと言わないと、タバスコ好きが勘違いするぞ。あと……それ以上落ち込まないで、慰めないといけなくなるだろう。僕がそういうの苦手なの知ってるだろう……」
「わかったよ……これでいいだろう?」
たかしは寝転がった体勢から、椅子に座り直した。
「笑顔が足りない」
「明夫!」
「なんだよ! 僕にどうしろってのさ」
明夫が声を荒らげるのと同時に、玄関のドアが開いた?
「あら喧嘩? 珍しいのね」
マリ子はテイクアウトのピザを片手に帰ってきた。
「違う……」たかしは若干不貞腐れ気味に言った。
「知ってた? ピザって自分で持ち帰ると安くなるって。言っとくけど、安くなった分のお金は返さないわよ」
「タバスコは? かけてないだろうね」
明夫はピザの箱を開けるなり、中の匂いを嗅いだ。
「あのねぇ……歩きながらピザにタバスコかける女がいると思う? いたら頭おかしい女よ。それで? たかしの分は買ってきてないわよ。デートだって聞いてたから」
マリ子は喧嘩したのはお見通しだと言わんばかりに、口の端を吊り上げて笑った。
「喧嘩なんかしてないよ」
「あら、そう? これをあげれば、女は一発で機嫌直すのにね」
「どれ!?」
「タバスコ」
マリ子はイタズラな笑みを浮かべて、パックのタバスコを振った。
「からかわないでよ」
「だって、私も使わないんだもん。それで? 原因は? まさかタバスコじゃないでしょうね」
マリ子が顔をしかめると、明夫が勝ち誇った笑みを浮かべた。
「それ僕が先に言った」
「まさかタバスコがついた手で触ったんじゃないでしょうね……。だとしたら最悪よ。もう一生セックスさせてもらえないわね」
「違うって、ただちょっと彼女を笑い物にしちゃっただけ」
「だけ? 恋人を笑い者にしておいて、だけってなによ。付き合ってる時は、そんな人だと思わなかった……最悪ね。本当に最悪。今話題の不倫した俳優より最悪」
「口が滑ったんだよ……反省もしてるし、謝る機会が欲しいんだ。許せないのはわかってるけど……このまま話せないんじゃ、どうかなっちゃうよ……」
「それは私に言うセリフ?」
「違う……でも……通話も出ないし、メッセージにも既読がつかないんだ」
「元カレだからって優しくしないわよ。謝って謝って謝り倒すことね。土下座を繰り返して、膝の骨が見えてきたら許してくれるんじゃない?」
「それで彼女の機嫌が治るなら……」
「冗談よ。でも、謝り倒すのは本当。いい? アンタは悲劇のヒーローよ。どんだけ自分が惨めかメッセージを送るの。彼女の良心に訴えかけるのよ。普通の女は話を聞こうとするから、そこにつけ込むの。しない女はクズだから別れて正解。会う約束を取り付けたら、謝罪は最初の一回。あとは正直に言うの。彼女のわからないところを全部ね。そうして恋人のルールが出来上がってくのよ」
「ありがとう!」
たかしはアドバイス通りにしようと、部屋に戻って文面を考えることにした。
慌ただしさが消えたリビングで、明夫は「ルールだって?」と鼻で笑った。
「そうよ。恋人はルールを作るの。一日一回連絡をするとか、言わなくてもいいことは言わないとか」
「ルールなんか守ってないのに?」
「私は守ってるわよ。向こうが守ってないの。私を優先するとか、絶対服従とか」
「君は本当に魔女だよ……」
「アンタの親友を助けてやったのよ」
「役に立つアドバイスだとは思わないけど」
「いいのよ。今頃は恋人も冷静になってる頃でしょうよ。連絡がないのは、自分のことを考えてヤキモキさせたいからよ。嫌な女ね……」
「自分のこと話してる?」
「アンタは嫌な男ね……」
「そう思うならピザの割り引き分返してよ」
「無理。アイス買ったから」
「嫌な女だ……」
明夫が冷めてきたピザを口に入れると、マリ子はニヤリと笑った。
「タバスコって生地の下につけたら、案外気付かれないのよね」
マリ子はタバスコの空き袋を見せつけた。
ピザは二人分。タバスコも二人分ついてきたのだった。
辛いのが苦手な明夫は、大慌てで飲み物を取りに行った。
「道端じゃなくて、店でかけてきたから、私は頭のおかしい女には入らない。イエイ!」
マリ子のピースサインは、流し台で咳き込む明夫の背中へと向けられていた。