第二十三話
雲が黒く照らされる夕暮れ時。夕食の匂いが染める歩道を小学生が足早に行き交っている。騒がしさと寂しさが同居するこの時間帯は、いつもの日常だ。
しかし、明夫は今の状況に嘆いていた。なぜなら外から聞こえる音は同じなのに、家の中は大きく変わってしまったからだ。
「まったくもって理解不能だよ……」
たかしとマリ子が付き合い始めたと言うことはもちろんだが、それより大きく変わったことが一つあるからだ。
「ちょっと待って。疑問を口にする前に録音しておかないと。さぁ、どうぞ」
そう言ってスマホを取り出したのは京だ。
本来ならばこの家にはいないはずの人物が、ここ数日毎日のように家にいる。
明夫が不満に思っているのはそこだった。
スマホに向かって「出ていけ」と録音するが、京は気にするどころか、録音を確かめると満足そうな笑みを浮かべていた。
「ちょっと、私の友達なんだから仲良くしてよね」
マリ子は買ってきた夕食のオカズを雑に皿に移しながら、文句が止まらない明夫を睨みつけた。
「僕はセックスはしない」
「男女の仲はセックスだけじゃないでしょう。友達として仲良くしろって言ってるのよ」
マリ子の言うことは正論なのだが、性に奔放な本人が言ったところでなんの説得力もない。
全員から視線を浴びせられ、マリ子は「私のことじゃない。一般論よ」と睨んだ。
たかしはフォローするように「ご飯は楽しい方がいいだろう? ほら、この唐揚げ。駅前に行かないと買えないんだぞ。誰が買ってきてくれたと思う?」と、箸で唐揚げをつまんで見せた。
「配達員」
「わかったよ……注文してくれたのは誰だ?」
「そこの背の高い女……」
「じゃあ、言うことはわかるだろう?」
たかしは子供を諭すように言うが、明夫の不満は解決しなかった。
「出ていけ」
「明夫!」
たかしが声を荒らげると、京は「いいのよ。これはこれで興味深いから」と言われるがままになっていた。
明夫はそれならと遠慮なしに悪態をつき続けるが、京は一切気にしない。それどころか、録音が出来ると喜びっぱなしだった。
それを横目に、たかしは「ねぇ……君の友達って変わってるね」とマリ子に小声で言った。
「それをあなたが言うわけ?」
たかしから見れば京は変わった女性だが、マリ子から見ても明夫は変わった男性だ。どちらが何を言ったところで、まるで説得力がない。
「そうだね。バカなこと言ったよ。でも、これって良いことだよね。オレ達の関係が変わったように、この家での関係も変わるんだ。友達が呼びやすくなるよ」
「そうね。部屋のオタク指数が上がりすぎて、具合が悪くなりそうだもん」
「赤沼も青木も良い奴だよ。変わってるけどね」
たかしが周りは変わり者だらけだと笑うと、マリ子もそうねと笑った。
「今度ハム子も連れてくるわ。社会人だからなかなか時間が合わないかもしれないけど、彼女面白いのよ。性欲が強すぎて運動で発散してるの。なんでかわかる? ロリ顔過ぎて男が寄ってこないから」
「そんなことないだろう」
「本当よ。寄ってくるのは、男じゃなくて性犯罪者だもん。連絡先の交換じゃなくて、通報するためにスマホを取り出すの」
「それは……笑っちゃいけないんだろうけど……面白い」
「でしょ! ねね、あなたの友達にも会ってみたいわ」
マリ子はたかしの腕に抱きつきながら言った。
「ちょっと待ってよ、オレから言おうと思ったのに」
「遅いのがいけないのよ。告白だって遅かったんだから」
「でも、ベッドで早いよりはマシだろう?」
たかしはジョークのつもりで言ったのだが、マリ子は引き攣った笑顔のままで固まってしまった。
「オレから下ネタジョークを言うのはダメなわけ?」
「そうじゃないけど……。いつも男はそういうこと言うから」
「オレだって男だよ」
「じゃあ、聞いちゃうけど。平均っていくつだと思う?」
「……二十分」
たかしの答えに、マリ子は笑みを浮かべたまま首を横に降った。
「三十分? じゃあ、四十? うそ……五十分!? それが平均ならオレ死んじゃうかも」
焦ったたかしの額に汗が滲むのを見て、マリ子は心底楽しそうにしていた。
「からかっただけよ」
「よかった……じゃあ、君は二十分で満足してるんだね」
「そういうことにしておいてあげる。どうやったら膝を壁にぶつけるのかは気になるけど」
「わかったよ……頑張りすぎないようにします。でも、もう一つ聞きたいことがある……」
たかしはキスしそうなほど顔を近付いていたマリ子から少し離れると、明夫と京を睨むように見た。
いつの間にか二人の会話は終わり、自分達の会話に耳を傾けていたのだ。
「気にせず続けて。これはこれで興味深いわ」
京はサラダの皿を持ったまま食べることなく、じっとマリ子とたかしのことを見ていた。
「なんでテレビを消したわけ?」
「聞こえないからよ。そのせいで、あなたが二十分の男だって会話は全然録音出来なかったわ」
京は心底残念そうに言った。
「僕も友人として恥ずかしい。エッチなゲームを貸してあげるから、それをやって勉強した方がいいよ」
明夫までがたかしの性生活のことをからかうので、もう勘弁してくれとため息まじに「必要ない」と言った。
「でも、二十分ってゲームのエッチーシーンをオート再生するより短いんだぞ。もっと頑張るべきだ」
たかしがもうお手上げだと言う顔をしたので、マリ子は頬にキスをして機嫌を直してと言った
「いいのよ。セックスは二人用のゲームなんだから。どっちかだけが頑張る必要はないの」
「もう、この話は終わり。女性に振るのはあれだし、明夫は童貞だ。続けたら、オレだけがずっとからかわれ続ける」
たかしは食事を楽しもうと話題を変えた。
そこからは普通の会話が始まった。昨夜のテレビ番組のことや大学生活のことなど、当たり障りのないものばかりだった。
そして、京が帰ったあと。たかしは皿洗いをしながら「大人数での食事もいいもんだろう?」と明夫に言った。
「君って時々すごいバカになるけど自覚ある? 最悪に決まってるだろう。現実の女を一人増やすなら、フィギュアを一体増やした方がいいに決まってる。見てよこれ、フィギュアが増えても洗い物は増えない」
洗い物が増えた原因はマリ子がわざわざ皿に移し替えたせいだ。居酒屋ノリのように、味が移るからと小皿を何枚も用意したせいで、男二人で洗い物をするハメになっていた。
「そんな手間でもないだろう。文句を言うならオレがやるからいいよ」
「よかったよ。でも、今度から先に言ってよね」
明夫は台所から去ろうとしたのだが、たかしにシャツを引っ張られた。
「普通は手伝うだろう? 親友が拗ねてるんだぞ」
「いいかい……たかし。君には勉強が必要だよ。そんなツンデレじゃ、誰も攻略しないぞ。大学の勉強だけが勉強じゃない」
「その通りだけど、明夫のは詭弁だ」
「そんなことない。大学だってテキストを読むだろう。それと同じことだ。待ってて」
明夫が部屋へ何かを取りに行ったので、結局たかし一人で洗い物をすることとなった。
それを終わらせると、リビングでノートパソコンをセッティングしている明夫に呼ばれた。
「おいおい……まさか本当にやらせるのか? エロゲーを」
「古き良きオタク文化だぞ。廃れてもなお消えはしない。君におすすめはズバリこれだ」
明夫がデスクトップ画面のアイコンをクリックすると、卑猥なタイトル画面が起動した。
「これを声に出して読んだら、警察を呼ばれるよ……。何を考えてるんだ!」
「たかしのためを思ってだ。君はエロゲーをバカにしてるけど、僕は女の子の全てをこれで学んだと言ってもいい」
「だから君はオタクなんだ……」
「最高の褒め言葉をどうもありがとう。さぁ、やってみなよ」
明夫があまりにしつこく勧めてくるので、たかしは仕方なくソファーに腰掛けた。
「マリ子さんが帰ってくるまでだぞ……」
「それでこそたかしだ! 僕の親友!! いいかい? 始まりは主人公がリストラされるところからだ」
「そんなシビアな始まりなの? やってられないよ……」
「まさしくそれだ! しっかり主人公の気持ちとシンクロしてるね。はい、リストラさました。次の流れはわかるだろう?」
「職探し?」
「しっかりしろ! アバズレを探しに街へ繰り出すんだろう!」
「この主人公ってバカなの? それとも脚本家がバカなの?」
「バカなのはたかしだ。リストラされました、次は職探しです。これの何が面白いんだ。もっとストーリーは広がるに決まってるだろう」
「でも、新しい職場なら新しい出会いがあるだろう? 病院警備になってナースと出会うとかじゃないの?」
「たかし……今はその天才的思考を抑えてくれ。とにかくヒロインに出会うまで続けてて。僕は生き残ってるエロゲ会社に、制服ものの新作を出すようにリクエスト送るから」
たかしはやる気が出ないままノートパソコンのエンターキーをひたすらクリックした。
テキストが送られ、主人公の人となりと、これまで経緯ががわかってきたところで、一枚絵のイベントCGが表示された。
「明夫……。勝手にぶつかってきた女の子がすごい怒ってるんだけど。こんなにボロクソ言われたこと人生で一度もないよ」
「それが正しい男女の出会いだよ。ちゃんとパンツは見えてるだろう? これが出会い頭のご褒美パンチラだ。物語より先にパンツに注目させて、オタクの期待感を煽るんだ。格闘ゲームにおける新キャラの黒塗り予告と一緒」
「不思議の国のアリスの気持ちがわかるよ……。変な世界に迷い込んじゃった……」
「なんだよロリ系がやりたかったなら先に言ってよ」
「違う」
「じゃあファンタジー系?」
「もういい……とにかく先に進める」
とりあえずもう少し進めれば明夫も納得するだろうと思っていたたかしだが、その考えは甘かった。
選択肢が登場する度によく考えろと何度も言われるのだ。
たかしがこれにすると選んでも、ちゃんと主人公の気持ちになって考えたのかと責め立ててくるので、全然先に進まなかった。
「明夫……ゲームだぞ。そんなこと考える必要なんてあるか?」
「あるに決まってる。人のことを考えるのは当然だろう。エロゲにおける選択肢というのは、唯一僕らが介入を許された場面なんだぞ。君はマリ子と会話をする時も、適当に返事をしてるってことかい?」
明夫の恋愛巧者みたいな言い方に、たかしは惑わされつつあった。
マリ子との関係に活かせるとは思わないが、無駄にもならないだろうと思い始めてきたのだ。
「ということは、『無視して帰る』が正解?」
明夫は「たかし……」と驚愕した。「そのとおりだ! 君の成長は素晴らしいよ。そう、彼女は引くと追いかけてくるんだ。だから無視して無視して、彼女を家まで引き摺り込むんだ」
「でも、途中でラブホに入った方が手っ取り早くない?」
「このゲームはヒロインを家に連れ込んで、エッチなことするのが目的なんだぞ。外ではいがみ合ったり、そっけなくても、家の中では性によがり狂うのが売りなんだ」
「なるほど……ギャップ萌えってやつね。家の中に入ったら、火のついたネズミ花火状態ってわけね。よくわかるわ」
「そうだよ! たかしよりわかってるじゃん」
「なに?」
たかしが振り返ると、マリ子がソファーの背もたれに肘をついて、ノートパソコンの画面を覗いていた。
「いいのよ、続けて。彼氏がエッチなゲームをしてても、別に気にならいわ。男の性癖はDNAみたいにねじれてるってわかってるから」
「彼女の許可が出たぞ、さぁ続けて」
「出来るか!」
「じゃあ、私がやる」マリ子はソファーを跨ぐと、二人の間に割って入ってゲームをプレイした。「てか、絵は超可愛いじゃん。で? うわぁ……そっち系ね」
「玄人ぶるのはやめた方がいい。君はまだこのゲームに触れたばかりで、奥深さを知らないんだからね」
「私が言ってるのは、この女は叫び系ってこと。女に触れたことがないから、セックスの奥深さを知らないのね」
マリ子がしてやったりと笑うと、勝ち誇ってたかしとハイタッチをした。
「もうゲームは終わりだ! ソフトは渡すから、自分のパソコンにインストールして続きをやって!」
明夫はマリ子のせいで台無しだと、地団駄を踏むような足音を鳴らして、自室にゲームロムの入った箱を取りに向かった。
それからしばらくしてから、走り慣れていない全力疾走で明夫が戻ってきた。
「僕のエロゲが盗まれた!」
「興味があるのは、明夫の友達だろう。聞いてみろよ」
「そんなはずはない。奴らが人の道を踏み外すのはゲームの中だけって決まってるからね」
「じゃあ、オレ達が勝手に持って行くと思うか?」
明夫はたかしとマリ子の顔見てから、「それはない……」と首を傾げたのだった。
その頃。家に帰った京はパソコンの画面を見ながら「へぇ……叫び系なんだ……」と呟いていた。